新選組はどんな組織だった? 結成から終わりを迎えた原因まで【親子で歴史を学ぶ】

新選組は、江戸時代の終わり頃に名を馳せた浪士の集団です。揃いの隊服に身を包み、得意の剣術を繰り出す姿は、現在も歴史ファンの間で根強い人気があります。新選組結成の背景や活動内容、主要メンバーのエピソードを紹介します。

新選組とは?

「新選組(しんせんぐみ)」の名を知っていても、何のための組織だったか知らない人もいるかもしれません。当時の新選組が担っていた役割を解説します。

幕末の京都の治安を守る組織

新選組とは、幕末の京都で活動した、幕府の警察組織です。最盛期には200人近くの隊士が在籍し、京都の治安維持や反幕府勢力の取り締まりにあたりました。

新選組の最大の見せ場は、1864(元治元)年に起こった「池田屋事件」です。反幕府勢力によるクーデターを未然に防いだ功績により、組の名は一気に知れ渡ります。

新選組は、沖田総司(おきたそうじ)や斎藤一(さいとうはじめ)など、剣の達人が多く所属したことでも有名です。彼らが愛用した刀もまた、歴史にその名を刻んでいます。

浅葱色(薄い青緑色)のダンダラ羽織が新選組の隊服だったといわれるが、実際の羽織は現存していないので正確なデザインはわからない。

新選組が結成されるまでの流れや特徴

新選組は、情勢がめまぐるしく変化する幕末にふさわしい、特異な存在でした。結成の流れと隊の特徴を見ていきましょう。

新選組が結成された理由

新選組が結成された背景には、京都の治安悪化がありました。当時の京都は、反幕府の思想を持つ浪士たちが「天誅(てんちゅう)」と称するテロ行為を繰り返しており、大変危険な状態だったのです。

1863(文久3)年、孝明(こうめい)天皇に拝謁(はいえつ)するために、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛が決まると、幕府は京都の治安を回復させる必要に迫られました。

そこで、武芸に秀でた浪士を募集し、先遣隊(せんけんたい)として京都に向かわせます。「浪士組(ろうしぐみ)」と呼ばれたこの集団の一部が、後に新選組となりました。

「壬生浪士組」が前身

京都に到着して間もなく、浪士たちは驚きの事実を知らされます。浪士組を企画した「清河八郎(きよかわはちろう)」が、実は反幕府側の人物だと分かったのです。

だまされた浪士たちは江戸へ戻ることになりましたが、水戸藩(現在の茨城県)出身の芹沢鴨(せりざわかも)や、江戸で道場を経営していた近藤勇(こんどういさみ)は京都に残り、幕府のために働くことを望みます。

彼らは京都守護職(京都の警備を担当する幕府の役職)を務める、会津藩(現在の福島県)を頼りました。会津藩では彼らの身柄を預かり、壬生村(みぶむら、現在の京都市中京区)に宿所を用意して、治安維持活動に従事させます。

宿所の地名から「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」と呼ばれたこの一団が、新選組の前身です。

新選組発祥の地跡(京都市中京区)。近藤や土方の宿所であった八木邸が、そのまま壬生屯所となった。1863(文久3)年に芹沢鴨一派が粛清された奥座敷が残っており、そのときの刀傷もある。正面に見える長屋門は1804(文化元)年の建築で、京都市指定有形文化財。

会津藩より「新選組」の名が与えられる

1863年8月18日、壬生浪士組は会津藩から、御所(ごしょ)の警備を命じられます。

この頃、反幕府の主力であった長州藩(現在の山口県)は、同じく幕府に反感を持つ公家(くげ)に近づき、大きな勢力となっていました。

会津藩は薩摩藩(現在の鹿児島県)とともに、反幕府派の公家や長州の有力者を、御所から追い出すクーデターを実行します。

長州藩が何をするか分からない状況のなか、腕の立つ壬生浪士組は、大変頼りになる存在でした。壬生浪士組は、御所の門前に迫る長州藩の援軍を撃退し、見事に期待に応えます。

会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)は、彼らの功績をたたえ、「新選組」と名付けて公式に配下としました。

新選組の特徴

過激な浪士と戦う新選組の仕事は大変過酷で、けが人や脱走者が相次ぎます。このため身分や年齢に関係なく、腕に覚えのある人なら誰でも歓迎されました。

局長の近藤勇が農民の出だったことも、新選組の採用方針につながっているといえます。

新選組といえば、赤い「誠」の旗と、水色(浅葱色)の羽織をイメージする人も多いでしょう。「誠」の字は、自分たちを取り立ててくれた幕府や会津藩への、忠義の証(あかし)とされています。

羽織は歌舞伎の「忠臣蔵」を意識してデザインされたもので、水色と白のコントラストがとても爽やかです。しかし、この羽織は目立つうえに動きにくかったため、実戦には向かず、間もなく黒い隊服に変更されたといわれています。

新選組の主要メンバー

新選組の人気の背景には、主要なメンバーの存在が大きく影響しています。抜きん出た剣術や頭脳が印象的な、有名隊士を紹介します。

近藤勇(こんどういさみ)

近藤勇は新選組の局長として、隊士をまとめた人物です。

武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)の農家に生まれますが、剣術の才能を見込まれ「天然理心流(てんねんりしんりゅう)」の宗家、近藤家の養子に迎えられます。

 

近藤勇の銅像(東京都調布市)。故郷の上石原宿にあり、甲陽鎮撫隊で近藤勇が甲州に向かう時、休息を取ったといわれる西光寺にある。近藤勇座像の左横には西南戦争で戦死した地元の人々の招魂碑もある。

 

彼が経営する道場「試衛館(しえいかん)」には、後に隊士として運命を共にする人物が、何人か通っています。京都で壬生浪士組を結成した後、近藤は問題行動の多かった芹沢鴨を粛清(しゅくせい)し、局長の座に就きます。

池田屋事件では、数十人の浪士を相手に戦い、勇猛ぶりを見せつけました(1864)。

土方歳三(ひじかたとしぞう)

新選組の副長として、近藤勇を支えたのが、土方歳三です。

武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の農家に生まれた土方は、地元の道場に出稽古(でげいこ)に来ていた近藤と知り合い、門弟となりました。

土方歳三の銅像(東京都日野市)。1835(天保6)年、農家の10人兄弟の末っ子として誕生する。銅像のある高幡不動尊金剛寺は菩提寺で、大日堂には位牌が安置されている。

 

剣の腕前はもちろん、組織を管理する能力に優れており、素性すらよく分からない浪士の集団をまとめます。厳しい規律を設けて、破った隊士を容赦なく処罰したため、「鬼の歳三」と恐れられました。

新政府軍と旧幕府軍とが戦った戊辰(ぼしん)戦争では、旧幕府軍の一員として最後まで抵抗を続けましたが、北海道の五稜郭(ごりょうかく)で新政府軍の銃弾を受け、35歳で亡くなっています(1869)。

沖田総司(おきたそうじ)

沖田総司は、新選組の一番隊隊長を務めた天才剣士です。白河藩(現在の福島県)の藩士の子として江戸で生まれ、9歳で試衛館に入門して剣術を学びました。

19歳で免許皆伝となった沖田は、近藤の下で師範を務めます。それほどの剣豪でありながら、沖田自身は誰にでも好かれる無邪気な性格で、近藤や土方も沖田を家族のようにかわいがっていたそうです。

一番隊の隊長として、組織の中心となって活躍した沖田でしたが、間もなく「労咳(ろうがい・肺結核のこと)」を発症し、戦線を離脱します。戊辰戦争の最中に江戸に戻り、療養を続けるも回復せず、20代後半の若さで世を去りました(1868)。

永倉新八(ながくらしんぱち)

永倉新八は沖田と並び、新選組きっての剣豪と評された人物です。二番隊の隊長を務め、常に第一線で活躍しました。

永倉は松前藩(現在の北海道松前郡)で、幕府との連絡係を担当する藩士の家に生まれます。8歳で剣術の名門道場に入門し、腕を上げていきました。

やがて試衛館で近藤に出会い、意気投合した永倉は浪士組に参加し、新選組の主要メンバーとなります。

戊辰戦争で多くの隊士が命を落とすなか、数少ない生き残りとなった永倉は、亡くなった隊士の慰霊や、記録の作成に尽力しました。

斎藤一(さいとうはじめ)

斎藤一は、三番隊隊長や近藤直属のスパイとして暗躍した人物です。幕府の御家人(ごけにん)の次男として江戸で生まれ育ち、剣術修行の一環として、試衛館にも出入りしていたようです。

10代後半のときに、口論から人を殺してしまった斎藤は、父親の知り合いが経営する京都の道場にかくまわれることになりました。道場での斎藤は、ひたすら稽古に励み、師範代を務めるまでに上達します。

その後、浪士組として近藤が京都に来たことを聞き、入隊を志願したと伝わっています。

永倉と同様、戊辰戦争を生き長らえた斎藤は、戦後「藤田五郎(ふじたごろう)」と名を変え、警視庁に入りました。

年齢を重ねても剣の腕は衰えず、剣道の試合では、誰も斎藤の竹刀(しない)に触れることができなかったといいます。

新選組の功績は?

新選組は、京都で、どのような功績をあげたのでしょうか。最も評価されている、池田屋事件の概要を紹介します。

池田屋事件

1864年、京都では長州藩や土佐藩(現在の高知県)出身の浪士たちが集まり、不穏な動きをしていました。彼らは御所に放火して市中を混乱させ、その隙に幕府要人を暗殺して天皇を拉致(らち)する計画をたてます。

市中見廻りによって計画を察知した新選組は、池田屋という旅籠(はたご・旅館のこと)が浪士の潜伏場所であることを突き止め、奇襲をかけます。激しい乱闘の末に、浪士10人が命を落とし、23人が捕縛されたといわれています。

暗殺のターゲットには、後に15代将軍となる一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が含まれていたため、新選組は幕府からも高く評価されます。京都の街を火災から救ったことで、市民の間でも一躍人気者となりました。

三条大橋擬宝珠(ぎぼし)の刀傷跡(京都市)。京都三条木屋町の池田屋で起こった事件で、近藤勇は書面で「洛陽動乱」と名付けている。擬宝珠に刀傷があるほど、激しい戦闘が繰り広げられたことだろう。事件地には「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑が立っている。

新選組の終わり

剣豪揃いの新選組も、時代の流れには逆らえず、終わりのときを迎えます。新選組の最期にまつわるエピソードを見ていきましょう。

戊辰戦争

1867(慶応3)年11月、15代将軍徳川慶喜が「大政奉還」を行い、朝廷に政権を返上します。しかし徳川家の威光は健在で、慶喜は政治の実権を握り続けます。

この状況に危機感を覚えた薩摩藩や長州藩は、「王政復古の大号令」を発し、慶喜を政界から排除しました。さらに薩摩藩は江戸で挑発行為を繰り返し、徳川家に忠節を誓う旧幕臣の怒りを増幅させます。

新政府側と旧幕府側の武力衝突はもはや避けられない状況となり、戊辰戦争が勃発(ぼっぱつ)しました。戦いは新政府軍の勝利に終わり、新選組も役目を終えることになります。

鳥羽・伏見の戦い

「鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦い」は、戊辰戦争の初戦となった争いです。新選組は旧幕府軍の一部隊として、戦いに参加しています。しかし新政府軍が掲げた「錦の御旗(にしきのみはた)」と最新兵器の前に、旧幕府軍は大敗を喫します。

錦の御旗とは、天皇が朝敵と戦う軍に与える印のことで、旗を掲げられた相手は、天皇に刃(やいば)を向ける逆賊とされました。

京都から敗走した新選組は、「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と名を改め、甲州(現在の山梨県)で新政府軍と再戦します。しかし劣勢は覆らず、近藤勇は下総国流山(ながれやま)で新政府軍に捕らえられ、処刑されてしまいました(1868)。

間もなく沖田総司が亡くなり、残った隊士も散り散りとなります。やがて時代は明治へと移り、幕府のために働いた新選組は、完全に姿を消しました。

現在も人気の高い幕末の英雄、新選組

新選組の活動期間は、浪士組発足の1863年から、戊辰戦争が終わる1869年までの、わずか6年に過ぎません。しかし自らの腕を頼みに、強い信念で幕末の動乱を駆け抜けた隊士たちの姿は、今でも色あせないほどの輝きを放っています。

壬生の宿舎や池田屋跡、五稜郭など、新選組ゆかりの地には、現在も多くのファンが訪れます。幕末のヒーロー・新選組を通して、近代日本史への理解を深めていきましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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