歴史ある江戸城について学ぶ。天守閣が再建されない理由とは

江戸城は現在、国内外から多くの人が訪れる人気の観光スポットです。敷地内には石垣や門などの遺構が残り、近代的なビルが立ち並ぶ都心で、束の間のタイムトラベルを楽しめます。見学前に押さえておきたい、江戸城の歴史や見どころを紹介します。

江戸城とは?

「江戸城(えどじょう)」は、徳川家康が幕府を開いた江戸時代の様子を、現在まで伝える歴史的建造物です。江戸城が立つ場所や、おもな特徴を見ていきましょう。

日本一の広さを誇る城

将軍の居城兼幕府の行政機関として整備された江戸城は、他の城が足元にも及ばないほどの大規模な城でした。城郭が建てられている内堀内部の面積はもちろん、外堀に囲まれた城下町の面積も日本一を誇ります。

また、1638(寛永15)年、3代将軍・徳川家光(いえみつ)の時代に建てられた天守閣は、台座の石垣も含めると20階建てのビルに相当するほどの高さでした(約60m)。ビルのような高い建物がない時代に、相当な威容を誇ったことは容易に想像できます。

現在の江戸城は、観光客が入れるエリアだけでも、一日ですべてを見てまわることは難しいかもしれません。

環境省_特別史跡江戸城跡

場所は、現在の皇居

江戸城の一部が、現在の皇居であることをご存じの人も多いでしょう。江戸時代に吹上(ふきあげ)や西の丸(にしのまる)と呼ばれていた辺りに、天皇陛下のお住まいや宮内庁の庁舎があります。

皇居内への立ち入りは禁止されていますが、周囲の「皇居東御苑(ひがしぎょえん)」や「皇居外苑(がいえん)」は公園として整備され、自由に見学できます。

なお、東御苑の芝生広場は本丸御殿の跡地です。本丸御殿のうち「中奥(なかおく)」が将軍の生活する場所で、「表(おもて)」で諸大名との謁見(えっけん)を行っていました。また、「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」に登場する松之廊下や「大奥(おおおく)」があったのも本丸です。

皇居・東御苑(東京都千代田区)。江戸城本丸は、広大な芝生広場として整備されている。手前側から、「大奥」「中奥」「表」とつながっていく。奥に見えるビル群は、丸の内。丸の内には大名小路が造られ、諸大名は表門である「大手門」から登城した。

江戸城の歴史

城にまつわる歴史を予習しておけば、見学の時間をより楽しめます。築城から現在までの、江戸城の歴史を見ていきましょう。

太田道灌によって築かれる

1590(天正18)年、徳川家康が豊臣秀吉の命令で江戸に下ってきたとき、江戸城はすでに現在と同じ場所に建てられていました。築城に携わったのは、室町時代に関東で活躍した武将・太田道灌(おおたどうかん)です。

道灌は1457(長禄元)年に、主君の命(めい)で江戸城を築いたほか、同じ頃に埼玉県の川越(かわごえ)や岩槻(いわつき)にも築城しています。いずれの城も完成度が高く、道灌は後に「築城の名人」と呼ばれました。

ただし、道灌が建てた江戸城がどのような姿だったのかは、残念ながらよく分かっていません。

太田道灌銅像(埼玉県川越市)。この銅像は、1972年に、川越市制50周年を記念して新築された市庁舎前(川越城大手門跡)に建てられた。道灌の銅像は、関東とその周辺に12体ある。

1603年に徳川家康が改修

1603(慶長8)年、朝廷から征夷大将軍に任じられて幕府を開いた家康は、江戸城の改修に着手します。道灌が建てた城郭は古く、天下を治める将軍の住まいにはふさわしくなかったからです。

家康は、江戸城改修を「天下普請(てんかぶしん、国の事業)」と位置付け、諸大名に工事を命じます。天下普請は現在の公共事業とは違い、費用はすべて大名の自己負担でした。家康には工事にかこつけて、大名の財力を減らし反乱を防ぐ狙いもあったのです。

大名たちは、江戸城の工事に多くの予算と人員を割かねばならず、各藩とも大変苦労したようです。工事は長期間に及び、3代将軍・家光の代になってようやく完成しました(1638)。

明暦の大火で焼失

多くの費用と歳月をかけて完成した江戸城は、1657(明暦3)年の冬に発生した「明暦(めいれき)の大火」によって、主要な建物が焼失してしまいます。

明暦の大火は、発生から2日間で江戸中を焼き尽くし、10万人以上の命を奪った大災害でした。火元は、現在の文京区本郷にあった「本妙寺(ほんみょうじ)」とされています。

出火原因は不明で、住職が不思議な力を持つ振袖(ふりそで)を焼却処分しようとしたところ、火のついた振袖が風で舞い上がり、本堂に燃え移ったとの伝説があります。この伝説が広まったことから、明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれています。

江戸城の無血開城

幕末に起こった戊辰(ぼしん)戦争で、江戸城は長い歴史に幕を下ろすことになります(1868)。戊辰戦争とは、明治新政府軍と旧幕府軍との間に起こった内戦です。

京都での緒戦で優位に立った新政府軍は、幕府の本拠地・江戸に軍を進めて総攻撃をかける計画を立てます。多くの人が暮らす江戸市中で戦闘が起これば、甚大(じんだい)な被害が出る恐れがありました。

旧幕府軍の勝海舟(かいしゅう)は、新政府軍の西郷隆盛(たかもり)に会談を申し込み、和平交渉に臨みます。勝は西郷と面識があり、人柄もよく知っていました。人々の命を救いたいと話せば、きっと分かってくれると考えたのです。

会談は総攻撃予定日の前々日、薩摩藩の江戸屋敷で行われます。2日間に及ぶ話し合いの末、江戸城の明け渡しを条件に、総攻撃の中止が決まります。こうして江戸の町は戦火を免れ、1人の犠牲者も出さずに済みました。

天守閣が再建されない理由

明暦の大火で焼け落ちた江戸城は、間もなく再建されます。しかし、天守閣だけは失われたままでした。幕府が天守閣を再建しなかった理由を見ていきましょう。

城下町の復興を優先

当初、江戸城の再建計画には天守閣も含まれていました。皇居東御苑の本丸跡地には、天守閣の土台にするために造った石垣が残っています。

しかし、天守を建てる段階になって、復興の指揮を執っていた会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)が、工事の中止を進言しました。財源が不足していたことと、天守閣の必要性がなくなったことが理由です。

そもそも天守閣は、城主の軍事力や権力を象徴するためのものです。しかし、当時の日本は、すでに戦(いくさ)のない世になっており、将軍があえて軍事力を見せつける必要もありませんでした。

そこで正之は、なくても困らない天守閣の再建は後回しにして、城下町の復興を優先しようと考えたのです。以降も、天守閣の出番はなく、再建計画が浮上することもありませんでした。

江戸城本丸天守台(皇居・東御苑内)。石垣だけが、約400年近く残されている。

江戸城の見どころ

江戸城は広く、見どころがたくさんあります。訪問したら必ず見ておきたい、おすすめポイントを紹介します。

高くそびえたつ美しい石垣

石垣は木造の建築物と異なり、築城当時のままで残りやすい貴重な史跡です。特に江戸城の石垣は、石の色や積み方がバラエティーに富んでいて、それぞれ見応えがあります。

天下普請として全国の大名が参加した江戸城の工事には、複数の産地から取り寄せた良質な石材が使われました。優れた加工技術を持つ石職人もたくさん動員され、堅固で美しい石垣を造り上げたのです。

電気も自動車もない時代に、遠くからたくさんの石を運び、丁寧に加工した人々の努力に思いを馳せ、じっくりと観察しましょう。

復元された大手門

大手門は、1607(慶長12)年に「城造りの名人」と呼ばれた戦国武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)が築いた、江戸城の正門です。将軍が外出するときや、諸大名が登城するときに使われていました。

後に仙台藩主・伊達政宗(だてまさむね)や老中の酒井忠世(さかいただよ)らが改修を手がけ、現在も残る「桝形門(ますがたもん)」と呼ばれる形になります。

桝形門とは、侵入者が直進できないように、四方を壁で囲み、出入り口を2カ所設けた門のことです。

壁には、侵入者を鉄砲で撃つための「狭間(さま)」と呼ばれる穴があり、物々しい雰囲気を醸(かも)し出しています。

江戸城・大手門

 

出入り口の一つ「渡櫓門(わたりやぐらもん)」は、1945(昭和20)年の戦火で失われたため、現在見学できる渡櫓門は、1967(昭和42)年に復元されたものです。このとき、残っていたもう片方の「高麗門(こうらいもん)」もきれいに修復されています。

皇居外苑の二重橋

皇居外苑にある「二重橋(にじゅうばし)」と橋の奥に見える「伏見櫓(ふしみやぐら)」は、絶好の撮影スポットです。堀の水と石垣、櫓が一体となって、まさに江戸に来た雰囲気を味わえます。

二重橋の名称は、江戸時代に橋げたを二重にして造られたことに由来します。なお、現在の橋は明治時代に架け替えられたもので、二重構造ではありません。

二重橋や伏見櫓を近くで見るためには「皇居一般参観」に申し込む必要があります。皇居一般参観は、祝日を除く火曜から土曜の、午前と午後に1回ずつ実施されています。

皇居二重橋と伏見櫓(東京都千代田区)。濠に二つの橋が架かっていて、手前が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」。「二重橋」はこの二つの橋の総称。奥に見える「伏見櫓」は、京都の伏見城の櫓を移築したと伝えられる。

 

参観案内(参観申込ほか) – 宮内庁

歴史的建造物である江戸城

江戸城は、徳川家康の指令のもと、大名たちが総出で完成させた、日本最大の城でした。江戸城の完成によって将軍の威光は天下に示され、江戸の町も大きく発展していきます。世界有数の大都市・東京の原点となった歴史的建造物を、心ゆくまで堪能しましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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