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楽しいはずの旅行が、試練のようになってしまう
旅行は家族の大切な思い出づくりや子どもの成長の機会。でも発達障害のある子どもをもつ家族にとっては、ハードルが高いのが現実です。「周りに迷惑をかけたら…」「パニックになったら…」などの不安から、旅行自体をあきらめてしまう家族も少なくありません。
そんな中、重度の知的障害を伴う自閉症のある29歳(渡航時)の息子さんと初めての海外旅行に挑戦したのが、川上朋子さん。東京都自閉症協会で理事を務めるほか、地域の市民団体「アートパラ深川」の活動にも参加しています。

「息子の航(わたる)は人が好きで、環境の変化も苦手じゃないんです。でも旅行となると、親の私のほうが人の目を気にしてしまうことがあります。周りから見たら変わった行動に見えることもあるし、実際に注意されることもありますから」
航さんは、人は好きですが人混みは苦手。そのため、旅館で食事中に人のいない場所を探して歩き回り、「お客様にフラフラされると困ります」と声をかけられたこともあるそうです。これまで旅行は家族だけで楽しんできました。
川上さんが理事を務める東京都自閉症協会には、さまざまな悩みをもつ家族がいます。飛行機でパニックを起こし運航を止めてしまったという例もあれば、迷惑にならない場所を探して、人のいない埋め立て地の工場地帯へおでかけしているという家族もいるそうです。
最近は、空港やイベント会場でカームダウンルーム(※音や光の刺激でストレスを感じた際に気持ちを落ち着かせられる場所)も増え、発達障害への理解や対応が進みつつあるものの、まだまだ旅行のハードルは高いといえます。
初の海外旅行のドバイでは、人の目が気にならなかった

今回のドバイ旅行は、「認定自閉症観光地™」となったドバイへの障害者施設の視察ツアーに、アートパラ深川の仲間から誘われたことがきっかけでした。川上さんは「息子のことをよく理解してくれる仲間と一緒なら」と参加を決めました。
航さんは、国内線は乗ったことがありましたが、国際線は初めて。しかも約11時間の長距離フライトです。利用したエミレーツ航空が、2025年に世界初の自閉症認定航空会社™として認定されていたことが、安心感につながったそう。
エミレーツ航空では、事前に申請すると、スタッフに自閉症であることが伝えられます。また、外見からは分からない障害への配慮が必要な印として「ひまわりストラップ」の用意もあります(今回はたまたま在庫切れだったそうですが)。結果的にフライトは全く問題なかったそうです。
「お母さん、楽しんでますか?」親への配慮に感動
「ドバイ滞在中に、ドバイ経済観光庁の方にお会いしたのですが、第一声が『お母さん、楽しんでますか?』だったんです。まずそれに感動しました。当事者以上に、親がどれだけ楽しめているかが大事なのだとおっしゃっていましたね。確かに私がリラックスしていれば息子も楽しいですもんね」
観光立国として、どんな人でも旅行しやすい国を目指すドバイ。200カ国以上の国籍を持つ人々が暮らす街であり、お互いの違いを自然に受け入れる寛容さがあります。
「日本との大きな違いが、まさにその寛容さだと思いました。実は現地へ着いて、自閉症対応の環境整備がそれほど多くないのが意外でした。認定自閉症観光地™というくらいなので、ピクトグラム(案内記号)やカームダウンルームが、もっとたくさんあるのかと思っていたんです。ただ実際に滞在してみると、ハード面の整備も大切ですが、それ以上に人々のマインドが重要なんだと納得しました」
ドバイにある「特別扱いしない優しさ」

スーク(市場)では、買い物に夢中の一行から離れた航さんが、いつのまにか現地の若者たちと一緒に座っていたことも。「日本だとすぐに『家族はどこ?』と心配して私を呼びに来ます。大らかだなと思ったし、息子が現地の若者になじんでいる様子が微笑ましかったですね」と楽しそうに振り返ります。

「それから息子は初めて会った人に名前を聞くのが大好きなんです。コミュニケーションを取りたい気持ちの表れなのですが、日本では戸惑われることも多くて。でもドバイでは、みんなニコニコして『モハメド』とか教えてくれるんです。難しい発音を息子は一生懸命メモしていました。会う人みんなに聞いていて、楽しそうでしたね」
最終日には、高級ホテルのレストランで食事をすることになり、同行者が事前に航さんも行くことを伝えると、ホテルの担当者からは「だから何? そんなこと、わざわざ言わなくてもいいんじゃない?」と返されたそう。そんなやりとり一つからも、あらゆる人を当たり前に受け入れようとする姿勢が見えます。「いい意味で、特別扱いはされないので、親としても周りの目が気になりませんでした」と川上さん。
ドバイが認定された「認定自閉症観光地™」とは?

2025年、ドバイは国際資格認定・継続教育基準委員会(IBCCES)によって、東半球初の「認定自閉症観光地™」に認定されました。空港やホテル、観光施設のスタッフ7万人以上が自閉症の研修を受講し、理解を深めています。ホテルや観光施設のほか、エアラインや空港なども対象で、多くのシーンで誰もが快適に過ごせる環境づくりが進んでいて、安心して旅しやすい環境が整っています。
旅先での成功体験で、帰国後の日常に変化が!
旅行中にはこんなこともありました。ホテルでの朝食時、有料のドリンクを飲みたがった航さん。現地の通貨は持っていないのに、突然コーラを手に現れて「買った」と言ったそうなのです。
「慌ててバーカウンターに確認に行ったら、スタッフが『It’s OK』って。実は息子は『20』と書かれたメモを見て、財布から20円を出して渡したんです。それに対してスタッフは笑顔でコーラを渡してくれて」

ドバイの通貨はディルハムなので、20ディルハムは約800円相当。実際の金額は足りていません。コーラを渡してくれたのはスタッフの配慮です(※差額はお支払いしました)。ちなみにこのホテルも自閉症の研修を受けていました。
この体験で、帰国後一人で買い物に行けるように
この「自分一人で買い物ができた」という成功体験は航さんを大きく変えました。
「自信がついたんだと思います。周りのみんなが『すごい』と言ってくれたので、なおさらだったのでしょう。それまでは自動販売機でしか買い物をしたことがなかったのですが、帰国後は一人でコンビニに行くようになったんです」
このオンライン取材中も、コンビニ帰りの航さんが川上さんにクッキーを渡していました。
「息子にプレッシャーをかけることもなく、息子は息子で楽しめる環境でした。トラブルは本当になかったんですよ。20円でドリンクを買ったのも、ほのぼのエピソードになっていますし(笑)」
ドバイで感じた「違いを受け入れる柔軟性」
5日間の旅では、ドバイを象徴する人工島パームジュメイラを上から眺めたり、車で1時間の砂漠でサファリ体験をしたりと、川上さん自身も観光立国であるドバイの多様な魅力を満喫しました。
「ドバイを含むアラブ首長国連邦は今年で建国54周年の若い国で、多様な背景をもつ人々が集まる街だからこそ、違いを自然に受け入れる柔軟性があるのかもしれません。ドバイのような場所なら、今度は2人だけでも旅できそうです」
今回は同行した仲間たちとの関係も深まりました。
「いろいろな場所でたくさんの経験をさせて、多くの人に出会うことは、息子を通して障害を知ってもらう入り口にもなると思います。そうやって自然に理解が広がってほしいですね」
誰もが当たり前に旅を楽しめる社会になるには

今回のドバイ旅行は、航さんが環境の変化があまり問題ないタイプだったからこそ実現できた面もあります。子どもの特性によっては、もっと慎重な準備も必要になりますし、必ずしも誰もがドバイ旅行を楽しめるわけではないでしょう。
「ただ誰が旅をするにしても、ハードの整備はもちろん重要ですが、そこにマインドがあるかどうか、実はそれが一番大事だと感じています。現地でドバイ経済観光庁の方に言われた、『こういう子が過ごしやすければ、みんなが過ごしやすい』という言葉が心に残っているんです。みんなというのは誰でも、ということ。普通の人だって悩みはあるし、そもそも普通って何なのでしょうね。
障害を持つ子どもや家族が本当に必要としているのは、特別扱いではなく、みんな違って当たり前という、ごく自然な寛容さ。それがあれば、障害のある人もない人も、きっと旅もしやすくなるだろうし、もっと幸せに生きやすくなると思っています」
障害の有無に関係なく、違いに優しい目を向ける。そんな小さな一歩が、誰もが笑顔で旅できる未来につながっていくのかもしれません。
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取材・文/古屋江美子 写真提供/川上朋子、ドバイ経済観光庁
