明智光秀とは?
「明智光秀(あけちみつひで)」には、謎が多いといわれていますが、ある程度のことは分かっています。まずは、数少ない史料から読み取れる、光秀の人物像についてつかんでおきましょう。
「本能寺の変」を起こした武将
光秀は戦国時代の武将です。同じ時代には、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など、有名な武将たちが活躍していました。
この4人の武将のうち、最も早くに覇権を握ったのは信長でした。しかし信長は「本能寺(ほんのうじ)の変」(1582)で命を落とします。その本能寺の変を起こした人物こそ、信長に仕えていた光秀だったのです。
本能寺は、現在も京都に存在しますが、場所を移して再建されたものです。信長が自害するときに寺に火を放ったため、当時の本能寺は焼け落ち、もともとの建物があった場所には石碑だけが残されています。
政治家や文化人としても活躍
光秀は戦上手(いくさじょうず)な武将である一方で、優れた政治家でもありました。無駄を嫌う性格で、人材を積極的に採用して治水工事を行ったり(明智藪)、税金を免除したりと数々の善政を行ったようです。
また、当時の武士には連歌(れんが)の教養が必須とされていました。記録が残っている中で、最も古い光秀の連歌は1568(永禄11)年のものです。初めは連歌会で詠む句が少なかった光秀も、徐々に句が増え、上達していきます。
さらに名の知られた茶人の下で学び、茶の湯の世界にも通じていました。近年になって発見された史料から、医学の知識もあった可能性が示唆されています。光秀は幅広い教養を身に付けていた武将といえるでしょう。
家紋は水色の「桔梗紋」
明智家の家紋は、桔梗(ききょう)をモチーフとした「桔梗紋」です。桔梗は遠い昔、花を投げて運勢を見る「吉凶を占う花」でした。加えて、桔梗の字面が「更に吉」とも読めることから、縁起がよいとされていたのです。
桔梗紋は人気で、多くの家が採用していましたが、明智家の桔梗紋には、ほかとは違う特徴があります。ほとんどの家紋はモノクロで作られていますが、明智家の家紋は水色を使った「水色桔梗」なのです。
光秀の出身地・美濃(みの、現在の岐阜県)を治めていた土岐(とき)氏の家紋も、桔梗紋です。明智家の水色桔梗の由来は、土岐氏が勢力を伸ばすときに「水色の旗を掲げていた」ことだといわれています。
明智光秀の躍進から謀反までの定説
明智光秀は、どのようにして織田信長に出会い、なぜ謀反(むほん)を起こしたのでしょうか。現在、定説とされている光秀の生涯を追っていきましょう。
才能を買われ、信長に重用される
1565(永禄8)年に室町幕府の第13代将軍・足利義輝(よしてる)が暗殺され、弟の義昭(よしあき)は越前(現在の福井県)の朝倉氏のもとへ逃げました。当時、朝倉氏に仕えていた光秀は、義昭を信長に引き合わせて支援を交渉する過程で、信長を主君とすることになったのです。
信長が金ヶ崎城(かねがさきじょう)で朝倉・浅井(あざい)軍に攻められたときには、豊臣秀吉とともに最後方で戦い、約7倍もの軍勢を相手に信長を守り切りました。
政治家としても手腕を振るい、丹波(たんば、現在の兵庫県)や近江(おうみ、現在の滋賀県)の統治を信長から任されています。さらに築城の達人でもあり、光秀が建てた福知山城などは近代城郭の走りでした。
こうした多岐にわたる才能を買われ、光秀は信長に重用されていたのです。
本能寺の変で信長を討つ
1582(天正10)年6月2日、史上最大の下剋上(げこくじょう)ともいわれる「本能寺の変」が起こります。家臣である光秀が、主君である信長を滅ぼした事件です。
当時、信長が抱える有力武将たちは、各地に散って交戦しており、信長は京都の本能寺で総指揮を執っていました。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)からの救援要請が届くと、信長は光秀に出陣を命じます。
大軍を率いて京に向かう大義名分を得た光秀は、秀吉のもとではなく、本能寺で休む信長のもとへ向かったのです。「敵は本能寺にあり」と告げると、光秀は守りの薄い本能寺へ攻め込みました。
襲撃を受けた信長は「是非(ぜひ)に及ばず」と応戦し、最後は自害して果てたのです。しかし信長の遺体は見つかっておらず、光秀の謀反の理由も分からないため、本能寺の変は日本史における謎とされています。
山崎の合戦に敗れ、最期を迎える
本能寺の変の後、光秀は安土(あづち)城へ入り、京都とその周辺を押さえましたが、当てにしていた細川藤孝(ふじたか)や筒井順慶(じゅんけい)たちの協力を得られませんでした。信長討伐を極秘にしていたため、根回しが足りなかったのです。
信長が討たれたことを知った秀吉は、素早く態勢を整え、驚異の勢いで光秀討伐に向かいました。このときに起こったのが「山崎(やまざき)の合戦」です。秀吉の圧倒的な軍勢に力及ばず、1582年6月13日に光秀は伏見小栗栖(ふしみおぐりす、京都府)で落ち武者狩りにあったといわれています。
光秀は、確かに一度は天下を取りましたが、本能寺の変から、わずか11日で討たれてしまったのです。この出来事から、わずかな間しか権力を保てない様子を「三日天下(みっかでんか)」と呼ぶようになりました。
謎多き明智光秀のエピソード
本能寺の変を起こした動機だけではなく、明智光秀自身も、謎に包まれた人物です。今も、まことしやかにささやかれる、光秀のミステリアスなエピソードについて紹介します。
前半生は不明? 生活に困窮していたことも
光秀の前半生は、それほど有名な家の出身ではないため、明確には分かっていません。出生地は、美濃という説が有力です。
光秀が誕生したのは1516(永正13)年、もしくは1528(享禄元)年とされています。いずれにせよ、1534(天文3)年生まれの織田信長よりは年上だったはずです。
光秀は織田信長の妻・濃姫(のうひめ)のいとこだったため、信長と義昭の仲介ができたともいわれていますが、これについても確かな史料はありません。
また、朝倉氏に仕える前の光秀は、当てもなく流浪していたようです。そのとき、あまりに貧乏で客に振る舞うごちそうが出せず、見かねた妻・煕子(ひろこ)が髪を売って費用を工面したとも伝えられています。
謀反の意を和歌に詠んでいた?
連歌をたしなんだ光秀は、1582年5月28日に、京都の威徳院(いとくいん)で行われた連歌会で、「ときは今 雨が下し(な)る 五月哉」と詠みました。愛宕百韻(あたごひゃくいん)という連歌の発句に当たるこの歌は、謀反の句として有名です。
豊臣秀吉の活躍を描いた書物『惟任退治記(これとうたいじき)』によれば、「土岐出身の光秀が天下を下知る(治める)五月かな」と読めるといいます。歌が詠まれた直後に、本能寺の変が起きたため、そのように解釈する考えが生まれたのでしょう。
しかし本能寺の変が起きたのは、5月ではなく6月で、光秀は「下しる」ではなく「下なる」と詠んだともされています。確たる証拠はないため、本当に謀反の意を詠んだ歌であったかどうかは不明のままです。
山崎の合戦後も、実は生きていた?
光秀は山崎の合戦以降も、実は、ひっそりと生き延びていたという説があります。その説では、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)と名を変えて、徳川家康に仕え、大僧正(最高位の僧侶)になったというのです。
天海が光秀だと推測する理由は、天海の前半生が不明であること、豊臣家が滅亡する数カ月前に「光秀」という人物が、比叡山(ひえいざん)に石灯籠(いしどうろう)を寄進していること、天海の墓が光秀ゆかりの地にあることなどが挙げられます。
この説は、歴史ファンの想像をかき立て、ゲームや小説でも多く扱われてきました。都市伝説の域を出ないエピソードではありますが、物語としては魅力的な推察といえるでしょう。
明智光秀を詳しく学べる本
明智光秀について書かれた本は多くありますが、切り口によって難しい書籍もあるでしょう。子どもと一緒に興味を持って読める、光秀の伝記を2冊紹介します。
小学館版学習まんが人物館 明智光秀
織田信長との出会いから本能寺の変まで、光秀の半生が5章構成のまんがで紹介されています。本編に入る前に、簡単な年表や代表的な出来事についての解説があるため、物語に入りやすいでしょう。
歴史物ならではの難しい言葉も出てきますが、注釈を読めば分かるようになっています。巻末には、光秀の謎や関係の深い人物の紹介もあり、歴史に興味を持ちはじめた子どもに最初に買ってあげる1冊としておすすめです。
完全ガイドシリーズ268 明智光秀完全ガイド
こちらの書籍は、まんがだけでは物足りない歴史ファン向けの1冊です。時代の流れや、周りの武将の動きまでが細かく記されており、親子で興味深く読めるでしょう。
巻頭にはポップなイラスト付きで、光秀の生涯や仰天エピソードが収録されています。また、光秀ゆかりの城や土地のガイドもあるため、観光の予定を立てるときにも役立つかもしれません。
明智光秀の生涯について考察してみよう
明智光秀は、本能寺の変を起こして織田信長を討ち、史上最大の下剋上を成し遂げた武将です。大河ドラマの主人公に取り上げられたこともあり、今でも人気が衰えません。
光秀と信長の関係や本能寺の変については、学校の授業でも習う知識です。この機会に光秀の謎に包まれた生涯から本能寺の変までの考察に、親子で取り組んでみてはいかがでしょうか。
構成・文/HugKum編集部
参考:
晋遊舎 100%ムックシリーズ 完全ガイドシリーズ268 明智光秀完全ガイド
リイド社 明智光秀 SPコミックス