「生みの母を知りたい」面影を追った小2の夏、里親の言葉にこみ上げた想い。熊本の“ゆりかご”当事者・宮津航一さんが今、子どもたちの居場所をつくる理由

子どもを育てることが困難な親の子の命を守る「こうのとりのゆりかご」。熊本市慈恵病院が運営しています。ここに預けられた後、3歳から里親のもとで育った宮津航一さんはやさしくおおらかに育てられ、里親と本当の親子のようになりました。でも、自分のルーツを知りたい気持ちにフタはできません。小学校2年生のときにその気持ちが大きくふくらんでいった航一さんが、育ての親とともに生みの親のルーツを確かめに行く旅へ――。旅を経験した航一さんははたして、どんな気持ちになったのでしょうか。そして今は?

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3歳で熊本の“ゆりかご”に預けられて。「親がいない子だから…」心ない言葉から守ってくれた里親へ感じた“血の繋がり”を超えた絆【当事者・宮津航一さん】
3歳で預け先の「ゆりかご」から兄弟の多い家庭の里子に ――航一さんは3歳のときに里子として宮津家の一員になったのですね。当時のことは...

生みの母親が住んでいた地域を巡り、母の足跡を追って

ーーずっと知りたかった生みの母親のことがわかり始めた小学校2年生の頃。航一さんは育ての父に何をお願いしたのでしょうか。

航一さん:生みの母のことを調べるうちに、すでに交通事故で亡くなっていたことがわかったんです。そして、私の生まれは九州ではなくて、東日本のほうだった。その後「こうのとりのゆりかご」に預けられたのだと。でも、「自分を産んでくれた母がどんな人だったのか知りたい」、住んでいた地域に行って「こういう場所に住んでいたんだ」と自分の目で見て耳で聞いてみたいと思ったのです。

母が亡くなっているのなら、父に「お墓参りをしたい」と言ったんです。何とか自分の出自を確かめたい……。父はその年の夏に生みの母のお墓参りに連れていってくれました。

生みのお母さんの墓前で。

航一さん:ずいぶんあとから聞いたのですが、私をお墓参りに連れていくのは父としては覚悟がいったそうです。その地域に行ったら生みの親のことがもっとわかるだろう。親戚が航一に会って引き取りたいと言ったら、養育里親より三親等以内の親族のほうが、親権が強い場合が多い。「これまで自分の子ども同様に航一を育ててきたけれど、もしかしたらうちに帰ってこなくなるのではないか」と。複雑な心境を抱えていたそうです。

でも、生みの親のことを知りたいと思うのは当たり前だし、お墓参りもさせてあげたいと、私の気持ちを受け止めて、お墓参りに付き添ってくれました。父と地域を歩いて、食堂があれば「ここにご飯を食べに来とったかもしれんな」なんて話したり。冗談も交えながら穏やかに回ってくれました。

生みの母の写真を見たら自分と同じような髪質でうれしかった

航一さん:私としては、生みの母の顔すらずっとわからなかったんです。だからよけいに来てみたかった。すると、母と一緒に仕事をしていたという人から、母の写真を何枚かもらうことができたんです。私は天然パーマなんですが、写真を見ると母も髪にウエーブがかかっていて、「似てるな」って。グッとこみあげるものがありました。

自分の天然パーマは生みの母から来ていると感じたそう。

今までぼやっとしたものがしっかりイメージして、母の姿が自分の頭の中に描けるようになった。これまで欠けていたピースがはまったといいますか。幼いながらにそんなふうに感じました。

生みの母の墓前で「航一くんを一生懸命に育てる」と誓ってくれた父

ーーお墓参りではどんな気持ちになりましたか?

航一さん:生みの母の墓前では、用意していた手紙を読みました。その場で燃やしてしまったので、内容は忘れてしまいましたが。続いて父が墓前で「航一くんを一生懸命に育てますけん、心配しなくていいですよ」って、私にもお墓の中の母にも誓ってくれました

そのときの父の姿に、感じ入るものがありました。だから、あきらめとか妥協とかではなくて、自分の中にストンと落ちるものを感じることができました。この父が、そして家で待ってくれている母が、自分の両親なのだ、と。

お墓参りには、その後も3回行ったんです。小6で熊本地震があったあと。中3では母が交通事故で亡くなった場所がわかったので、そこに行こうということで。そして最後は大学1年の頃です。その頃には養子縁組もしていましたし、高校も卒業してひとつの節目だと思ったんです。

高2で普通養子縁組を。戸籍上も「宮津」になり一区切りついた

――航一さんは宮津さん夫妻と、高2のときに普通養子縁組を結ばれたのですね。

航一さん:3歳で里子になりましたが、急ぐことはない、と。僕の場合は慈恵病院が育てられない子どもを預かる「こうのとりのゆりかご」で最初に預かった子ども、ということでいろいろと事情があるし、生い立ちもわかっていないときに養子縁組をするのもどうか、ということで。高3になったら、ということにしていました。

けれど、父が高2の頃に脳梗塞になって、「自分が元気なうちに約束を果たしたい」と言って前倒しになりました。

養子縁組をした宮津さんご家族。

――養子縁組をして、何か変わりましたか?

航一さん:親子の関わりはこれまで同様ですが、戸籍上親子かどうかを自分が気にするところもあって。戸籍上も宮津航一になって、胸を張って「親子だ」と言えるようになりました

今は住民票や戸籍謄本に「養子」って書いてあるのですが、それまでは「同居人」だったんです。3文字から2文字になったのは、自分の中でひとつ大きかったです。「同居人」では、絆の深さは感じられませんよね。

*普通養子縁組とは戸籍上において養親とともに実親が並記され、実親と法律上の関係が残る縁組形式。特別養子縁組は戸籍の記載が実親子とほぼ同様の縁組形で家庭裁判所の決定が必要

就職活動はせず社会的な活動をしていく。高3で子ども食堂を開いた

ーー航一さんは中学では生徒会長をして、中高を通して陸上のすばらしい成績を残して主将を務めました。今、航一さんは大学4年生になり、熊本県立大学総合管理学部総合管理学科で学ばれています。将来はどのような道に進む予定ですか?

航一さん:いわゆる就職活動をするつもりはなくて。社会的な活動をしていこうと思っています。両親はそうした領域で私より前に歩いてきた先輩でもありますし、同志というのはおこがましいけれど、自分も同じように社会に役立つ活動をしていきたいと思っています。高3のときには子ども食堂を開いて、今も代表を務めています。

――子ども食堂を開いたきっかけは?

航一さん:2021年のことです。コロナで5月まで緊急事態制限の自粛の中、学校も一斉休校になりましたよね。家の居心地がいい子ばかりではないでしょう。子どもたちに、気軽に訪ねられる居場所が必要なのではないか、と話していました。

そんな時期に父と車に乗っていたら、福岡県で子どもが虐待によって餓死した事件がラジオから流れてきました。衝撃でした。誰かが止められなかったのだろうか、地域の人たちが関わっていれば未然に防げたのではないかと……。これは人ごとではない、うちの地域の子どもたちにも居場所を作りたい、地元で子ども食堂を開いたらどうか、と父と話し合い、高3で将来を決める大事なときでしたが、とにかく自分が主体になって始めることにしました。地元の教会にお話しして部屋をお借りして、今も毎回開催させてもらっています。

航一さん:活動は月2回で、1回はカレーを毎回提供しています。子どもと保護者が集まって、地域のみんなで交流ができる、という場所にしたかったんです。最初は20人弱でしたが、今は子どもが60人くらい、保護者も含めて100人くらいが集まっています。

もう1回は学生応援と考えていました。コロナ禍でアルバイトができなくなって、県外から来て一人暮らしをしている学生は経済的にも精神的にも大変な思いをしています。そこで希望者に対して食糧配布をしました。今は学生より、一般家庭の方のほうが食糧を取りに来られることが多いですね。お米の高騰などもありますし、50世帯くらいが参加しています。

「子ども大学くまもと」でも代表理事を務める

――もうひとつ、宮津さんが代表理事をされている「子ども大学くまもと」というのがありますね。こちらはどういう内容ですか?

航一さん:子ども大学とは、主に大学のキャンパスを会場に、大学教授や専門家などが子どもにもわかりやすく、知的好奇心を満足させる講義などをするものです。ドイツ発祥で日本でも全国にあります。子ども大学くまもとは、「こうのとりのゆりかご」の開設に携わった元看護師の田尻由貴子さんと2023年10月に立ち上げました「生き方学」「ふるさと学」「いのち学」を3つの柱に講師をお招きして、親子で一緒に参加して、同じテーマを一緒に考えてほしいと思っています。

航一さん:そのほかに、「ゆりかご」の子たちのピアサポート(当事者が当事者の話を聞くなどして支援する)などもやっていますし、その他いろいろとお役目をいただいています。

両親に味方になってもらった自分が、今度は子どもたちの味方に

――学生でありながら、精力的に社会的活動をされているのですね。

航一さん:「これをやらなければ!」という思いが先に立って始めることが多く、ちょっと忙しすぎるかもしれません(笑)。でも、人に恵まれているから、やれているのかなと思います。自分が「こんなことをやって社会に役立ちたい」と思ったときに、節目節目で背中を押してくれる人がいるんです。子ども食堂のときはまさに父との会話で始まり、「お前がやるなら」と全面的にバックアップしてくれました。資金集めの仕方や人とのつながりかたなど、一から教えてもらいました。

私は両親がやっているファミリーホームの事務も手伝わせてもらっていますので、その経験が生きることもありますし、地域の民生委員の方や学生ボランティアにもずいぶん助けてもらっています。

*ファミリーホームとは小規模住宅型児童養育事業。①養育里親の経験者または施設職員の経験者が施設から独立して行う「自営型」と、法人が施設として経営する「法人型」がある。宮津家では①の形で家庭を持たない子を家族のように育てている

「こうのとりのゆりかご」の開設に携わった元看護師の田尻由貴子さんとの活動の様子

航一さん:また、私自身が里子として生きてきて、里親に恵まれてここまで来ました。みなさんが里親になるのはハードルが高いかもしれませんが、週末や決まったときだけ子どもとふれあうような里親制度をもうけている地域もあります。家庭で育てられない子どもが元気に育つようなお手伝いを、みなさんも何かの形でお手伝いしてくださるとうれしいですね。

いろんな子たちとふれあう今の仕事を続け、父が私たちの味方にいつもなってくれたように、私も世の中の子どもたちの味方になって、多くの子たちが少しでも安心して暮らせるようになればいいなと思っています。

ーー生みの母親を訪ね、自分のルーツを知ったとき、大事なのは血のつながりではなく、自分を育て、支えてくれた両親や家族だと心から悟った航一さん。そして、さまざまなことを経験し、支えてくれた人がいたからこそ、人のつらさをやわらげる社会的活動をしたいと考えたのです。「絆」とは何か。私たちもまた、考えていきたいですね。

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3歳で熊本の“ゆりかご”に預けられて。「親がいない子だから…」心ない言葉から守ってくれた里親へ感じた“血の繋がり”を超えた絆【当事者・宮津航一さん】
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お話を伺ったのは

宮津航一 みやつこういち

2003年11月5日生まれ。こうのとりのゆりかご 当事者 / 普通養子縁組当事者。里親家庭・ファミリーホーム育ち。地元の公立中学・私立高校を経て、熊本県立大学総合管理学部総合管理学科4年。ふるさと元気子ども食堂 代表。一般社団法人子ども大学くまもと 理事長・代表理事、一般社団法人熊本県こども食堂ネットワーク 広報部会 部会長、一般社団法人ふるさと元気村 事務局長、 熊本県ファミリーホーム協議会 事務局、熊本県警察本部長委嘱少年サポーターなど

取材・文/三輪泉 写真提供/宮津航一

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