「尊王攘夷(そんのうじょうい)」は、幕末の歴史を学ぶ際に必ず出合う言葉の一つです。尊王攘夷の意味を知ることで、当時の時代背景や日本人の考え方がよく理解できるでしょう。尊王攘夷思想と関係の深い出来事や人物もあわせて解説します。
尊王攘夷とは?
尊王攘夷は、幕末に広まった政治的な思想を指します。言葉の意味や使い方、広まるきっかけになった事件を見ていきましょう。
「尊王」と「攘夷」の意味
尊王攘夷は「尊王」と「攘夷」を組み合わせた言葉です。
尊王は王を尊敬する、攘夷は外敵を撃退することなので、尊王攘夷は「天皇を敬い、外国人を日本から追い払う」という意味になります。
幕末の日本では尊王攘夷論がしきりに唱えられ、「尊王攘夷派」と呼ばれる運動家もたくさん現れました。
尊王攘夷運動のきっかけはペリーによる開国
1853年(嘉永6)、浦賀(うらが)沖に現れた「黒船」は、当時の日本人に大きな衝撃を与えます。
外国のことをよく知らない日本人は怯(おび)え、外国人を日本に入れたくないという思いから「攘夷」運動が起こります。
時の天皇・孝明(こうめい)天皇が外国嫌いだったことも手伝って、攘夷運動は全国に広がっていきました。
しかし、ペリーの強大な軍事力を目(ま)の当たりにしていた大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、武力では絶対に太刀打ちできないと判断し、開国に踏み切ります。
天皇の意向を無視したうえに、不利な条約を結んだ幕府に対する不満が「尊王攘夷運動」につながったのです。
徐々に「攘夷」から「倒幕」に
当初は攘夷思想に染まっていた人々も、外国との力の差を知ると、考えを変えていきます。
特に、有力な攘夷派だった薩摩藩と長州藩が、外国と戦ってあっさりと負けたことで、多くの人が「攘夷は不可能」と思い知らされます。
肝心の幕府も、外国の圧力に屈するばかりで頼りになりません。そこで薩摩藩や長州藩は攘夷をやめ、幕府を倒して天皇中心の政治体制をつくる「尊王倒幕」に路線変更することにしました。
間もなく両藩が「薩長同盟」を結んだことで、倒幕の動きはますます加速していきます。
「尊王攘夷」と「公武合体」について
尊王攘夷とともに、よく出てくる言葉が「公武合体(こうぶがったい)」です。それぞれの思想が何を目指していたのかについて、詳しく見ていきましょう。
倒幕運動を掲げる「尊王攘夷派」
当時の日本人にとって、「尊王」は当たり前のことでした。幕府は天皇に許しを得て政治を代行する立場にあり、将軍や将軍の家来である武士も、最も尊重すべき人は天皇と考えていたのです。
尊王攘夷派も公武合体派も、同じ「尊王」の考え方が根底にあることを覚えておきましょう。
尊王攘夷派は当初、自分たちで外国を追い払おうと躍起になっていましたが、武力による攘夷は無謀だと悟り、尊王倒幕路線に転じます。
一方の幕府は、政権維持のために天皇の力を借りようと「公武合体」を画策しました。
朝廷と幕府の協力を掲げる「公武合体派」
「公武合体」は、「公家(くげ)」(天皇のいる朝廷)と「武家(ぶけ)」(江戸幕府)が一丸となって難局を乗り切ろうとする政策です。
大老・井伊直弼の暗殺後、弱る一方の幕府の体制を立て直すべく、老中首座・安藤信正(あんどうのぶまさ)らの主導で行われました。
公武合体の具体策として、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚が実現しています(1862年)。
しかし、天皇の妹を盾(たて)に幕府の強化を図ろうとする政策は、尊王攘夷派の激しい怒りを買い、安藤信正は暗殺されかけます。このとき、敵に背中を見せたことを非難された安藤は老中を辞任し、公武合体運動は立ち消えとなりました。
尊王攘夷、幕末の中心的人物・団体
幕末には、自らの才覚と強烈な個性で歴史に名を残した人物がたくさんいます。中心的な人物や、有名な集団について解説します。
若き教育者「吉田松陰」
吉田松陰(よしだしょういん)は、伊藤博文(ひろぶみ)や山県有朋(やまがたありとも)など、明治維新で活躍する人材を多く育てた人物です。
長州藩に生まれた松陰は、九州や江戸へ出て、世間を広く見聞します。
途中、アメリカへの密航を企てて失敗し、長州に戻されて幽閉生活を強いられます。このとき「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を開いて、若き藩士たちを教育したのです。
その後、日米修好通商条約の締結に腹を立てた松陰は、老中の暗殺を企てると同時に、長州藩に対しても倒幕を提言します。
しかし警戒した藩に捕まり、翌1859年、「安政の大獄(あんせいのたいごく)」によって江戸へ送られた後、斬首(ざんしゅ)されました。
30歳という若さで亡くなってしまいましたが、尊王攘夷思想に大きな影響を与えた教育者として広く知られています。
船中八策を提案「坂本龍馬」
坂本龍馬(りょうま)といえば、ドラマなどにもよく登場する幕末のヒーロー的な存在です。
勝海舟(かつかいしゅう)の下で航海術を学び、貿易や海運業を通じて広い視野を持つようになった龍馬は、日本の将来について具体的に示した「船中八策(せんちゅうはっさく)」を著します。
船中八策で提案された「大政奉還(たいせいほうかん)」は、土佐藩を通じて徳川慶喜(よしのぶ)に提案され、結果的に江戸幕府は消滅しました(1867年)。
船中八策には、ほかにも憲法の制定や議会の設置、平和的外交、貨幣制度の整備など、当時としては画期的なアイデアが盛り込まれています。
元々は尊王攘夷派「新選組」
新選組(しんせんぐみ)は、尊王攘夷派の浪人を幕府側に取り込むために組織された「浪士組(ろうしぐみ)」が始まりです。
そこに、近藤勇(いさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)など農民出身の剣士が加わり、攘夷志士を取り締まる武装警察として活動することになります。
局長・近藤勇は武士に取り立ててくれた幕府に対して、強い忠誠心を持っていました。このため、攘夷志士の取り締まりにも、非常に厳しい姿勢で臨んだと伝わっています。
この時代の理解を深めるために
尊王攘夷の機運が盛り上がる幕末について、もっと深く学びたい方のためにおすすめの本をご紹介します。
学習まんが少年少女日本の歴史スペシャルセレクション 「まるわかり幕末維新」
累計発行部数1985万部のベストセラーシリーズ・小学館版学習まんが『少年少女日本の歴史』から、「幕末」と「明治維新」にスポットを当てた巻。1853年のペリー来航から、1877年の西南戦争および翌年の大久保利通の死までを掲載しています。
逆説の日本史19 幕末年代史編2 「井伊直弼と尊王攘夷の謎」
日米修好通商条約の調印をめぐって幕府と水戸藩が対立していくなか、孝明天皇が水戸藩に発した「戊午の密勅」をきっかけに、大老・井伊直による「安政の大獄」が起き、やがてそれが「桜田門外の変」をひきおこし、時代は「討幕」「尊王攘夷」へと変わってゆく…。その歴史的経緯が丁寧に解説されています。
尊王と攘夷は分けて考えよう
「尊王攘夷」では、「尊王」と「攘夷」とを分けて考える必要があります。「尊王」は日本人共通の考え方で、攘夷にしろ倒幕にしろ、天皇を中心に行うことが前提だったのです。
尊王攘夷を含めた当時の思想をしっかりと受け止め、幕末への理解を深めていきましょう。
構成・文/HugKum編集部