「発達障害があったから世界で読まれる作家になれた」『いま、会いにゆきます』作者を襲ったパニック症状と不安…苦しみながらも13年間書き続けた理由【市川拓司さん・後編】

前編では、ASD・ADHDの特性を持ち、学校では「問題児」と呼ばれながらも、心折れず、揺るぎない自尊心を持ち続けてきた市川拓司さんの少年時代について伺いました。しかし、その青春の日々は、ある日突然「崩壊」を迎えます。20代で経験した死の恐怖、そして暗黒の会社員時代でした。

いかにして絶望の淵から立ち上がり、ベストセラー小説を生み出すに至ったのでしょうか。すべての経験が「今につながる伏線だった」と語る市川さんの歩みを、紐解きます。

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大学時代の絶頂期「窒息するような死の恐怖」が襲った日

――中学時代は教師や部活仲間からのいじめにお母さまのお世話など大変な時期を過ごされましたが、高校生活はいかがでしたか。

市川 拓司さん(以下、市川さん):高校に入ってから、ようやく「この人いい人だな」って信用できる先生に出会えました。進学校じゃなかったのが大きかったですね。大学に行くのが学年で10人ぐらいの高校だったので、先生も勉強しろって言わないし、風紀もそこまで厳しくない。先生も自由に、裏表なく兄貴分みたいに接してくれて。今もそのときの先生とは付き合ってます。

――中学に続き、高校、大学でも陸上を続けられていたそうですね。大学時代には全日本ランキングに入るほどのご活躍だったとか…。

市川さん:当時の僕は、まるで1日が48時間あるかのような全能感の中にいました。夜も眠らずに20キロ走り込み、食事はカップラーメンとヨーグルトだけ。ほかにも趣味のロックやバイクに、絵や漫画も描いて…。まさに青春の絶頂で、自分の体を極限まで追い込んでいました。

――とても充実した日々だったのですね。その後、どのような変化があったのでしょうか。

市川さん:まさに「燃え尽きて」しまったんです。大学2年生の冬ごろ、いつものように競技場で50周ほど走り終えた直後のことでした。突然、息ができなくなったんです。どうあがいても空気が入ってこない。「このまま窒息して死ぬんじゃないか」――そんな直感とともに、凄まじい死の恐怖に襲われ、パニック状態になりました。

『いま、会いにゆきます』(小学館)などベストセラーを手掛ける市川拓司先生

――とても強い恐怖感だったのですね。

市川さん:そうです。実際には、窒息するから怖いわけではありません。理由のない「恐怖そのもの」が、内側から爆発するような感覚なんです。それからは不安障害特有の、理不尽なほどの恐怖が続くようになりました。

――自信に満ちた生活が、一変してしまったのでしょうか?

市川さん:そうなんです。予期不安に支配されて、半年ほど大学にも行けませんでした。電車にも乗れないし、人混みに行くこともできない。

実は、今でも同じような発作が起きることもあります。真夜中に目が覚めて、ひとりで震えることもあります。でも、20分ほど耐えれば、かならず治まるとわかっている。そうやって、うまく付き合う方法を見つけてきました。

「書かなきゃあかん」――環境の変化が導いた、作家という選択

――作家を目指されたきっかけも、これまでのご経験と深くかかわっているのでしょうか。

市川さん:はい、大きく関係しています。ただ、最初から「作家になりたい」と思っていたわけではありませんでした。

大学時代に経験した、強い恐怖感が落ち着いたあと、26歳で結婚しました。その直後、子どもを授かったことがわかり、再び激しい恐怖感に襲われたんです。僕は、環境の変化に極端に弱いんですよね。「親の子ども」だった自分が、「子どもの親」になる――その大きな変化に、脳が悲鳴をあげたのだと思います。

そしてそのとき、なぜか衝動的に「小説を書かなきゃあかん」と思ったんです。

――「書きたい」ではなく、「書かなきゃいけない」だったのですね。

市川さん:そうなんです。「抑圧の解放」に近いのかもしれません。自分の中にある不安を言葉にすることで、少しずつ心を落ち着かせていくような感覚でした。

初めて書いたのは、妊娠中の妻に読ませるにはためらわれるような、かなり悲劇的な恋愛小説でした。でも、それを読んだ彼女が涙を流すのを見て、「ああ、自分には小説を書く力があるのかもしれない」と手応えを感じたんです。

小学生のときに作文を褒めてもらえたことも励みに

――市川さんは、子どものころから文章を書いていたのでしょうか?

市川さん:はい、もともと物語を書くのが大好きでした。振り返ると、5歳のころから物語をつくり始めて、小学校3年生のときには、作文を先生に絶賛してもらえたことが、今でも強く記憶に残っています。母も「たくじ、すごいね」と喜んでくれて、本当にうれしかったですね。

「自分を認めてくれる人がいるんだ」と感じましたし、自分が生み出したもので誰かが笑顔になってくれることにも、大きな喜びを感じました。

適性ゼロの会計事務所時代を経て…39歳の作家デビュー

――デビューまでの間、会社員として働かれていた時期もあったそうですね。

市川さん:はい、会計事務所に勤めていました。ただ、これがもう、ADHDの特性とは最悪の相性で(笑)。

書類の数字を書き写す作業が多いのですが、500万円を300万円と書き間違えてしまう…なんてこともありました。事務所に大きな損害を与えてしまったこともあります。

――それは…かなり大変な状況ですね。

市川さん:そうですね。自分としても精神的につらくて、毎朝、出勤途中の車中で激しい腹痛や動悸に襲われていました。

それでも、会社員として働きながら、帰宅後は毎晩小説を書き続けていました。多いときには、3本の連載を同時に進めていたこともあります。パソコンに向かって文章を書いている時間だけは、自分が自由でいられる感覚がありました。

――そして39歳でのデビューまで、長い積み重ねがあったのですね。

市川さん:当時はちょうどパソコンやインターネットが広まり始めたころで、自分で作ったウェブサイトに小説を公開していたんです。それを読んでくださった方の間で少しずつ評判になり、編集者の方から声をかけていただきました。

ただ、最初から順調だったわけではありません。出版にこぎつけるまでにも時間はかかりましたが、小説を書くことだけはやめませんでした。会社員として働きながらでも、「書くこと」という自分の好きなことだけは手放さなかったんです。

僕は、好きなことが見つかると、とにかく全力で向かってしまう性格なんです。その積み重ねが、結果として今の仕事につながっていったのかもしれません。

「無駄のない人生」――すべての特性は伏線だった

――市川さんのご著書『発達障害のぼくが世界に届くまで』では、「発達特性があったからこそ、世界で読まれる作家になれた」ともおっしゃっていますね。

市川さん:その通りだと思っています。僕の人生には、無駄だったできごとは、ひとつもありませんでした。

一生懸命恋愛して、バイクで日本一周した経験がベストセラーになった。精神的にも苦しんだ経験があったからこそ、人の生や死について深く考えることができた。会計事務所で「役に立たない人間」だと言われたからこそ、社会の片隅で生きている人の痛みも理解できるようになった。多動の特性で夜通し歩き回っていた孤独な時間も、植物や鳥の名前を執拗(しつよう)に覚えてしまう「ASD特有のこだわり」も、今振り返ると、すべてが物語の血肉になっているんです。

自作している先生のガラス作品

――ご自身の特性が、作家としての力にもつながっている…ということでしょうか?

市川さん:はい。ASDの特性でもある「こだわり」や「持続力」も、作家にとっては非常に大きな強みだと思います。普通の人なら途中で飽きてしまうことでも、僕は何十年も続けられるんです。実際、10代から50年以上小説を書き続けていますし、妻とも15歳のころからずっと一緒にいます。僕は一度縁ができたものは簡単には手放さないし、やり始めたことも途中でやめないんです。

――「生きづらさ」にも思える特性が、強みにもなりうるということですね!

市川さん:そうですね。周囲からは理解されにくいこともあると思います。でも、そうした特性の中にこそ、思いがけない可能性やきっかけが隠れていることもあるんですよ。

子どもたちの「心」を、なによりも大切にしてほしい

――最後に、今まさに発達特性のあるお子さんの子育てで悩んでいる親御さんへ、メッセージをお願いします。

市川さん:まずお伝えしたいのは、「子どもたちの心」を最優先にしてほしいということです。

これからはAIの時代で、何か一芸を持っていたりするほうが強みになるかもしれませんよね。発達障害の子、特に自閉系の子たちは、好きなことへのこだわりが強いことが多い。僕のこの家なんか、まさにそのこだわりの集大成です。

自然に囲まれたこだわりのお家

市川さん:その子が何に夢中になれるのかをよく観察して、人よりも突き出ている部分に「すごいね」と声をかけ、一緒に喜んであげてほしいです。

――「普通」に合わせようとすることよりも、大切にするものがあるということでしょうか?

市川さん:はい。たとえ学校に行けなくても、社会からドロップアウトしたように見えても、それで人生が終わるわけではないんです。僕のように、どこへ行っても「問題児」と言われていた人間でも、こうして楽しく生きていける時代です。

だからこそ、近くにいる親御さんが、その子のいちばんの味方でいてくれたら、と願っています。

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【ベストセラー作家・市川拓司さん】ADHDと自閉症スペクトラムを持ち、ヤングケアラーだった幼少期。「学校では問題児、いじめも…」折れない心を育てたのは“母の愛”
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著書をチェック

市川 拓司 筑摩書房 968円(税込)

世界中に『いま、会いにゆきます』をはじめとする作品を届けてきた作家・市川拓司さん。その物語は、どのような日常の中から生まれているのでしょうか。

本書は、自身の発達特性と向き合いながら、どのように作品を生み出してきたのか――その思いや軌跡をつづった一冊です。

 

お話を伺ったのは

市川 拓司 作家

1962年、東京都生まれ。獨協大学卒業。1997年よりインターネット上で小説の発表を開始し、2002年に『Separation』でデビュー。2003年発表の『いま、会いにゆきます』は映画化・テレビドラマ化され、大ベストセラーとなる。
主な著作に『恋愛寫眞』『そのときは彼によろしく』『ぼくの手はきみのために』『弘海』など。2016年には『ぼくが発達障害だからできたこと』を刊行。以降は発達障害(ASD・ADHD)の当事者として、執筆や講演などを通じて積極的に発信を続けている。

取材・文/牧野 未衣菜 撮影/横田 紋子

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