「腫れ物扱いだった」バスケの練習中に倒れ、車椅子生活に。起立性調節障害、不登校の始まり…声優・佐倉綾音さんの葛藤と再生の物語【前編】

数々のアニメ作品で主要な役を演じ、ラジオパーソナリティとしても多くのファンを魅了する声優、佐倉綾音さん。その華やかなキャリアの裏に、小学校から中学校にかけての不登校経験があります。なぜ学校に行けなくなったのか。その時間をどう過ごし、どのようにして声優という道を見つけたのか。そして、今、同じように悩む子どもやその保護者に伝えたいことは何か。ご自身の経験を、真摯な言葉で一つひとつ丁寧に語っていただきました。
インタビュー前編では、不登校のきっかけとその頃の生活についてお届けします。

小学5年生のとき、バスケの練習中に気を失って救急車で運ばれる

――佐倉さんは小学5年生から不登校になられたそうですね。

佐倉さん:突如訪れた体調不良がきっかけです。

当時、ミニバスのチームに入っていて、他にも習い事を週5~6で詰め込んでいたんです。自分としては全部楽しくこなしているつもりだったんですが、おそらくどこかで負荷がかかっていたんでしょう。バスケの練習中に体育館で気を失って倒れてしまって…そのまま救急車で運ばれました。

そこから一時期歩けなくなって、しばらくは車椅子で過ごしていました。最初のうちは、学校にも、車椅子だったり松葉杖だったりを駆使して登校して。不自由な中でもわりと元気で、家族で万博(2005年の「愛・地球博」)にも行きましたね。

――そこから徐々に学校に行かなくなった、と。

佐倉さん:そうなんです。そうした生活を送る中で、学校行事にも参加できないことが増えていって。“学校に行かない生活”というものを、少しずつ知っていったんだと思います。同時並行で、どんどん体調が悪化していきました。

“怠け病”と誤解された「起立性調節障害」

佐倉さん:病院では「起立性調節障害」とか「自律神経失調症」と診断されました。今でこそ聞くようになりましたけど、当時は全然知られていなかった病名です。そのため、説明しても“怠け病”というふうに扱われることが多くて…。病院の先生も、原因が分からないから薬を出すためにとりあえず病名をつけたい、といった扱いだったと思います。

それでますます学校に行かなくなり、ずっと家にいる生活が始まりました。

人間の“ストレートな負の感情”に初めて触れ、カルチャーショック

佐倉さん:交友関係の変化もありました。今までに会ったことのないタイプの子が転校してきて、そこで「人間の悪意」みたいなものに初めて触れたのが、同時期だったなと思います。

いわゆる“いじめ”というわけではないんです。私は多分いじめられたというよりも、シンプルに「自分の負の感情を他人に押しつけて発露するタイプ」の子に出会った、というだけだったんですよね。直接的な攻撃を受けたわけでもなく。相手に「気に入らない」とか「嫌い」などの言葉を、平然と伝えることができるタイプの人間を初めて目の当たりにして、カルチャーショックを受けたんです。

――それまでは、そういった経験がなかった。

佐倉さん:のんびりした雰囲気の地域で、のんびりした気風の子としか関わりがなかったので、そういったちょっと尖った人間性の子に会ったことがなかったんです。それで結構、心の傷になったというか。

私自身が直接「気に入らない」と言われたわけではないけれど、「綾音ちゃんの好きなこれは、私は大嫌い」というような、ストレートなコミュニケーションを取ることになった、という感じでしたね。

――そうしたカルチャーショックと体調不良が重なって、学校を休みがちになったのですね。

佐倉さん:そうですね。倒れてから数ヶ月ぐらいは松葉杖や車椅子で行っていたんですけど、いろんなことが重なって、ほぼ毎日自宅にいるようになりました。

「腫れ物扱いだったのかな」今思うこと。両親とは気持ちのぶつかり合い

――当時、ご両親や学校の先生はどのような対応をされていましたか。

佐倉さん:先生の自宅訪問は、私が会うのを拒否していたような覚えがあります。会った記憶がないので、もしかしたら親が対応してくれていたのかもしれません。面談を強制されることはありませんでした。

ただ、間違いなく当時は不登校というもの自体が許されている風潮ではなくて、市民権を得ていなかった。周りにも同じ境遇の子がほとんどいなくて、ちょっと腫れ物扱いだったのかなと思うぐらい、放っておかれていた感じがしますね。

――ご両親はいかがでしたか。

佐倉さん:両親も、最初は「体調が戻ったら行けるようになるだろう」と、たかをくくって穏やかに見守ってくれていたんだと思います。でも、半年、1年と経つにつれて、やっぱり焦りだったり緊張感だったりが私の方に伝わってくるようにはなりました。

怒られることはなかったんですけど、コミュニケーションの中で圧力がどんどん生まれていく感覚はあって。「どうして行けないのか」と。

私の両親は、ありがたいことにかなり人間ができている人たちなので、暴力とか、言葉で追い詰められるようなことはほとんどなかったです。ただただ、対等な喧嘩でした。お互いの気持ちのぶつけ合いです。

フリースクールを見学するも、「自分は違う」という“ねじれた自意識”により反発

――学校以外の選択肢について、ご両親から提案はありましたか。

佐倉さん:心療内科とか、あとはフリースクールのような場所に行ってみないか、という提案はたくさんありましたね。しぶしぶ了承してついて行きました。

フリースクールの見学はしたんですけど、行く気にはならなかったですね。私はその当時、もうすでに“ねじれた自意識”みたいなものを獲得していたので、「フリースクールに通うような子たちと自分は違う」というふうに決めつけていて。十把一絡げにされたくない感覚があったんです。集団から逃げてきたのに、また集団の中に放り込まれるっていうのが我慢ならなかった。

――それでフリースクールには通われなかったのですね。心療内科はいかがでしたか。

佐倉さん:実は、心療内科はイヤな記憶になっていないんです。新しい知見が得られたりとか、カウンセリングで人とコミュニケーションを取ったりすることが新鮮だったので。ただ、学校に行くきっかけにはならないな…という感想でした。

――そのまま小学校卒業となり、地元の中学校に進学されますが…

佐倉さん:別の小学校から合流してくる子もいるし、環境が変わればきっとまた行けるようになるだろうと、両親は思っていたと思います。私自身も、行けるようになるかもしれないと自分に期待していました。

ですが、入学式には行ったのですが、結局やっぱり体と心が全然ついていかなくて。中学は本当にほぼ行ってないですね。中学3年生で事務所に入って声優業を始め、高校に進学しますが、それもギリギリでした。※詳しくは後編でお伝えします!

「一緒に人生を楽しんでほしい」不登校の子どもを持つ親へ伝えたいこと

――佐倉さんが診断された起立性調節障害は、今まさに苦しんでいるお子さんや、その親御さんも多くいらっしゃると思います。そうした方々に伝えたいことはありますか。

佐倉さん:そうですね……今になると、一緒に人生を楽しんでほしいな、と思います。

やっぱり、うれしかった思い出として残っているのは、何でもない普通の日常を、母と父が一緒に楽しんでくれた記憶なんです。

――具体的には、どのようなことでしょう。

佐倉さん:例えば、フリースクールの見学は、自分にとってはわりと苦痛な思い出なんですけど、その帰りに車で立ち寄ったご飯屋さんでの思い出はポジティブに残っている。母と一緒に、普段は行かない場所でご飯を食べて「こんなの食べるの初めてだね」「おいしいね」って言ったりとか。

そういう“普通の人間扱いしてもらえる時間”のようなものが、印象に残っています。

あと、これはラジオでも言ったことがあるんですけど、母が深夜に急にドライブに連れて行ってくれたことがありました。そういうのも、うれしかったですね。

――腫れ物扱いするばかりではなく。

佐倉さん:自分の今の状況から目をそらせる時間。しかも、それを悪いこととせず、一緒に楽しんでくれる人がいる。サボりを肯定してもらえるというか……有給っぽい感覚だったのかな。認められた休み、みたいな気持ちになれたからなのかなと思います。

--そのときの自分を肯定してくれた存在に救われたのですね。
後編では、不登校生活を送っていた佐倉さんが、中学3年生で声優デビューするまでの道のりを伺いました!

後編はこちらから

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お話を伺ったのは

佐倉綾音さん 声優

東京都出身。趣味は服を着ること。主な出演作品にアニメ『僕のヒーローアカデミア』麗日お茶子役、『【推しの子】』鮫島アビ子役、『進撃の巨人』ガビ・ブラウン役などがある。ほか、多数の番組でのナレーションも務める。

文・構成/HugKum編集部 撮影/五十嵐美弥 ヘア&メイク/福田まい(addmix B.G)

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