戊辰戦争とは
「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」は、いつ、誰によって起こった争いなのでしょうか。出来事の基本情報をおさらいしましょう。
旧幕府軍と新政府軍の争い
戊辰戦争は、明治初期に起こった「旧幕府軍」と「新政府軍」との戦いの総称です。1868(慶応4)年1月に京都で始まり、翌年5月に北海道の函館で終結しました。
戦争の名前は、1868年の干支(えと)が「戊辰」だったことに由来します。近年では、干支と聞くと「十二支」をイメージする人が多いかもしれません。しかし干支は本来、「十干(じっかん)」に十二支を組み合わせたものです。
昔は数字の代わりに、暦や時刻、方角などを表す符号として用いられていました。十干の「戊(つちのえ)」と十二支の「辰(たつ)」の組み合わせが「戊辰」です。
戊辰戦争に関わりのある人物
戊辰戦争には、歴史上の有名人が多く関わっています。特に知っておきたい人物を、3人紹介します。
徳川慶喜
「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」は、江戸幕府最後の将軍となった人物です。水戸徳川家の七男だった慶喜は、幼い頃より「徳川家康の再来」といわれるほど聡明で、幕府の危機を救う人物として期待されて育ちます。

11歳のときに一橋家の養子となり、当主として幕政に関与した後、30歳で15代将軍に就任しました(1866)。
戊辰戦争では、旧幕府軍の総大将を務めますが、初戦の「鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦い」の後、戦いを放棄して江戸へ逃れます(1868)。
このため旧幕府軍は大敗し、慶喜は一部から卑怯な人物と評されます。戦後の慶喜は、家康が隠居生活を送った静岡に移住し、政治とは無縁の日々を過ごしました。
西郷隆盛
新政府軍の総大将を務めたのが、薩摩藩出身の「西郷隆盛(さいごうたかもり)」です。下級藩士の長男として生まれた西郷は、苦労して藩政を動かす中心人物にまでのしあがります。
同郷の大久保利通(としみち)とともに、明治維新の立役者となり、新政府でも要職に就いて活躍しました。しかし間もなく政争に敗れて辞職し、故郷の鹿児島へ戻ります(1873)。
鹿児島では「私学校」を創設(1874)して、士族(元武士)の子弟教育に励みました。その頃、士族の間では、明治政府に対する不満が高まっており、各地で反乱が起こります。
西郷も私学校の生徒たちとともに「西南(せいなん)戦争」を起こしますが、大久保率いる政府軍に敗れ、自決して49年の生涯を終えました(1877)。
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勝海舟
「勝海舟(かつかいしゅう)」は、戊辰戦争で江戸を戦火から救った人物です。旧幕府軍の代表者として西郷と交渉し、総攻撃をやめさせることに成功しました(1868)。
貧しい旗本の子として江戸に生まれた勝は、早くから蘭学を学び、西洋の兵術に精通します。ペリー来航の際には幕府に「海防意見書」(1853)を提出し、海防の担当者に取り立てられました(1855)。
その後は、「咸臨丸(かんりんまる)」の教授方頭取(1860)や軍艦奉行(1864)として活躍し、弱った幕府の立て直しに尽力します。1862(文久2)年には、長崎に海軍学校を開いて人材育成に当たりました。西郷とは1864(元治元)年頃に出会い、お互いに能力を認め合っていたようです。
戊辰戦争が起きた原因
戊辰戦争は、どのような経緯で起こったのでしょうか。新政府と旧幕府との関係を見ていきましょう。
大政奉還
徳川慶喜が将軍になった翌年の、1867(慶応3)年1月、公武合体(こうぶがったい、朝廷と幕府の協力体制)を望んでいた「孝明(こうめい)天皇」が崩御されます。
倒幕派の薩摩藩や長州藩は、この機会に、武力で幕府を倒そうと企てました。危機を察した慶喜は、11月に「大政奉還(たいせいほうかん、朝廷に政権を返上すること)」を実行して、自ら幕府の歴史に終止符を打ちます。
討つ相手が消滅したために、武力行使は回避され、明治天皇の下での新たな政治が始まりました。
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王政復古の大号令
大政奉還後も、慶喜は徳川家の当主として、将軍時代と変わらない勢力を持ったまま政治に関与し続けます。長い間、政治から離れていた朝廷には、実務を行う能力はなく、政権を返上しても慶喜が実権を握ることは十分可能でした。
このままでは「世の中は変わらない」と考えた倒幕派は、強硬手段に出ます。御所(ごしょ)を占拠して「王政復古(おうせいふっこ)の大号令」を発し、徳川家を排除した新政府の樹立を宣言したのです(1867)。
新政府は、慶喜に「辞官納地(じかんのうち、政府の役職を辞し、領地を返上すること)」を要求し、徳川家の弱体化を図りました。
薩摩藩邸の焼討事件
辞官納地は、徳川家にとって大変厳しい要求でしたが、慶喜はいったん受け入れることで、新政府の新たな役職「議定(ぎじょう)」に任命してもらおうと考えます。旧幕臣たちもまだ健在で、慶喜をもりたてようとしていました。
こうした状況に、業を煮やした西郷隆盛は、徳川家を武力討伐する口実をつくるため、江戸で放火や強盗を起こして旧幕府側を挑発します。度重なる挑発に、怒りを抑えられなくなった旧幕府側は、江戸の薩摩藩邸を襲い、燃やしてしまいました。
大坂城で議定任命への準備を始めていた慶喜の元に、焼討の報(しら)せが届くと、周囲から薩摩藩を討つべきとの声が上がります。こうして武力衝突は避けられない事態となり、戊辰戦争へと突入していくのです(1868)。
戊辰戦争の流れ
戊辰戦争は約1年4カ月に及ぶ、長い戦いでした。開戦から終戦までの流れを見ていきましょう。
鳥羽・伏見の戦い
1868年1月2日に、旧幕府軍は1万~1万5,000の兵力で大坂城を発(た)ち、京都へ向けて進軍します。待ち構える新政府軍の兵力は、5,000ほどでした。圧倒的な兵力差があったにもかかわらず、新政府軍の最新兵器の前に、旧幕府軍は大敗を喫します。
さらに、新政府軍が「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げたことで、旧幕府軍は戦意を喪失してしまいます。錦の御旗とは、朝廷に背く敵(朝敵)を討伐する軍の総大将に、天皇が証(あかし)として与えるものです。
錦の御旗へ攻撃すれば、自分が朝敵だと認めることになります。恐れをなした旧幕府軍は大坂城へ撤退し、戦いは新政府軍の勝利で終わりました。
江戸城無血開城
大坂城に戻った日の夜、慶喜はこっそり軍艦に乗り、江戸へと脱出します(1868)。慶喜は、単に朝敵となることを恐れたとも、内戦が長引いて外国に付け込まれないよう、あえて敵前逃亡したともいわれており、真相はわかっていません。
慶喜は、恭順の意志を示すために、上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎しますが、新政府は慶喜の追討令を出し、西郷隆盛を江戸へ向かわせます。
西郷は、徳川家の居城・江戸城の総攻撃を計画したため、江戸市中は大混乱に陥ります。慶喜から事態の収拾を命じられた勝海舟は、旧知の西郷と会見し、「江戸城明け渡し」を条件に、総攻撃をやめるように頼みました。
勝の言葉に納得した西郷の決断によって、一滴の血も流さずに、江戸城は新政府軍のものとなり、徳川家の時代は完全に終わりを告げます。

戊辰戦争の終結
江戸城の引き渡しと同時に、慶喜は水戸(みと)で謹慎となりましたが、その後も旧幕府軍の抵抗は続きます。
東北では会津藩(現在の福島県)や庄内藩(現在の山形県)といった、旧幕府側の有力藩が結束し、新政府軍と戦いました。
さらに旧幕府の海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)や、新撰組副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)らが、北海道函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)を占拠して立てこもります(1868)。
榎本は新政府に対して、仕事を失った徳川家の家臣たちに、北海道の開拓や防衛の任を与えてくれるように頼みましたが、却下されます。
1869(明治2)年の5月、北海道に上陸した新政府軍の攻撃を受けて榎本は降伏し、戊辰戦争はついに終結しました。

新政府軍が勝利した戊辰戦争
戊辰戦争は、領土をめぐる争いではなく、政権をめぐる争いです。新しい時代をつくるためには、古い体制を徹底的に排除する必要がありました。
戦争は新政府軍の勝利に終わり、新しい時代が本格的に始まります。戊辰戦争を通して、関わった人々の思いや当時の情勢を理解し、歴史の学習に生かしましょう。
時代背景をもっと知りたい人のための参考図書
小学館版 学習まんが はじめての日本の歴史 11:「黒船がやってきた(江戸時代末期~明治時代)」
学研まんが 対決日本史シリーズ「戊辰戦争」 Kindle版
「図説 戊辰戦争」 (ふくろうの本/日本の歴史)
サンエイ新書「戦況図解 戊辰戦争」
「よみなおし戊辰戦争―幕末の東西対立」 (ちくま新書)
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構成・文/HugKum編集部