大政奉還とは?
「大政奉還(たいせいほうかん)」は日本史の授業で習いますが、詳しい内容までは覚えていない人も多いでしょう。大政奉還の言葉の意味と、概要を解説します。
徳川慶喜が、朝廷へ政権を返したこと
大政奉還は、江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に政権を返した出来事です。1867(慶応3)年に、京都の「二条城」で行われました。
古代の日本では、天皇のいる朝廷が政権をにぎっていましたが、源頼朝(よりとも)が鎌倉幕府を開いてからは、武士のトップである将軍による統治が続きます。
ただし、将軍はあくまで天皇から統治を委任される立場で、幕府は朝廷に代わって実務を担う存在とされていました。大政奉還は、将軍から天皇に、政治の権限をお返しするための、正式な手続きと考えてよいでしょう。
政権を返上したことにより、徳川幕府の存在意義はなくなり、家康以来、約260年間も続いた歴史に幕を下ろしたのです。
坂本龍馬が関係していたのは、本当?
大政奉還は、坂本龍馬(りょうま)が発案したという説があります。具体的には、龍馬は船で都に向かう途中、土佐藩の重役・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と話し合い、大政奉還とその後の政治についてまとめた「船中八策(せんちゅうはっさく)」を起草したという内容です。
後藤は、実際に、土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)を通じて幕府に大政奉還を訴えた人物です。このため、親交のあった後藤に対して、龍馬が何らかの影響を与えた可能性も否定はできません。
しかし近年は、「船中八策」は後世の創作である可能性が高い、と考えられています。
実際に、龍馬が書いたとはっきりしているのは「新政府綱領八策」ですが、こちらも当時の知識人から教わった話をまとめただけのもので、龍馬が自分で考えたものではない可能性が高いのです。
現在では、龍馬は「船中八策」を書いておらず、大政奉還にも直接的には関わっていないとする説が有力となっています。
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大政奉還が起きた時代背景
徳川慶喜は、なぜ、自ら政権を手放すことにしたのでしょうか。大きな決断に至った時代背景を見ていきましょう。
ペリー率いる黒船の来航
大政奉還の14年前、1853(嘉永6)年、浦賀(うらが、現在の神奈川県横須賀市)の沖に、4隻の軍艦が現れます。軍艦を率いていたのは、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーです。
ペリーの目的は、アメリカの捕鯨船(ほげいせん)が補給のために立ち寄る港の確保と、アジアへの勢力拡大でした。圧倒的な軍事力を見せつけられた幕府は、戦争を避けるためにペリーの要求通り、開国を決めます。
開国にあたり、幕府は、アメリカをはじめとする諸外国と条約を締結しますが、その内容は、日本にとって不利なものでした(1858)。ペリー来航から開国までの一連の出来事によって、幕府の権威は失墜し、大政奉還につながっていきます。
開国に対する民衆の不満
開国後、日本人の暮らしは一変しました。外国との貿易によって、国内では品不足が起こり、物価も上昇します。
1858(安政5)年に締結した「日米修好通商条約」では、アメリカの領事裁判権や、日本の関税自主権の放棄を認めたために、国民生活はさらに脅かされます。
このような事態を招いた幕府に対し、民衆の不満は高まる一方でした。朝廷に政治を任されているはずの幕府が、天皇の許しを得ずに開国したことも民衆の反発を招き、「尊王攘夷(そんのうじょうい)運動」が起こります。
尊王攘夷とは、天皇を敬う「尊王思想」と、外国人を排斥(はいせき)しようとする「攘夷思想」が合わさったものです。尊王攘夷運動の中心にいた長州藩は、後に薩摩藩と手を組んで倒幕運動を展開し、慶喜を追い詰めていきます。
薩長の倒幕運動
一方、幕府は失墜した権威を取り戻すために「公武合体(こうぶがったい)」を進めていました。朝廷が持つ伝統的な権威を借りて、体制を立て直そうとしたのです。
雄藩(有力な藩)の一つである薩摩藩は、この機会に、雄藩による連合政権を立ち上げ、政治を主導しようと考えます。ところが、徳川慶喜はあくまでも、徳川家と親藩(しんぱん、将軍家と親族関係にある大名の藩)を中心とした政権にこだわります。
慶喜の対応に不満をいだいた薩摩藩は、倒幕へと方針を転換し、幕府に敵対していた長州藩と同盟を結びました(薩長同盟)。公武合体に失敗した慶喜は、土佐藩の提言を受け入れ、大政奉還に踏み切るのです。
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大政奉還の目的とは
慶喜が、薩長と戦わずに大政奉還を選んだ目的は、おもに二つありました。それぞれについて、詳しく見ていきましょう。
武力による倒幕の前に、幕府を終わらせるため
当時、薩摩藩や長州藩はイギリスから、幕府はフランスから支援を受け、軍事力強化に励んでいました。イギリスやフランスの目的が、日本の植民地化にあることは明らかです。
本来、日本人同士で戦っている場合ではありませんでしたが、国内では、日に日に武力による倒幕を期待する声が高まります。ついには天皇が薩長に対して討幕の密勅(みっちょく)を下し、武力衝突は避けられない状況になりました。
このままでは幕府どころか、日本がなくなってしまうと危惧した慶喜が、平和的に事態を解決しようとたどり着いた方法が「大政奉還」です。将軍自ら、幕府を解体するという奇策によって、薩長は戦う理由を失い、武力衝突は回避されました。
政治の主導権をにぎるため
慶喜が、大政奉還に踏み切ったもう一つの理由は、徳川家が持つ領地にあります。政権を返上すれば、徳川家も他の藩と同列の立場になります。
しかし、徳川家には、他藩とは比べ物にならないほどの領地がありました。しかも、鎌倉幕府以降、数百年も政治から離れていた朝廷が、いきなり実務をこなせるはずがありません。
慶喜は政権返上は形だけで終わり、その後も自分が政治の主導権をにぎれるはずと判断したのです。実際に大政奉還の後も、慶喜は朝廷に頼られて政治への関与を続けています。
大政奉還後は、どうなった?
徳川慶喜の思惑通り、大政奉還によって一時の平和が訪れます。しかし、時代は大きく変わろうとしていました。大政奉還後の薩長の動きと、慶喜の運命を見ていきましょう。
徳川慶喜が、政権をにぎることに
政権の返上を受けて、朝廷では天皇を中心とした統治体制の整備にとりかかります。ただし、発足までには時間がかかることから、それまでは従来通り、慶喜率いる旧幕府勢力に実務を委任することになりました。
慶喜は、天皇を象徴として武家による議会をつくるなど、新しい構想を掲げて政治を主導します。しかし、はた目には大政奉還前と何も変わらず、幕府が存在しているかのように映っていました。
特に、薩長と組んで倒幕に奔走していた公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)は、このままでは新体制発足後も、天皇ではなく徳川家中心の政治が続くのではないかと、危機感を募らせていきます。
王政復古の大号令へ
名実ともに、天皇が統治する世を望んでいた倒幕派は、慶喜の政治主導を阻止しようとクーデターを企てます。1868(慶応4)年に、天皇の名で「王政復古(おうせいふっこ)の大号令」を発して、朝廷を占拠し、慶喜と旧幕府勢力を締め出してしまいました。
王政復古の大号令には、慶喜から政治の権限を奪うことのほかに、朝廷の役職である摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)を廃止し、新たに「三職」を設置することも含まれています。
従来とは全く違う新しい体制を示すことで、古い体制の象徴のような徳川家を排除しようとしたのです。
戊辰戦争が勃発
クーデターにより明治新政府が樹立した後も、旧幕府勢力の大名の多くは慶喜を支持していました。じれた薩摩藩は武力での解決を目指しますが、慶喜は冷静な対応を続けます。
そこで薩摩藩は、徳川家のお膝元である江戸で騒乱を起こし、旧幕府側の人々を挑発しました。ついに慶喜は挑発を受けてたつことになり、戊辰(ぼしん)戦争が勃発したのです。
開戦から約4カ月後、新政府軍の中心人物・西郷隆盛(たかもり)は幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)と会談し、江戸城を無血開城させます(1868)。慶喜は出身地の水戸(みと)へ落ちのび、謹慎生活に入りました。
徳川慶喜の目論見から起きた大政奉還
大政奉還は、権力者が自ら政権を手放すという前代未聞の出来事です。世界でもあまり例のない手法ですが、徳川慶喜には、武士による政治を続けていく自信がありました。それに、大政奉還を行わなければ、日本はヨーロッパ諸国に侵略されて植民地になっていた可能性も指摘されています。
江戸幕府は目立った戦争のない、平和な政権だったことでも有名です。最後の将軍・慶喜が大政奉還で守りたかったものは、先祖が代々築き上げてきた、平和そのものだったのかもしれません。
もっと知りたい人のための参考図書
小学館版 学習まんが 年少女日本の歴史 スペシャルセレクション「まるわかり 幕末維新」
小学館版 学習まんが 少年少女日本の歴史16「幕末の風雲」
文春文庫 司馬遼太郎 新装版「最後の将軍 徳川慶喜」
小学館 逆説の日本史19「井伊直弼と尊王攘夷の謎」
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構成・文/HugKum編集部