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3きょうだいでスケートに打ち込んだ子ども時代
ーーご家族とスケートの関係を教えてください
わが家は5人家族です。父と母がいて、きょうだいは2つ違いの兄、私、そして2つ違いの妹の3人です。スケートは一番上の兄がやっていたからなんとなく始めました。兄がいなければ私も美帆も、もしかしたらスケートをしていなかったかもしれません。
きょうだいを一言で表すと、兄は「仏」、私は「自由」、妹は「真面目」ですかね。私たち「きょうだい」の話をすると「髙木姉妹」と言われて私と妹の2人姉妹と思われがちですが、どちらかというと一番スケートが好きなのは兄で、一番近くでいつも応援してくれていました。両親が共働きで忙しかった分、きょうだいの仲はとても良かったです。
子どもたちがそれぞれスケートに打ち込むようになると、両親は基本的に家ではスケートの話をしなくなりました。私たち姉妹は次第に結果を出すようになっていきましたが、父も母も結果に一喜一憂しない方針で、家では私たちをずっと「普通の娘」として扱ってくれていましたね。競技のことはほとんどコーチに任せてくれていたので、私たちにとってはそれがめちゃくちゃ居心地良かったと感じています。
でも、親がもし結果だけを見て「お前はもっと練習しろ」なんて言ってきたら、私は多分グレて家に帰らなくなっていたと思いますし、妹との仲も悪くなっていたと思います。だから両親は、試合や練習が終わって家に帰ってきた私たちに「お疲れさま」と言うくらいでした。技術面や結果については、聞かれない限り話さないというルールが徹底されていたんです。
ーーそれは意図的にご両親が決めたことだったのですか?
はい。父と母が相談し合って、「もう言わない」と決めてくれていたんだと思います。両親はこれまでスケートをやってきたわけではないので、自分が専門的なことを言えないというのもあったと思いますし、何よりも私たちが人から言われて行動するのではなく、自分で考えて行動する力を持てるように見守ってくれていたのだと思います。

例えば美帆が大会で優勝して帰ってきたとしても、家の中で「おめでとう」の言葉は一切出ませんでした。「結果で喜ぶ」ことを徹底的に避けてくれていたのだと思います。
出場した私たちも「カッコいい選手がいた」とかそんな話題は口にしても、「あのときのレースが…」なんて、内容を振り返ることはほぼなかったですね。
「髙木姉妹」と呼ばれて。苦しかった高校時代
ーー妹さんとの比較で辛かった時期はありますか?
小学生までは私の方が体格も良く成績も良かったのですが、妹との比較に苦しんだのは中学くらいからですね。中学から高校を経て、けっこうナーバスになっていた時期がありました。スピードスケートは学年が違っていても一緒に滑るので、たとえ0.0…何秒の差であっても必ず順位が出る競技です。そうなると当然どちらが速い、どちらが遅いという比較は常にあり、お互いに良いときもあれば調子の悪いときもありました。
ただ、本を読んでくださった方には伝わると思うのですが、私は美帆のことを「好き」とかそういう単純な言葉で言い表せない感情があるんです。私たちは同じ競技をしているからこそ、お互いの努力やすごさを知っています。その時々の結果がどうであれ、どちらかが上から何かを言うことはないですし、それは当たり前のことだと思います。
北京オリンピックでの転倒ーー、タイトル「7回転んでも8回起きる」に込めた想い

――本には北京オリンピックのことも書かれていました。なぜ、振り返ろうと思ったのですか?
北京で転んでしまったことは今でも引っかかりますし、その言葉(転ぶ)自体にいい印象は今もあまりないです。だから最初はこのタイトルも嫌でした。今でも講演会で転んだときのことをよく聞かれますし、このタイトルを付けることで、そのときのことを話すのを連想されてしまうような気がして。
でも考えていくうちに、そんな「転ぶ」ということも実は簡単ではないし、失敗をしなければ次にたどり着かないということも分かってきました。そして「起きる」のは、前向きに進むだけじゃなくて、逃げることや立ち止まる選択も含まれると思っています。
だから最初は嫌だった「七転び八起き」から付けたこのタイトルを、今はポジティブな言葉だと受け止めるようになりました。転んでしまっても起きること、そしてその先を決めて進むことこそ大事だと思っています。たとえ逃げるのでも「起きる」ことの一部です。そのときは逃げて違う道へ行ったとしても、その先で成功する人もいる。そういう意味で、起きるという行動自体を肯定したいです。
最終的に大事なのは「自分で決めて進む」ことです。私は次に行きたいから起き上がるんです。
子どもの頃、親にしてもらってよかったこと、してほしくないこと
ーー好きなことを高めていくために、大切な親の役割は何だと思いますか?
私の場合は、親から「もっと練習しろ」とか「勝つために練習しろ」などと言われたことは一度もありませんでした。私が勝ちたいから自分で練習してきただけです。もしも親が結果でしか見てくれない人だったら、多分ここまで続けられなかったでしょう。だからうちの両親が、競技のことを全く口出しせず見守ってくれたことには、本当に感謝しているんです。

ーーHugKum世代の子どもを育てるパパママに伝えたいことは何ですか?
子ども以上に喜ばないでほしいし、子ども以上に悲しまないでほしいです。小学校1年生くらいになれば、もう自分で考えて行動できる力はあると思います。親は視野を広げる手伝いをしつつ、決めるのは子ども自身に任せてほしいです。
木の成長のように、芽をどう伸ばすのか、または葉をどう広げていくのかといった選択肢を示したら、親は根として支えるのです。
そうすると「悔しいのは自分」「勝ちたいのは自分」「頑張ったからうれしいのは自分」──、私自身もそういう感覚でやってくることができました。親が喜びすぎたり悲しみすぎたりすると、子どもは親の顔色をうかがうようになってしまいます。だから、子どもは「自分を主語にする」ことこそが、その子のその後の人生の強さに繋がるのだと思います。
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取材時は「スケートに一区切り」という言葉を使っていた妹の美帆さんが、先日正式に引退を発表されました。姉妹で同じ競技をするアスリートには人一倍ご苦労があることを一視聴者として観てきましたが、でも今回の菜那さんのお話から、苦労だけではない想像以上の信頼と尊敬がありました。それは引退会見のお二人の姿からも見て取ることができ、そこに本当の髙木姉妹を感じました。
お話を伺ったのは
1992年7月2日、北海道中川郡幕別町生まれ。7歳から兄の影響でスピードスケートを始め、2010年世界ジュニアスピードスケート選手権チームパシュートで妹、美帆らと銀メダルを獲得した。
18年平昌大会では、女子団体パシュートでオリンピックレコードを記録。新採用されたマススタートも合わせて、日本の女子選手初の同一大会での2冠に輝いた。22年北京大会では女子団体パシュートで銀メダル、個人1,500mで8位入賞を果たした。
同年4月5日に現役を引退。テレビやイベントへ出演するほか、全国の教育機関や企業を対象に講演活動を行っている。
元スピードスケート金メダリストが初めて胸の内を綴った珠玉の一冊
スピードスケート選手として冬季オリンピックに3回出場した金メダリストの髙木菜那さん。
本書は、現在、メディアや講演などで幅広く活動する彼女が、初めて心の内と半生を綴った著書になります。
スケートとの出合い、周囲からの妹・美帆さんとの比較、五輪への厳しい道のり、歓喜に震えた金メダルの景色、追い込まれていった3回目の五輪、金メダル目前での衝撃の転倒、引退してからの抜け殻のようになった日々、ゆっくりと歩み始めた第二の人生・・・。
それらの半生を縦糸に、その折々で転機となった「言葉」や「学び」を横糸に、自らの言葉でありのままに綴っています。
何かにチャレンジしている人はもちろん、挫折をして悩み苦しんでいる人の背中を、そっと押してくれるような一冊です。
写真・横田紋子 取材・文/HugKum編集部