【ベストセラー作家・市川拓司さん】ADHDと自閉症スペクトラムを持ち、ヤングケアラーだった幼少期。「学校では問題児、いじめも…」折れない心を育てたのは“母の愛”

「うちの子、みんなと同じようにできなくて大丈夫だろうか…」新生活が始まる春、そんな不安を抱える保護者は少なくありません。ベストセラー小説『いま、会いにゆきます』で知られる作家・市川拓司さんは、ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)を持つことを公表しています。学生時代には、周囲との違いから孤立し、いじめに苦しんだ経験もありました。

みんなと同じ「当たり前」ができなかった日々を、どのように乗り越えてきたのか――。学生時代の経験について、伺いました。

学校ではいつも問題児! 「みんなと同じ」ができなかった小学生時代

――市川さんはASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如・多動症)を公表されていらっしゃいますが、子どもの頃はどのようなお子さんだったのでしょうか。

市川拓司さん(以下、市川さん):学校ではいつも「問題児」でした。周りの大人たちはいつも困っていたと思います。「みんなと同じこと」がまったくできなかったんです。

当時通っていた小学校は、東京の調布にあるマンモス校で、生徒が二千人もいました。朝礼の国旗掲揚のとき、みんなうしろの旗の方を向くために「回れ右」をして君が代を歌いますが、僕だけはずっと前を向いたまま、校長先生の顔をじっと見つめていましたね。

――たったひとりだけ逆を向いている…先生方も驚かれたでしょうね。

市川さん:校長先生も困ったと思います(笑)。学校の授業中も机に座っている気がなくて、床をほふく前進しながら友達の背中を突いて回ったり、授業中もひたすらしゃべり続けたりしていましたね。多動なので、じっとしているのが本当に苦痛なんです。

ただ、学校が嫌いだったわけではありません。友達と過ごしたり、いたずらをしたりするのが楽しくて…。毎日学校に行くのが楽しみで仕方ありませんでした。

――先生から注意されることに対してプレッシャーは感じませんでしたか。

市川さん:何も感じませんでした。僕は学年で2、3番目ぐらいに背もすごく大きかったし、口も達者でした。当時は体罰もあってそれは嫌でしたが、同級生が味方してくれたり、家では母親が励ましてくれたり、周囲に支えられていましたね。

母を支えながら過ごした日々――ヤングケアラーだった少年時代

――ご両親から「学校や教室できちんとしなさい」と叱られたことはなかったのでしょうか。

市川さん:それが、一度もないんです。というのも、うちの場合は親のほうが、僕以上にスタンダードから外れている人で(笑)。なにかやらかしても、怒るどころか「もっとやってみたら」と背中を押すようなところがありました。

親から注意されたり、矯正されたりする経験がほとんどなかったからこそ、自分の特性を「直すべきもの」とは捉えず、周囲と違う自分を否定せずにいられたのだと思います。

ベストセラー作家・市川拓司先生

市川さん:また、振り返ってみると、母は双極性障害やパニック障害のような症状を抱えていたのではないかと感じています。僕を授かったとき、母はとても痩せていて身長が161cm、体重は37kgしかありませんでした。そんななかでの出産で、ものすごい肉体的ストレスもあって、完全なうつ状態だったのだと思います。父は昭和のビジネスマンで月の半分は出張で家にいないし、いるときも午前様が当たり前。だから、物心がついた頃から家にはいつも寝込んでいる母がいて、自然と世話をすることが、僕の日常になっていきました。

今思えば、いわゆるヤングケアラーだったのだと思います。

自尊心を育てたのは母からの無償の愛

――小学生の頃から、お母さまを支えていたのですね。

市川さん:そうですね。小学校1年生の頃には、母が発作を起こすと自分で救急車を呼んでいましたし、中学生になると、母を背負って外まで運ぶこともありました。食事の支度をしたり、背中をさすったり、肩をもんだり――できることは何でもしていましたね。

そんな状況でも、母はたくさんの愛情を注いでくれました。いつも無条件の肯定があったからこそ、今の自分の「鋼の自尊心」の土台が築かれたのだと思います。

「暗黒だった中学時代」教師や部活仲間によるいじめも…

――その後、中学進学のタイミングで埼玉に引っ越されたそうですね。環境や心境の変化もありましたか?

市川さん:中学は、まさに暗黒時代でした。東京にいた頃は長髪で、比較的自由に過ごしていたのですが、引っ越した途端に丸坊主を強制される環境で…ギャップが大きく、苦しみました。さらに、友達からも「東京モン」や「宇宙人」と呼ばれるようになりましたね。

――「変わり者」のように見られていたのでしょうか。

市川さん:その通りです。陸上部にも入っていたのですが、当時は先輩から蹴られたり叩かれたりすることも日常茶飯事でした。僕は言い返さず、ただ笑って、ただニコニコしていたので「お地蔵さん」と呼ばれていました。

また、教師からの厳しい叱責や体罰もあり、本当に苦しかったです。じっと席に座っていられなかったり、授業中に話し続けてしまったりすることで、ほぼ毎日のように叩かれ、怒鳴られていました。当時は「学校に行きたくない」と思うこともありましたね。

――それだけのことがあっても、学校に行き続けたのでしょうか。

市川さん:学校には通い続けていました。それは、家庭のほうが、もっと大変な状況だったからだっと思います。

母はほとんど動けない状態で、さらに父も体調を崩してしまっていて。自分が目を離したら母の命にかかわるかもしれないーーそんな緊張感の中で過ごしていたので、学校でのできごとに心を割いている余裕もなかったんです。どこか冷めた目で、「人間は意地悪なもんだな」と、客観的に眺めていた記憶があります。

「登校」と「制服」が苦しかった…周囲から見えにくい“生きづらさ”

――ADHDなどの特性を抱えながら学校のシステムに馴染むのは、かなり大変だったのではないでしょうか。

市川さん:そうですね。学校は365日、毎日遅刻していたんじゃないかっていうくらいでした。でも、僕の場合は、起きられなかったわけじゃないんです。人混みが苦手で、集団登校の列に交ざるのがどうしてもできなかった。みんなが登校している時間を避けて、ひとりでぶらぶら歩いて学校に向かっていましたね。

市川さん:それから、発達特性の人に多いかもしれませんが、体を締めつけられる服がとても苦手でした。学ランの首元につけるカラーはすべて外していましたし、ワイシャツも着られなかったので、丸首のTシャツの上に学ランを羽織っていました。こうしたことも、当時は先生に理解されず、注意の対象になっていたと思います。

ーー当時、ご自身なりに心を落ち着かせる方法はあったのでしょうか。

発達特性の影響もあって、夜もなかなか眠れない時期が続いていました。夜になってもエネルギーを持て余してしまうので、真夜中にひとりで外へ出て、薄暗い田舎道を何キロも歩くのが習慣になっていたんです。僕にとっては、それが唯一のリフレッシュであり、心が落ち着く時間でした。

授業を聞けないしノートも取らない。そこで見いだした独自戦略

――成績のほうはいかがでしたか。

市川さん:一番ひどいときは、365人中360位でした。教科書はいたずら書きでいっぱいだし、ノートも取らない。授業中も先生の話を聞かず、ひとりでずっとしゃべり続けていましたから。内申点もかなり厳しかったですね。

――そこから、どのように高校や大学へと進まれたのでしょうか。

市川さん:中3ぐらいから「これはあかん」と思って切り替えていきました。自分の特性上、受験勉強を長くコツコツ続けるのが苦手なので、短期集中で乗り切ることにしました。そもそも、「勉強そのもの」があまり好きではないうえに多動症なので、教室での一斉授業や、マニュアル通りに進めるやり方には、どうしても馴染めませんでした。

ただ、自分の特性をふまえて、「どうすれば一番効率よく成果を出せるか」を考えることは好きなんです。大切なのは、自分に合った方法を見つけること。人に言われた通りにやるよりも、自分で見つけたやり方のほうが、結果的にうまくいくことが多いと感じています。

――具体的には、どのような勉強法を実践されていたのでしょうか。

市川さん:僕の場合は、教科書を1から当たるとか、参考書で深掘りするとかは絶対に向いてない。だから問題集を解くことにしました。それが意外に楽しかった。その後はとにかく過去問を繰り返すことのみです。それも、100点が取れるまで何度でもやり直す。たとえ99点でも、もう一度最初から解きしていました。

リハーサルとか予行が大嫌いで、一発勝負が一番力が出ると自分でもわかっていましたから、本番と同じ形の演習問題を中心に何度も解きました。これがうまくハマったので、大学受験も同じメソッドで乗り越えました。

僕は自分の得意なことと苦手なことを客観的に見極めながら、どうすれば最大限に力を発揮できるかという戦略を立てることが得意だったんだと思います。

――ASDやADHDの特性を持ちつつ、独自の戦略で道を切り拓いてきた市川さん。しかし、順調に見えた日々は、突然襲ってきた“窒息するような死の恐怖”をきっかけに大きく揺らぐことになります。

後編では、どん底からどのように立ち上がり、「作家・市川拓司」が生まれたのか。そして今、子育て中の親に伝えたい「子どもを守るために大切なこと」について伺いました!

後編はこちらから

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市川 拓司 筑摩書房 968円(税込)

世界中に『いま、会いにゆきます』をはじめとする作品を届けてきた作家・市川拓司さん。その物語は、どのような日常の中から生まれているのでしょうか。

本書は、自身の発達特性と向き合いながら、いかにして作品を生み出してきたのか――その思いや軌跡をつづった一冊です。

 

お話を伺ったのは

市川 拓司 作家

1962年、東京都生まれ。獨協大学卒業。1997年よりインターネット上で小説の発表を開始し、2002年に『Separation』でデビュー。2003年発表の『いま、会いにゆきます』は映画化・テレビドラマ化され、大ベストセラーとなる。
主な著作に『恋愛寫眞』『そのときは彼によろしく』『ぼくの手はきみのために』『弘海』など。2016年には『ぼくが発達障害だからできたこと』を刊行。以降は発達障害(ASD・ADHD)の当事者として、執筆や講演などを通じて積極的に発信を続けている。

取材・文/牧野 未衣菜 撮影/横田 紋子

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