前回の記事はこちら
目次
私立中学の特進コースに選ばれ、中2の授業料免除を目指す
――小学校6年の夏から猛ピッチで受験勉強を始め、合格したのが郁文館中学校でした。残念ながら狙っていた入学金・授業料免除は果たせませんでしたが、それでも受験のときの成績が良く、1年生から特進クラスだったのですね。
はい。ただ、父は特進コースだからそれでいい、とは思っていませんでした。「入学後も授業料免除を目指せ」と。さらに、「大学は早慶か国公立じゃないと学費は出さない。そのつもりで6年間勉強しなさい」と言われました。都立の中高一貫校に合格していれば学費はもっと安かったはずなので、そう言われても仕方がないかなと思い、「頑張ります!」と言って、勉強の手はゆるめませんでした。
中2から高1まで成績優秀で授業料免除
中1の成績で中2の授業料免除が決まる、というシステムで、次の年度の免除を狙うためには前年に学年1位とか2位とかを取らないといけないので、気が抜けないんです。結局、中2から高1まで授業料は免除になりました。高1からは仕事を始めてしまったので、高2と高3は3位以下でしたが。
こんなふうに言うと「すごく厳しい教育パパ」「子どもの学費を出したがらないパパ」に思われるかもしれませんが、そんなことはないんです。父とはふたりでドライブするくらい仲がいいです。要するに父が言いたかったのは、「何も努力せずに自分のやりたいように生きていけると思うな」ということだったのだと思います。
――塾は行かれていましたか?
行っていませんでした。そんな暇がなかったというか、授業料免除は定期試験の成績で決まるので、しっかり授業を聞いて理解しているか、というところが大きいんです。だから、とにかく全教科、トップクラスになるように自主勉強でがんばりました。
MYノートが認められた地理の授業
中学1年生のときの地理の先生は、ほとんど板書しないことで有名でした。「俺は板書はしません。口頭で伝えたところはテストに出ます」と手強かったのです。その授業で、話していることを集中して聴く力は鍛えられましたね。その上で聞き漏らした箇所は先生のところに行って教えてもらっていました。
地理なので覚えないといけない用語がたくさんあったのですが、自分なりの方法でテストを乗り越えました。先生の授業で出て、かつ重要な単語をノートに書くときには下線だけ引いて空欄にします。授業が終わった後の休み時間や放課後に、そこをピンクやオレンジのフリクションペンで埋めて答え合わせをします。間違えた経験があるものは、小さい×印をしておきます。
ここまでやっておけば、赤シートで隠して何度も自分でテストできる。自分だけの参考書ノートができあがります。家に帰ってからノートづくりをする時間はもったいないし、宿題もあるので、学校でここまでは終わらせておきました。
地理の先生からは「山崎だけノートの冊数がすごく多い」と言われ、数えたら1年間で8冊もありました。年度末に先生に「くれ」って言われたので、そのノートを差し上げました(笑)。
中学では先生に恵まれ、勉強自体にやりがいが生まれた
――しっかり勉強をする山崎さんのことを、先生は気に入っていたのでしょうね。
郁文館の先生は一見放任主義のようで、向上心のある子は引っ張り上げてくれました。英語の先生はスパルタで、「ついてこられる生徒しか教えない、サボる人は置いていく」というタイプで、本当にやらない子は置いていかれていましたね。クラスで先生の英語についていけていたのは5人くらいだったのですが、やる気のある子には本当に手厚かったです。
先生たちとの出会いに恵まれて、勉強自体がすごく楽しくなりました。大変でしたけれど、自分も「やればできるんだ」という実感も生まれました。
特進クラスの子たちとはよきライバル、よい関係に
――勉強はとても楽しめたのですね。お友達関係はどうでしたか?
小学校の頃はあんなにクラスメイトに違和感があったのに、特進クラスの仲間とは仲が良くて楽しかったです。5クラスの中の1クラスが、私がいた特進クラスなのですが、学年が変わってもメンバーがほぼ変わらないので、より仲良くなって、3年間楽しく過ごしました。定期試験があるたびに教科別と総合成績でランキングが貼られるのですが、「今回はあの子がすごい」などと言い合い、お互いをリスペクトする関係でした。
土曜日も半日学校があり、週6で会っているのに、日曜日にも会って遊ぶこともありました(笑)。試験前になると学校に残って一緒に勉強し、「物理がわからなければ○○くんに」「英語なら○○ちゃん」など、得意分野を教え合う仲間がいたから頑張れました。奨学金を争う形にはなりますが、嫉妬心などはなく、いいライバル関係でした。その頃の友達とは、今でも付き合いがあります。
ある日突然、オーディションの二次審査の知らせが…
――そんな勉強に忙しい中、芸能活動も始められるのですよね? お母様が「勉強ばかりではなく、コミュニケーション力をつけることが大事」と応募されたとか。
学校から家に帰ってポストを開けたら、私宛にソニー・ミュージックエンターテイメントから封書が届いていて。中を見たら乃木坂46の二期生メンバーオーディションの通知書だったんです。後々母が一次審査に応募していたことがわかり、いったい何考えてるの!? と思ったけれど、社会性の部分を心配していたのかもしれません。クラスメイトとは仲がいいけれど部活もやっていないし、人と群れで生活するのを避けていたから、このままでは将来が心配。グループで経験を積んだほうがいいと思ったのかもしれません。
いざ迎えた二次審査の日
けれど、せっかく来たチャンスを捨てるなんて負けず嫌いな私にはできないだろうと、母は予想したんでしょうね。結局、母の策略にハマって挑戦することになりました。
審査の日は土曜日の午前中、学校の授業があったので、私はソニー・ミュージックに自分で電話して、「夕方に参加させてもらえませんか」と頼みました。
その日は学校が終わってそのまま制服にスッピンで行きました。挑戦してはみたものの、準備というほどのものはしていないし、習い事もやったことがないので「得意分野の披露」と言われてもピンとこなくて。思いつきで、英語の暗唱コンテストのために準備していたチャップリンの映画『独裁者』に出てくる演説をやったんですよね。
歌もマストだったので、英語の勉強がてら聴いていたテイラー・スウィフトの『mine』 を歌って。そんな調子だったのに合格をいただいてしまいました。
欠席20日ににならないように仕事を調整して学校へ
――そこからが大変ですよね? 仕事と特進クラスの両立はどうされたんですか?
オーディションに合格したのが中3から高1に上がる3月28日だったんです。中3の秋には「高1から国公立志望コースに行く」と決めてしまっていたので、そこからは記憶が飛ぶくらい忙しく、必死でした。
学校は欠席日数20日を超えると留年になってしまうんです。ただ、遅刻と早退は3回で1回欠席扱いという計算になっていましたから、当時の事務所の人たちと相談して、朝ホームルームだけ行って仕事に出るとか、5、6時間目だけなんとか出るなど工夫して、1日まるまる欠席にならないように計算していました。授業に出られなかった分は友達にノートをうつさせてもらったり、先生に聞きに行ったりと四苦八苦で、記憶がないくらい忙しい日々でしたね。
高校ではあえて国公立コースを捨て、私大文系コースから慶應SFCに合格!
――がんばっていらっしゃいましたが……その後の成績は?
高1の最終成績は8位で、高2の授業料免除は果たせませんでした。仕方がないですよね。そうなったら国公立志望コースにいる必要もないかな、ということもあって、高2から私大文系コースに変更しました。
とはいえやっぱり学校と仕事の両立は大変で、全力でがんばっても苦しそうな私を見て担任は「もう大学は行かなくてもいいんじゃない?」なんて言ってくれました。でも、大学進学を諦めてしまっては、私立の中高一貫校に進学させてもらった意味もなくなってしまう、と思いました。芸能の仕事でずっと食べていけるとは限らないという思いもありました。
そもそも、中学受験をしようと思ったのは、自分の人生の選択肢を増やそうと思ったから。その先に大学という要素は私にとって大事だったし、芸能のために大学に行かないという選択肢は自分の中になかったんです。
高3の6月から、AO入試の対策をしてくれる塾にも通いました。青山学院大学と立教大学は落ちてしまったんですが、試験が一番最後だった慶應大学湘南藤沢キャンパスの環境情報学部に合格することができたんです。慶應大学の面接がすごく楽しかったのをいまでも覚えています。
充実した中高生活。やはり中学受験をしてよかった!
――すごいですね! 3年間授業料免除で慶應大学合格。お父様の厳しい条件もほぼ果たしました。6年間、充実しすぎるくらい充実していましたね。
仕事と学業の両立は、試験勉強、課題、プレゼン準備、ダンス練習、SNSでのファンへの発信など、自分の中でいろんなプロジェクトが同時進行しているような感じでした。でも、自分で選び取った中学受験で得たものはとても大きかったですし、とにかく刺激的な毎日でした。
受験で何校か落ちたとしても、受かった学校で全力を尽くせばいい。「置かれた場」でベストを尽くせば、そのあとにいい景色も見えてくるんじゃないでしょうか。
――合格した中学・高校で大きく花を咲かせた山崎怜奈さん。どんな中学受験でも価値があることを教えてくれますね。今後の山崎さんの挑戦にも期待しています!
こちらの記事もおすすめ
プロフィール
1997年5月21日生まれ、東京都江戸川区出身、慶應義塾大学卒業。2022年に乃木坂46を卒業。TOKYO FM『山崎怜奈の誰かに話したかったこと。』などでラジオパーソナリティを務める他、歴史好きとしても知られており、クイズ番組や教育番組にも多数出演。『歴史のじかん』(幻冬舎)の出版をきっかけに、エッセイの連載を持っている。2024年4月~読売テレビ『ウェークアップ』
取材・文/三輪泉 撮影/黒石あみ ヘアメイク/田中康世(nous) スタイリング/マルコマキ