坂本龍馬とは、どのような人物?
幕末の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま)の生き方に憧れる人も多く、その人生は数多くのメディアで取り上げられてきました。多くの人を魅了する坂本龍馬とは、どのような人物なのでしょうか?
近代日本の立役者
坂本龍馬は、1835(天保6)年11月15日、土佐藩(現在の高知県)の町人郷士(ごうし)・坂本八平(はちへい)の次男として生まれました。郷士とは、城下町ではなく自分の生まれた土地で農業や商業を営む武士のことです。
成長した龍馬は、留学先の江戸で、ペリーの来航を機に海外の動きに興味を持ちはじめます(1853)。土佐藩を脱藩した(1862)後は、海軍の結成やアジア諸国との連帯を考えていた江戸幕府の役人・勝海舟(かつかいしゅう)に弟子入りして操船を学びました。
また、幕府の政治を変えなければと考えた龍馬は、強い勢力を持っていた長州藩と薩摩藩に同盟を結ばせて幕府に対抗できる体制を整えます(1866)。結果的には、龍馬が土佐藩を通じて将軍に大政奉還を進言し、260年余に及んだ江戸幕府は幕を閉じました(1867)。
龍馬は「近代日本の幕開けに大きく貢献した幕末の志士」だったといえるでしょう。
坂本龍馬が深く関わった歴史的出来事
坂本龍馬は、1862(文久2)年、28歳のときに脱藩して土佐藩から江戸へ向かいます。それから33歳までのわずか5年の間に、日本の歴史を変えた三つの偉業を成し遂げました。龍馬の功績について、それぞれ詳しく見ていきましょう。
亀山社中の結成
勝海舟が軍艦奉行を務め、龍馬自らも設立に関わった「神戸海軍操練所」が閉鎖されると、龍馬は勝海舟の口利きで西郷隆盛のいる薩摩藩に身を寄せました(1864)。そこで薩摩藩や長崎の豪商・小曽根乾堂家(こぞねけんどうけ)から助力を得て、1865(慶応元)年に日本初の商社である「亀山社中(かめやましゃちゅう)」を結成したのです。
亀山社中は、海運事業を営む会社で、龍馬は海外の商社から大量の武器弾薬を買い入れました。そしてその薩摩藩の武器を、長州藩にあっせんしたのです。このことが、対立していた薩摩藩と長州藩の仲を取り持ったといわれています。
1867(慶応3)年、土佐藩に脱藩の罪が許されたことをきっかけに、龍馬は亀山社中の隊長となり、亀山社中は「海援隊(かいえんたい)」と名を改めました。
薩長同盟の締結
当時の日本は、諸外国との不平等な条約締結や、内乱・凶作などにより経済が混乱していました。やがて求心力を失った幕府を倒して、新しい日本をつくろうとする「倒幕運動」が始まります。
幕末において、強い勢力を持っていたのが薩摩藩と長州藩です。「新しい国をつくり諸外国に対抗するためには、この二つの藩が協力しなければ」と龍馬は考えます。
1863(文久3)年の薩英戦争(薩摩藩とイギリス艦船の戦い)で大きなダメージを受けた薩摩藩も、幕府を倒して日本を強くしたいと考えるようになりました。
このタイミングで、龍馬は薩摩・長州間に取り引きを持ちかけ、それをきっかけに1866(慶応2)年に龍馬や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介のもと「薩長同盟」が結ばれたのです。
大政奉還
薩長同盟を皮切りにして、倒幕の動きはいっそう加速します。しかし、薩長が武力によって幕府を倒そうとしていた一方で、龍馬は争わず平和に解決する方法を望んでおり、「幕府が朝廷に政権を返す」という内容の大政奉還論をまとめます。つまり、武士ではなく天皇が政治の中心に戻るということです。
当時、すでに求心力を失っていた幕府には、薩長と対立して諸外国の介入を防ぐ力はありません。1867(慶応3)年、龍馬の大政奉還論を土佐藩から進言された江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、朝廷に政権を返上し「大政奉還」が成立しました。
大政奉還により、鎌倉時代から約700年続いた武士による政治が終わり、近代日本の幕開けとなったのです。
坂本龍馬が襲撃された2つの事件
「寺田屋事件」と「近江屋(おうみや)事件」は、薩長同盟や大政奉還と同時期に起きた事件です。近年になっても新しい資料が発見されている、坂本龍馬を襲った二つの事件について詳細を紹介します。
寺田屋事件
1866年に薩長同盟が締結された直後、京都の伏見(ふしみ)にある「寺田屋」で、龍馬が幕府の役人に襲撃される事件が起こります。これが有名な「寺田屋事件」です。
きっかけは、まさに薩長同盟にありました。長州と薩摩が手を結ぶことは、幕府にとって危機的な状況であり、同盟の詳細を聞き出すために龍馬を捕らえようとしたのです。
そのとき入浴中だった龍馬の妻・お龍(りょう)は、寺田屋が何者かに囲まれていることに気づき、慌てて風呂を飛び出し龍馬に危機を知らせました。龍馬はピストルで応戦しますが、両手の指に大けがを負ったといわれています。何とか脱出した龍馬は、しばらく薩摩藩にかくまわれることになりました。
近江屋事件
寺田屋事件の翌年1867年、龍馬は再び襲撃を受けました。京都の近江屋で起こったことから「近江屋事件」と呼ばれています。近江屋には龍馬とともに、薩長同盟の仲介をした中岡慎太郎もいました。
刺客が斬りかかってきたとき、2人は刀を身に着けていなかったため応戦できず、数太刀もの傷を受けたそうです。龍馬はその場で絶命し、中岡も2日後に亡くなりました。龍馬が殺害されたのは1867年11月15日、ちょうど33歳の誕生日のことでした。
大政奉還が成し遂げられた約1カ月後、これから日本が変わろうというタイミングで、龍馬はこの世を去ったのです。
刺客の正体は、幕臣である京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)であるという説が有力です。しかし今もなお犯人は不明で、「ほかに黒幕がいたのでは?」とささやかれています。
坂本龍馬が残した名言
坂本龍馬は、多くの名言を残しました。150年以上前の人物の発言にもかかわらず、いくつかの言葉は、今でもしばしば引用されています。なかでも有名な二つの名言について解説します。
日本を今一度せんたくいたし申候
「日本を今一度せんたくいたし申候(もうしそうろう)」。坂本龍馬が残した中でも、広く知られている名言の一つです。この一文は龍馬が姉の乙女(おとめ)に宛てた手紙の中にありました。この文の直前には「外国とこっそり通じて悪巧みする役人を、仲間と一緒に倒す」といった内容が書かれています。
坂本龍馬はこの言葉通り、薩長同盟や大政奉還を成し遂げ、海上貿易においても新しい日本の礎をつくり上げたのです。ただ言うだけではなく、実際に結果を残したからこそ、多くの人の心を打つ言葉であり続けるのではないでしょうか。
世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る
「世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」。これを現代風に意訳すれば、「誰に何と言われても構わない。自分の目的は、自分で分かっているのだから」というような意味になります。
やりたいことのために、許可なく脱藩したり、計画的に薩長を結びつけたり、龍馬の人生には「何があっても自分の目標を達成しよう」とするエピソードが数多く見られます。
多くの人は、やりたいことがあっても、他人の目を気にして行動に移せないことが多いかもしれません。しかし龍馬は違いました。それが善か悪かは一概にいえませんが、龍馬の自分の意思を貫く強さは、今もなお人を惹きつけてやみません。
図解でやさしく! 小学生向けのおすすめ本
さまざまな登場人物が、複雑に絡み合う幕末の出来事を理解するのは、大人でも難しいと感じるかもしれません。子どもが坂本龍馬について学ぶときには、できる限りシンプルで楽しめる工夫が多い本を選ぶのがおすすめです。小学生でも読みやすい伝記を2冊紹介します。
小学館版 学習まんが人物館 坂本龍馬
「小学館版 学習まんが人物館 坂本龍馬」は、まんがで読める坂本龍馬の伝記です。龍馬の生涯の中でも重要な部分に焦点を置き、7章構成でコンパクトにまとめてあります。
理解が難しい部分も登場人物を使ってうまく説明しているため、文章を読み慣れていない子どもでも抵抗なく楽しめるでしょう。生き生きと動く龍馬の姿をテンポよく描いたストーリーは、小学校低学年の子どもにもおすすめです。
やさしく読める ビジュアル伝記 坂本龍馬
「やさしく読める ビジュアル伝記 坂本龍馬」は、小学生向けの歴史絵本といったイメージの本です。きれいなカラーイラストに、ストーリー仕立ての文章が添えてあり、どのような出来事だったのかがより理解しやすくなっています。
巻頭にある人物ガイドと、地図を使った時代背景を読み込んでおくと、より本編に入りやすくなるでしょう。楽しく読めるよう工夫された「とじ込み新聞」には、龍馬にまつわる面白いエピソードが満載です。
龍馬は日本を大きく変えた人物
大政奉還によって武家政権が終わり、日本は近代化に向けて大きく前進しました。薩長同盟や大政奉還は日本の歴史における節目ともいえるでしょう。これらの動きに関わっていたのが、坂本龍馬です。
龍馬は、揺るがない目的と柔軟な考え方を持ち合わせていました。実現が難しい夢を叶えるために、強い意志と視野の広さを持って行動した姿から、今もなお幕末に活躍した武士として高い人気を集めています。
構成・文/HugKum編集部
参考書籍:
メイツ出版 坂本龍馬 : 幕末を駆け抜け「日本」を作った男、龍馬の生涯。
リイド社 坂本龍馬と幕末維新人物100選
ディスカヴァー・トゥエンティワン 龍馬の言葉