天下統一を目指した「織田信長」ってどんな人? 事件や名言も紹介【親子で歴史を学ぶ】

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日本の戦国時代は、さまざまな武将が天下を獲ろうと競い合っていました。その中でも、天下統一にあと一歩まで手をかけた人物が尾張国の織田信長です。織田信長とは、果たしてどのような人物だったのでしょうか。彼にまつわる逸話や事件を分かりやすく紹介します。

織田信長はどんな人物だった?

戦国時代とは、応仁の乱が起こった1467年から徳川家康が江戸幕府を開く1603年までのおよそ140年間を指すのが一般的です。

武田信玄や上杉謙信、今川義元や斎藤道三など、あまたの武将が出現し、天下統一や平定を目指した時代でもあります。

その中で、天下統一にあと一歩というところまで手をかけた武将がいます。それが、織田信長です。彼は一体どういう人物だったのでしょうか。エピソードを交えながら、彼の人物像を紹介します。

1534年に尾張国で生まれる

織田信長(幼名・吉法師)は、1534年6月(天文3年5月)に、尾張国の領主であった織田信秀の子としての生を受けました。この頃の尾張国といえば、天下統一はおろか滅亡へ足をかけていた弱小国です。

なぜなら東の遠江・三河には、天下統一の有力候補とささやかれていた今川義元がいて、北の美濃国には斎藤道三がいつ尾張国に進出してきてもおかしくはない状況だったのです。

あげく尾張の領内は、枝分かれした他の織田家と敵対しているという、外も内も敵だらけの四面楚歌でした。

絶望な状況から、織田信長は天下人にもっとも近い場所までたどり着いたのです。

派手な服装と奇行が目立った青年時代

織田信長の幼少期は、破天荒な人物として知られています。

入浴時に着る湯帷子(ゆかたびら)を日頃から着用して、髪はひもで結び、腰には帯ではなく縄を巻いてひょうたんをぶら下げていたのだそうです。

格好だけでなく、人に寄りかかり、柿や瓜をかじりながら街を練り歩き、悪友との奇行が目立ちました。とても尾張国の領主の息子とは思えない振る舞いです。

そんな織田信長は巷では「大うつけもの」と呼ばれ、馬鹿にされていたそうです。

さらに信長は父親の葬儀で焼香の際に、香をつかんで仏前へ投げつけるなどの奇行を行い、参列者からは「大馬鹿者」という非難を受けました。

織田信長の傅役(もりやく:教育係)だった平手雅秀が自害したのは、一説には信長の奇行をいさめるためだったともいわれています。

信長のうつけは演技だった?

美濃国の斎藤道三が信長とはじめて会見するときのことです。会見場所である聖徳寺に現れたとき、信長は相変わらず奇抜な格好をしていました。

しかし、正式に会見の場を訪れた信長は、髪を結い直して正装となる袴姿に着替え、道三の前に現れたそうです。

道三は信長を高く評価し、「自分の死後は美濃を信長に譲る」という遺言まで残しています。

後に、信長は西洋文化に関心を示したり、「楽市・楽座」によって商業を活性化させようとしたりと、単なるうつけではない力も見せています。

このようなエピソードから、信長のうつけぶりは、実は演技ではないかといった説も浮上しているのです。

織田信長にまつわる戦いや事件

戦国武将として、織田信長は何人もの強敵と戦い、打ち破ってきました。織田信長にまつわる戦いや事件の中でも代表的なものを紹介します。

大軍の今川勢に勝利「桶狭間の戦い」

1560年(永禄3年)に起こった「桶狭間の戦い」は当初、織田信長に勝ち目はないと思われていました。

織田信長は尾張1国の領主です。対する今川義元は東海3国(駿河国・遠江国・三河国)を支配する大武将でした。兵力で見ても、今川方の2万5000に対し、織田軍はたったの4000です。

この差を、信長は諜報(ちょうほう:スパイ)と用兵を駆使して覆そうとします。

義元宛てに手紙を送り、信長方から義元方へ寝返った者の中に、「寝返ったフリをしている内通者の存在」を匂わせました。そして義元を疑心暗鬼に陥れ、寝返った者たちを処刑させたといいます。

そして、用兵では兵を細かく分けて分散・集結させることで、義元から信長側の主力を隠しました。義元は兵力を分散させ、結果自分の護りを手薄にする結果を招いてしまいます。

信長はこの隙を見事に突き、義元の本陣に急襲をかけると、見事に今川義元を討ち取ってみせたのです。

弱小国の領主としてしか認識されていなかった信長が、一気に天下人に名乗りを挙げた戦いでもありました。

鉄砲隊が活躍した「長篠の戦い」

戦国時代最強の武将と名高い、甲斐の武田家との戦いでした。対して信長は、徳川家康との連合軍で挑みます。

この戦いでは、信長側にいくつもの勝因が重なりました。最大の勝因は、武田信玄の急死です。

信玄の死により、武田軍は進軍を一度中止して本国に引き返さざるを得ませんでした。それが信長・家康の連合軍に兵を整えるだけの準備期間を与えてしまい、結果として織田・徳川連合軍の総数は武田軍を上回ることになります。

信玄の死により武田側が統率を失ったことも要因でしょう。信玄のカリスマ性によって動かされていた武田家は分裂の危機を迎えました。

その間に、連合軍は3000丁もの鉄砲を用意します。戦では鉄砲隊を1000人ずつ3列に布陣し、最前列は射撃後に最後列まで下がり、弾を込めている間にほかの2列が撃つという「三段撃ち」を実行しました。

当時の火縄銃の最大の欠点であった「2発目に時間がかかる」という問題を補い、戦国最強の騎馬隊といわれた武田を打ち破ったのです。

この戦いは、鎌倉の頃から続いていた「馬に乗り、剣や槍で斬り合う時代」から「銃による戦争」に転換する最初の戦いだったともいわれています。

戦国最大の謎「本能寺の変」

天下統一まであと一歩まで迫った信長にも、死が訪れます。1582年(天正10年)に、明智光秀が起こした「本能寺の変」です。

このとき、信長は30人ほどの小姓衆を連れていただけだったといいます。光秀は1万3000もの兵をもって、本能寺を目指して進軍するよう部下に命じました。もっとも、光秀の部下たちも信長に弓を引くとは思っていなかったそうです。

このときに光秀が発した「敵は本能寺にあり!」という言葉を知っている人は多いことでしょう。

光秀が信長を討った理由は「自分が天下人になるつもりだった」「母親を見殺しにされた」「公衆の面前で恥をかかされた」など諸説あり、資料も残されておらずはっきりしていません。

また、信長は本能寺内で切腹したとされていますが遺体は見つかっておらず、こうしたいくつもの謎から本能寺の変を「戦国最大の謎」と呼ぶ声もあがっています。

織田信長の性格を表した名言

織田信長にまつわる名言は、後世にいくつも引き継がれています。その中でも特に有名な言葉を厳選して紹介しましょう。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

「比叡山焼き討ち」「長島一向一揆攻め」などのエピソードから、信長の苛烈な性格を表した句として知られています。

1784〜87年に作られた「耳嚢(みみぶくろ)」という雑話集の中に、その言葉があったといいます。

鳴かないホトトギスを殺害してしまう信長

鳴かないホトトギスを、無理矢理鳴かせてみせる秀吉

鳴かないホトトギスを、鳴くまで待つ家康

これは、天下人にもっとも近づいた信長と、天下人となった秀吉・家康の3人の違いを表す句としてとても有名です。

もっとも、この「耳嚢」という本は、江戸時代の旗本・南町奉行の根岸鎮衛が公務の暇なときに来訪者などの話を編集したものであり、実際には誰が読んだ句なのかは分かっていません。

人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

これは、信長が愛した曲舞「幸若舞(こうわかまい)」の一つである「敦盛」の一節に登場します。

かつて今川義元と戦った「桶狭間の戦い」にて、そして死の間際である本能寺が炎上しているときにも、信長はこの舞を舞ったとされています。

「人世の50年は、天界の時間と比較すれば、夢か幻のように儚いものだ」といった意味の言葉です。

つまり「時の流れとはあっとうまに過ぎ去ってしまうもの」という意味であって、決して当時の人間の平均寿命が50年ということを意味しているのではありません。

信長の死生観ではなく、時間に対する価値観、世の移り変わりを想う様を表しています。

織田信長はどんな家紋を使っていた?

「家紋」は、日本人にとっては家の象徴のようなものです。戦国時代では、家紋は戦旗として敵方に主張するために使われることもありました。

真田家の「六文銭」や、徳川家の「三つ葉葵」は、水戸黄門などのテレビドラマで見たことがある人もいるかもしれません。

織田信長は、どのような家紋を使っていたのでしょうか。信長が使っていたとされる「七つの家紋」について解説します。

最も有名な織田木瓜紋

江戸時代に幕府に提出された「寛政重修諸家譜(かんせいちゅうしょかふ)」によれば、織田家の家紋は七つもあるといいます。

戦国時代では、戦の褒美として家紋をもらうことがあり、そのため複数の家紋を持つ家も少なからずあったのです。

織田の家紋の中でもっとも有名なのは「織田木瓜紋(おだもっこうもん)」で、ほかの家紋は、この家紋が使えない場合の代用とされたとのことです。

瓜の断面、鳥の巣を象ったものなど複数の説があり、明確に由来は分かっていません。卵の入った鳥の巣に似ていることから「子孫繁栄」の意味で使われることが多いといわれています。

ひょっとしたら織田家でも、繁栄を願って使われていたのかもしれません。

ほか六つの家紋

ほかの六つの家紋は、以下の名前が付いています。

  • 揚羽蝶(あげはちょう)
  • 永楽通宝(えいらくつうほう)
  • 五三桐(ごさんのきり・ごさんぎり)
  • 二引両(ふたつひきりょう)
  • 十六葉菊(じゅうろくはぎく)
  • 無文字(むもじ)

「揚羽蝶」は平家の流れを汲む家紋で、信長は織田家が平家の流れを汲む家だと主張するために使っていたようです。

「永楽通宝」は明の通貨、「五三桐」と「二引両」は足利義昭を将軍に就任させた際にもらった恩賞、「十六葉菊」は当時の皇室からもらった家紋で、「無文字」は仏教における無を表しています。

それぞれの家紋が信長の実績や考え方を表すものとして、今日まで語り継がれているのです。

織田信長のことが分かるおすすめの本

織田信長に関する小説や学術本はたくさん出ているため、勉強するのには困らないでしょう。

その中で、小学生向けに出版された、織田信長についてよく知ることのできるおすすめの本を紹介します。

小学館版 学習まんが人物館 織田信長


小学生に大好評の【学習まんが 人物館】シリーズ。戦国武将の代表格・織田信長の伝記まんがです。このシリーズでは『織田信長』のほか、『豊臣秀吉』や『徳川家康』版もあり、戦国の三大武将の物語をあわせて学ぶことができます。漫画家・トミイ大塚氏の斬新な絵柄・構図は、漫画としても完成度が高い。

低中学年から読める「やさしく読める ビジュアル伝記 織田信長」


小学校低中学年からでも読める伝記シリーズで、イラストを交えた解説で信長について詳しく書かれています。

当時の勢力図や、戦いの重要な場面について、小説のような形式と迫力ある描写で描かれるなど、小学生にも読みやすい工夫がところどころにされている一冊です。

とじ込み新聞などのギミックも用意されているため、楽しみながらあっという間に読んでしまうでしょう。

漫画で学ぶ「まんが人物伝 織田信長」


東京大学史料編纂所教授であった山本博文氏が、自らの研究や資料をもとに監修にあたっています。

漫画は、数々のゲームのキャラクターデザインなどをおこなっている金子一馬氏によって、迫力あるタッチで描かれています。

漫画で学習できるのでとっつきやすく、子どもにも分かりやすい内容といえるでしょう。

信長の非凡性や、いかに敵を打ち破るのか、戦いの中の工夫などに焦点を当てていることも、子どもに好まれるポイントです。織田信長という人物について、よく知ることができます。

キャラクターと楽しく学ぶ「ドラえもん人物 日本の歴史7・織田信長 」


国民的人気キャラクターである「ドラえもん」と共に歴史を学ぶシリーズの1冊です。

ドラえもんやのび太の目線から、信長がどんな人物なのか、どんな一生を送ったのかについて漫画形式で見ていきます。

漫画である点や、さらになじみ深いドラえもんと一緒に学んでいくことで、歴史に対して苦手意識を持っている子どもでも楽しく読むことができるでしょう。

ドラえもんの漫画を読んでいる感覚で、歴史について深く学ぶことができる1冊です。

興味ある内容から織田信長について学んでいこう

織田信長は、日本の戦国武将の中でも特に有名な人物です。彼が47歳という人生の中で何を成し得たのかを知ることで、人生や歴史について、改めて考える機会を得られるでしょう。

もし信長が天下を獲っていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。そんな視点で信長についての知識を深めていくと、いっそう感慨深いものがあるのではないでしょうか。

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文・構成/HugKum編集部

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