西郷隆盛はどんな人物? 歴史に名を残した理由や生涯について知ろう

西郷隆盛といえば、幕末から明治の歴史を学ぶときに必ずといってよいほど登場する重要人物です。社会の教科書に載っている肖像画や、銅像を目にした記憶がある人も多いでしょう。西郷隆盛が歴史に名を残した理由と、激動の人生について紹介します。

西郷隆盛は、何をした人?

「西郷隆盛(さいごうたかもり)」は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した人物です。具体的に何をした人なのか、簡単に解説します。

徳川幕府を倒し、明治新政府の成立に貢献

西郷隆盛は、約260年続いた徳川幕府を倒し、明治政府の成立に貢献した人物の一人です。大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝充(きどたかよし)とともに「維新の三傑」と呼ばれています。

先進的な考え方を持ち、日本の近代化を進めた一方で、自分がつくり上げた明治政府と戦って散った、劇的な生きざまでも知られています。

東京、鹿児島に銅像が建立されている

西郷の銅像は、東京の上野公園、鹿児島市城山町、鹿児島空港近くの西郷公園の3カ所にあります。

上野公園は、西郷率いる新政府軍が旧幕府軍と戦った場所です。浴衣(ゆかた)姿と横にいる犬が、西郷の優し気な雰囲気を醸し出しています。

上野公園の西郷さん(東京都台東区上野恩賜公園内)。西郷の死後21年、1898(明治31)年の12月18日に除幕式を行い公表された。宮内省から500円の下賜(かし)と、全国2万5000人を超える有志の寄付金で造られた。「西郷隆盛」は高村光雲、愛犬「ツン」は後藤貞行の作。

 

鹿児島市の城山は、「西南(せいなん)戦争」で政府軍に敗北した西郷が自刃した地です。こちらは陸軍大将の制服姿で、とても堂々としています。

城山の西郷さん(鹿児島市城山町)。凛々しい軍服姿の西郷隆盛像。没後50年記念として、鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけて造り、1938(昭和12)年に完成した。高さ8m。

 

西郷公園の銅像は、実在する人物の銅像としては日本最大級で高さは10.5mあります。身長が180cm近く、体重は110kgほどもあったという西郷の様子が伝わってくる、立派な羽織袴(はかま)姿の銅像です。

西郷公園の西郷さん(鹿児島県霧島市)。無料で入園できる西郷公園は、薩摩藩別邸かと思わせるような門構えで、西南戦争を描いた53枚の錦絵が展示されている資料館もある。銅像は、1988(昭和63)年建立。

西郷隆盛は、どんな人物だった?

幕末きっての有名人・西郷隆盛には、さまざまなエピソードが残されています。人物像がよく分かる、名言や趣味について見ていきましょう。

名言やエピソードから分かる西郷隆盛の性格

西郷は若いころから、自分が正しいと思えば、相手が誰でも、ずけずけと意見を述べるタイプだったようです。頑固で場の雰囲気も気にしないため、周りから煙たがられ、18歳から勤めた藩の役所では、10年間も昇進できなかったといいます。

西郷には、かたくなに写真撮影を拒んだというエピソードも残っています。西郷が写真を嫌った理由には、暗殺のリスクを恐れたなど諸説ありますが、明治天皇への献上写真ですら断ったといわれるほど、確固たる信念を持っていたようです。

また、西郷は天を敬い、人を愛する意味を持つ「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉を座右の銘としていました。信念を貫き通す性格の西郷は、身分や性別、年齢にかかわらず徹底的に人を愛し、自身も多くの人から愛される人物となったのです。

愛犬家としても有名

西郷は、当時の日本人としては珍しく、犬をペットとして飼育した愛犬家としても知られています。上野公園の銅像は、その愛犬を連れた姿が印象的です。

西郷は大変甘いものが好きだったうえに、倒幕運動が一段落した後は、運動不足がたたり、肥満と診断されていたそうです。医師に適度な運動を勧められた西郷は、大好きな犬を連れて山へ行き、ウサギ狩りを楽しみます。

上野公園の西郷像が連れている犬は、ウサギ狩りのお供をした「ツン」という名の薩摩犬といわれています。

西郷隆盛の生涯を知ろう

西郷隆盛は、鹿児島県で生まれ、49歳のときに同じく鹿児島県で亡くなりました。新しい日本をつくり、歴史に名を残した西郷の生涯を振り返ってみましょう。

鹿児島で生まれた西郷隆盛

西郷は、薩摩藩の鹿児島城下の町で貧しい下級武士の長男として生まれました。西郷家は祖父母や兄弟、使用人など10人以上が暮らす大所帯で、生活は苦しかったようです。

西郷隆盛生誕の地(鹿児島市加治屋町)。下加治屋(したかじや)町山之口馬場で、御勘定方小頭・吉兵衛の長男として誕生。三弟は西郷従道(つぐみち)、また、大山巌(いわお)は従弟。

 

しかし、薩摩藩には「郷中(ごじゅう)」と呼ばれる武士階級の子どもを教育するシステムがあり、貧しかった西郷も立派な教育を受けて育ちました。なお大久保利通は、西郷と同じ郷中で学んだ幼なじみです。

18歳になった西郷は、農村の実情を調査する役所に勤務します。そこで藩の農政に疑問を持った西郷は、改革を求める意見書を何度も提出しました。この提案が、藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の目に留まり、側近として抜擢(ばってき)されます。

幕末~明治時代初期に活躍

異例の出世を果たした西郷は、島津斉彬の手足となり、江戸で「尊王攘夷運動」に奔走します。しかし、斉彬は突然亡くなり(1858)、新藩主の実父で、事実上の最高権力者・島津久光(ひさみつ)とそりが合わなかった西郷は、島流しにされるなど、不遇の時代を余儀なくされました。

間もなく藩政に復帰した西郷は、大久保利通とともに薩摩藩の代表として、京都で倒幕運動を展開します。特に、仲の悪かった長州藩と「薩長同盟(さっちょうどうめい)」を結び、倒幕に大きく貢献したことは有名です。

1867(慶応3)年に明治政府が発足すると、新政府軍と旧幕府軍との間で「戊辰(ぼしん)戦争」が始まります。西郷は新政府軍の大将として戦い、ついには江戸を総攻撃するところまで進みました。

しかし、直前に、徳川家代表の勝海舟(かつかいしゅう)との会談に応じ、総攻撃を取りやめます。西郷の決断によって、多くの江戸市民の命が失われずに済んだのです。

西南戦争の敗北後、生涯を終える

戊辰戦争後の西郷は、明治政府の要職を務め、廃藩置県(はいはんちけん)や学校制度の整備、徴兵制の導入など、さまざまな改革を実行しました。

しかし、朝鮮への派兵をめぐる政争に敗れ、鹿児島に戻ってしまいます。鹿児島では「私学校(しがっこう)」を創設して、士族(元武士)の子弟に軍事などを教えて過ごしました。

「私学校」正門跡(鹿児島市城山町)。1873(明治6)年に下野(げや)した西郷は、無職になった血気盛んな士族たちのため、鶴丸城の厩(うまや)跡に私学校を創設する。市内に10を超える分校ができ、県下には136の分校があった。西南戦争でこの私学校の石垣に打ち込まれた銃弾の跡が、今なお多数残っている。

 

このころ、明治政府の政策に不満をつのらせた士族が、佐賀の乱・秋月の乱など各地で反乱を起こします。西郷の生徒たちの間にも、反乱の機運が日に日に高まっていきました。

武士の世は、とうに終わったことを誰よりも知っていた西郷ですが、不平士族の暴走を抑えきれず、政府軍と戦うことを決意します。

「西南戦争」と呼ばれるこの戦いは、政府軍の圧勝に終わります。西郷は、たてこもっていた鹿児島の城山で自刃し、武士らしく生涯を終えました。

西南戦争は、不平士族による最後の反乱です。西郷は自分が武士としての意地を通すことで、不平士族たちに、これ以上の抵抗をしないように伝えたかったのかもしれません。

新しい国づくりに大きく貢献した西郷隆盛

西郷隆盛は、貧しい下級武士の身分から出世し、新しい国づくりを実現させた明治維新の英雄です。目上の人にも遠慮なく意見できる大胆さと、「敬天愛人」を地で行く優しさを兼ね備え、日本をよい国にするために人生を捧げました。

西郷の死後、明治政府は、ますます近代化を推し進め、短期間で西欧諸国に追いつくほどの発展を遂げます。新しい国づくりの基礎をつくった西郷隆盛の功績を、子どもと一緒に学び直してみるのも面白いでしょう。

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