山崎の戦いは、いつ起きた? 戦った場所は?
「山崎(やまざき)の戦い」とは、1582(天正10)年に山城国(やましろのくに)山崎で、羽柴秀吉(はしばひでよし)が明智光秀(あけちみつひで)を破った戦いです。
1582年に山城国山崎で起きた戦い
天正10年6月2日の「本能寺(ほんのうじ)の変」で信長を討ち取った明智光秀は、同じ織田家の家臣である羽柴秀吉によって「山崎の戦い」で滅ぼされました。合戦自体は一日で終わり、光秀は逃げる途中で農民に討たれて落命します。
天下統一までもう一歩、というところまで進んでいた信長が亡くなったことによって、戦乱の時代に逆戻りかと心配されました。しかし、光秀を倒した秀吉が、その後の天下の主導権をにぎることになります。
山崎の戦いが起こるまでの経緯
光秀は、周到に準備して本能寺の変を起こしたとされていますが、そのわずか11日後に負けてしまったのは、なぜでしょうか。11日間の双方の動きを見てみましょう。
本能寺の変後の光秀の行動
6月2日早朝、光秀は京の本能寺を襲撃して信長・信忠親子を討ちます。このとき、織田家の諸将は、関東・中国地方・北陸地方などへ派遣されていて、近くにいたのは摂津(せっつ、現在の大阪府)で四国上陸の準備をしていた丹羽長秀(にわながひで)だけでした。
光秀は坂本城(さかもとじょう)に戻ると、各方面に協力要請の手紙を送ったとされます。同月5日、安土(あづち)城を占拠し、朝廷工作に奔走します。
9日に上洛(じょうらく)した光秀は、朝廷をはじめ有力筋に献金しました。織田家の諸将が遠方にいたため、少々の遅れは取り戻せると考えていたようです。
その後、丹羽長秀を討つために、摂津・河内(かわち)へ進軍し、味方になると見込んでいた細川幽斎(ほそかわゆうさい)や筒井順慶(つついじゅんけい)と交渉しますが、彼らは光秀側にはつきませんでした。
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秀吉の中国大返し
一方、備中(びっちゅう)高松で毛利(もうり)方と対陣していた秀吉は、光秀が毛利へ向けて放った使者を捕らえて、いち早く信長の死を知りました。
信長の死を知った秀吉は、すぐに毛利と和睦(わぼく)し、大軍を率いて京を目指すことになります。毛利方は信長が討たれたことを知らないため、「城兵の命は許す」という条件の和睦をすんなり受け入れたのです。
秀吉は姫路(ひめじ)で軍勢を立て直し、約200kmを一週間あまりで走破します。これが有名な「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」で、秀吉が天下取りに乗り出す第一歩となりました。
秀吉は道中、光秀が味方にできなかった高山右近(たかやまうこん)や細川幽斎、筒井順慶らを味方に付け、軍勢は2万6,000ほどにふくらみました。
山崎の戦いの流れと結末
10日、光秀は筒井順慶を待って合流しようとしましたが、順慶は現れませんでした。合流をあきらめた光秀は、翌日に秀吉を迎え撃つために山崎へ向かいます。
円明寺川を挟んで両軍が布陣
6月13日、秀吉は円明寺川(えんみょうじがわ、現在の小泉川)を見下ろす、標高270mほどの「天王山(てんのうざん)」に陣取ります。光秀は秀吉軍の出口をふさぐような形で、円明寺川沿いに布陣しました。
午後4時頃、光秀方の伊勢貞興(いせさだおき)が秀吉方の中川清秀(なかがわきよひで)を攻撃したことで、山崎の戦いが始まります。秀吉軍3~4万と、光秀軍1万数千の戦いでしたが、光秀に味方する者が期待したほど集まらなかったこともあり、わずか1時間半で決着しました。
戦いの終結と光秀の最期
当初は、明智軍が優勢でしたが、秀吉がタイミングよく予備隊を投入したことで、形勢は徐々に入れ替わっていきます。松田政近(まつだまさちか)や伊勢貞興らが討ち死にし、明智軍の主力だった斎藤利光(さいとうとしみつ)が敗れたあと、明智軍は総崩れとなりました。
光秀は、いったん勝竜寺(しょうりゅうじ)城へ退きますが、平城(ひらじろ)の勝竜寺城では防戦できないため、さらに本拠地の坂本城まで退くことにします。
しかし、坂本城へ行き着くはるか手前の小栗栖(おぐるす)という地で落命します。農民らの落ち武者狩りに遭った、深手を負ったため人知れず自害したなど、その最期は諸説あります。
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山崎の戦いから、生まれた言葉
山崎の戦いは、秀吉側からみれば主君・信長の「仇討ち(かたきうち)」です。また、秀吉が天下人(てんかびと)への階段を駆け上がるきっかけになった戦いでもあるため、山崎の戦いからは、いくつもの新しい言葉が生まれました。
「天王山」
勝敗を決する大事な場面や分岐点という意味で、「天下分け目の天王山」などといいます。この言葉は、秀吉が、山崎の戦いで天王山に陣取り、その後の戦況を有利に進めたことに由来します。
具体的な使用例としては、次のようなものがあります。
●高校・大学の受験前夜など「明日は天王山だから、今日は早く寝よう」
●ビジネスのプレゼンの場面など「今日のプレゼンがプロジェクト全体の天王山になるぞ」
●トーナメントの初戦で強い相手に当たったとき「今日の試合が天王山だ!」
「洞ヶ峠を決め込む」
光秀は、本能寺の変を起こす際に、何人かの武将が味方に付いてくれると見込んでいました。そのうちの一人・筒井順慶と合流するために山城国の「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」で待ちましたが、順慶は現れません。それどころか、秀吉方についてしまったのです。
そのことから、形勢を見て有利なほうに味方することを、「洞ヶ峠を決め込む」というようになりました。以前は、順慶が洞ヶ峠で戦況を見ていたことが由来とされていましたが、歴史的な事実ではないことがわかっています。
具体的な使用例としては、次のようなものがあります。
●チームのリーダーなどを決める際「あいつは臆病(おくびょう)だから、洞ヶ峠を決め込むに違いない」
●どっちつかずの態度をとる相手に対して「洞ヶ峠を決め込んでも、結局は滅ぼされる運命だ」
「三日天下」
光秀が、信長を倒してわずか11日後に滅んだことから、「三日天下(みっかてんか)」という言葉が生まれました。三日は、3日間ではなく期間の短さを表しています。きわめて短い期間だけ、権力を握ったという意味です。
具体的な使用例として、次のようなものがあります。
●政権争いなどで「野党が政権をにぎっても、三日天下に終わるさ」
●社内の権力闘争などで「クーデターがうまくいっても、三日天下ということもあるぞ」
●悪いことをすると長くは続かないという意味で「人を陥れて三日天下になるくらいなら、まじめに働くほうがいい」
もし秀吉の到着が遅れていたら
山崎の戦いは、主君である信長を討った光秀が、秀吉に滅ぼされた戦いです。
光秀は、十分に準備してから本能寺の変に臨んだはずなのに、なぜ簡単に滅んでしまったのでしょうか。山崎の戦いや、そのきっかけとなった本能寺の変には、今でもさまざまな疑問が残っています。
もし毛利への使者が秀吉に捕まらなかったら、もし秀吉の中国大返しが遅れていたら、まったく別の未来になっていたかもしれません。歴史を学びながら、そうした「IF(イフ)」を楽しんでみてはいかがでしょうか。
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構成・文/HugKum編集部