一橋大学法学部からお笑い芸人へ! 忘れられない「ルミネtheよしもと」の舞台、反対した両親に今思うこと【ナイチンゲールダンス・中野なかるてぃんさん|後編】

お笑いコンビ「ナイチンゲールダンス」として活躍する中野なかるてぃんさん。ストレートで一橋大学法学部に進学し、当初は法曹界も思い描いていたものの、大学でお笑いに夢中になり、卒業後は芸人の道を選びました。

芸人になりたいと打ち明けたとき、ご両親の反応は? 将来が約束されていない世界へ進むことに不安は? インタビュー【後編】では、芸人になるまでの道のりと、中野さん自身の考え方、今だからこそ感じるご両親への思いを伺いました。

法曹への夢より夢中に? 大学で出合った「お笑いサークル」

――一橋大学法学部に入学して、法曹への夢はより具体的になっていったのでしょうか?

中野なかるてぃんさん(以下、中野さん): それが大学の授業がすごく難しくて、それだけで手いっぱい。司法試験合格までの道筋は、なかなか見えませんでした。

もともと「弁護士とか法曹界で仕事ができたらかっこいいだろうな」くらいの漠然とした気持ちだったんですけど、本気で法曹をめざしている人たちは、大学1、2年生の早いうちから資格取得のための予備校にも通っていることを、入学して初めて知りました。

――大学と予備校のダブルスクールですね。

中野さん:それを知ったとき、僕の昔からの塾嫌いがさく裂しまして(笑)。

それまで、法学部に入る人はみんな法曹界をめざしているものだと思っていたんですけど、実際はそんなこともなくて。「じゃあ僕も、まずは大学の授業を頑張ろう」と、法曹への夢はいったん置いておく感じになりました。

――授業以外ではどんなことをされていたんですか?

中野さん: お笑いサークルに入ったら、すっかりはまってしまって。もともと人前に出て笑わせるようなことは好きだったんですけど、人生で初めてなんじゃないかというくらい、夢中になりましたね。

――でも、サッカーも小学2年生から高校まで続けていましたよね。それだけ長く続けたなら、かなり好きだったのでは?

中野さん: いや、僕、サッカーはそんなに得意じゃなかったですし、練習も試合も全然好きじゃなかったんですよ(笑)。

サッカー部時代の中野さん

――えっ、そうだったんですか?

中野さん: サッカー部のみんなとしゃべるのが好きだったんです。やめて仲間と過ごす時間がなくなるのが嫌だった。だから続けていた部分が大きかったのかもしれません。

大学でも最初はサッカーとお笑い、両方のサークルに入りましたが、サッカーは1年くらいでやめて、お笑いサークル一本になりましたね。

お笑いを語れる仲間も、生の舞台も。大学で広がった世界

――そこまでお笑いに夢中になったのは、何が大きかったのでしょう?

中野さん: お笑い自体は中高生の頃からずっと好きだったんですが、お笑いの話ができる人が周りにほとんどいなくて。

当時は、YouTubeが出てきた頃だったので動画を探して見たり、レンタルDVDを借りたり。お笑いのDVDって、だいたい18禁コーナーの隣にある細い棚に並んでいたんですよ(笑)。その細い棚にあるものを片っ端から借りて観ていました。受験勉強の合間にも観ていたと思います。

高校では、M-1の話ができる友だちは一人くらいしかいなかったのに、お笑いサークルに入ったら、全員が当たり前のようにその話ができるんです。

ほかの大学のお笑いサークルとも交流があって、そこでもみんな話せる。舞台に出るのももちろん好きでしたけど、何より、好きなお笑いの話を同じくらい好きな人たちと思い切りできるのが楽しかったんですよね。

――好きだったお笑いを、共有できる場所に出合ったんですね。

中野さん: そうですね。それに、大学から新宿の「ルミネtheよしもと」まで電車一本、30分くらいで行けるんですよ。山梨にいた頃は、コンサートホールみたいなところに、たまに芸人さんが来てくれるくらいだったので、観たいときにすぐ観に行けることにも感動しました。

大学時代、相方のヤスさんと

父からは「そんなところにレールはない!」。それでも芸人の道へ

――お笑いを楽しむ側から、「自分も芸人になりたい」という夢に変わったのはいつ頃だったのでしょう?

中野さん: 大学2年生のときに、全国でいちばん面白い大学お笑いサークルを決める団体戦イベント「NOROSHI」に出場したんです。決勝の舞台が「ルミネtheよしもと」でした。

舞台に立つと、お客さんの笑ってくれている顔がよく見えるんですよ。それに笑い声も聞こえる。そのときの光景が忘れられなくて、「芸人になりたい」と思う最後のひと押しになりました。

――ご両親には、すぐに相談されたのでしょうか?

中野さん: 大学3年生になる春休みに実家へ帰ったとき、父に「お笑い芸人になりたい」と話しました。

そうしたら、「そんなところにレールはない!」って。一橋大学を受験する直前には、「自分で敷いたレールを進んでいてすばらしい」って言ってくれた父なんですけどね(笑)。

――レールを敷く前に、まずはご両親を説得して地盤を固めるところからですね。

中野さん: そうなんですよ。普通なら「お前、そんなことを考えていたのか」とか、「お笑いやっているところなんて見たことない」とか、まず話を聞かれるのかなと思うんですけど、信じられないくらいノータイムで「ダメ」って言われて(笑)。結構ピリつきました。

――お母さまは、どんな反応でしたか?

中野さん: 次の日、家から駅まで送ってもらう車の中で、母からも「本当に? 本当に?」みたいな感じで言われましたね。そのときに、「とりあえず養成所に行って、1年間やってみる」というようなことを話したと思います。

50万円を自分でためてNSCへ。まさかの「ダブルスクール」

――お父さまに反対されても、芸人になる気持ちは変わりませんでしたか?

中野さん: 徐々に説得していけばいいかなと思っていました。それより、大学4年生で吉本興業の養成所「NSC」に通うためには、準備しなきゃいけないことがあったんです。

まず、大学3年生のうちに卒業に必要な単位を取っておく。それから、NSCの学費などに必要な50万円くらいのお金も、自分でためなきゃいけないなと。

――50万円を自分で。アルバイトでためたのですか?

中野さん: それまでは仕送りだけで何とかやりくりしていたんですけど、さすがにアルバイトをしなきゃなと。

周りには家庭教師をしている友だちが多かったんですけど、自分には無理だなと思ったので、家から近いスーパーマーケットでレジ打ちのアルバイトを始めました。そこで何とか目標金額をためて、予定通り大学4年生でNSCへ。

大学1年生ではダブルスクールなんて無理だと思ったのに、大学4年生でまさかのダブルスクールです(笑)。

――うまくいかなかった場合のことも考えていたのでしょうか?

中野さん: もし難しそうだったら、半年留年して就職活動しようとは考えていました。

でも、NSCを首席で卒業し、一橋大学も無事に卒業。吉本興業所属の漫才師として、4月から社会人生活をスタートしました。

「何とかなるさ」でまず挑戦。根っからのポジティブ思考

――医師や弁護士などに比べると、芸人は将来が約束された仕事ではありません。不安はなかったですか?

中野さん: そうですよね。でも、それまで受験もなんとかなってきちゃったので、今回も「とりあえずやってみよう。何とかなるさ」って。僕、嫌なことがあっても、結構寝たら忘れちゃうタイプですし(笑)。

――「何とかなるさ」精神は、どこからきていると思いますか?

中野さん:悩んでいる人に、あまり憧れなかったからですかね。弱音を人に見せたくないというか…本当に信頼している人には言いますけど。

例えば4人でご飯を食べたり飲んだりしていて、一人が悩み相談を始めると、その場がその人に掌握されちゃうじゃないですか(笑)。

僕はそれがあまり好きじゃなくて。せっかく4人でいるなら、4人で楽しくしゃべりたいという気持ちのほうが強いんですよね。まあ、結局は根がポジティブなんだと思います(笑)。

――ご両親も、そういうタイプだったのでしょうか?

中野さん:おそらく。だって、一人息子がお笑い芸人になったのに、なんか大丈夫そうでしたから(笑)。

最初は間髪入れずに反対した父も、今は応援してくれています。父が勤務している病院に営業で行かせてもらったことがあるんですけど、そのときは先生や看護師さんたちと一緒に見に来てくれました。

僕、「ナイチンゲールダンス」っていうコンビで活動しているんですけど、このワード、病院ではウケるんですよ(笑)。

過干渉ではなかった両親。「信頼されている感じはすごくあった」

――ここまでお話を伺っていると、中野さんは自分のことを自分で決めてきた印象があります。一人っ子というと、ご両親がつい口を出したくなるようなこともありそうですが、そうではなかったんですね。

中野さん: 両親とも忙しかったというのもあると思いますけど、全然過干渉ではなかったですね。でも、信頼されている感じはすごくありました。

一人っ子で、一人で過ごす時間が多かったこともあるかもしれませんが、自分で決めるのは好きだったと思います。人のまねをしたくないみたいな、ちょっと頑固なところもあるんですが…。

――周りに合わせるというよりは、「自分はこう」というタイプ?

中野さん: そうですね、意思はしっかりあるほうだと思います。でも、頑固な自分がやってこられたのは、周りに恵まれてきたからですよね。

今、コンビを組んでいる相方は結構フレキシブルなタイプなので、僕の頑固なところもうまく受け止めてくれている。そう考えると、両親にも相方にも感謝ですね。

反対してくれたことも、今では両親への感謝に

――振り返ってみて、「ご両親のこういうところがありがたかった」と感じるのは、どんな部分ですか?

中野さん: お笑い芸人になると言ったときも、ちゃんと一度反対してくれたことは、今思うとありがたかったですね。

子どもとはいえ、もう20歳くらいの人間が「これをやりたい」と言っていることに対して、「ダメ」と言うのって、親にとっても結構カロリーがいることだと思うんですよ。勇気もいりますし。

それでも親として、「それは私たちが望んでいることではない」と、きちんと自分たちの気持ちを伝えてくれたんですよね。

――そのときは「反対された」と嫌な気持ちにはならなかったのでしょうか?

中野さん: 反対はされましたけど、本当に僕のことを心配して言っているんだというのは感じていました。

世間体がどうとか、そういう話はまったくしなかったんですよ。だから「頭ごなしに否定されている」という感じでもなくて。

もちろん、親が子どものやりたいことを、全て否定するのがいいということではないですが、僕の場合は「そりゃ反対されるよな」と自分でも思えたし、「だったら両親を納得させるためにも頑張ろう」という気持ちにもなりました。

――反対の言葉の中にも、ご両親からの愛情を感じていたんですね。

中野さん: そうですね。それに、父が「そこにレールはない」と間髪入れず反対した話なんかは、今では鉄板エピソードとして話させてもらっているので。話せるネタをひとつ作ってくれたことにも、今では大きな感謝です(笑)。

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お話を伺ったのは

中野なかるてぃん お笑い芸人

1994年8月28日生まれ、山梨県出身。一橋大学法学部卒業。大学在学中からお笑い活動を始め、大学4年時にNSC(吉本総合芸能学院)東京校22期に入学。卒業後の2017年、ヤスさんとお笑いコンビ「ナイチンゲールダンス」を結成。2023年「ツギクル芸人グランプリ」優勝、2023年・2024年「M-1グランプリ」準決勝進出。吉本興業所属。趣味は小道具作り、ジェットコースター。

この記事を書いたのは

篠原亜由美 ライター

法学部卒業後、通信教育などを手がける教育業界の企業に勤務し、その後ライターとして、女性誌や複数のWeb媒体で、暮らしや子育てを中心としたライフスタイル分野で取材・執筆を行っている。2児の母で、子どもはすでに成人しており、中学受験や大学受験を経験。実体験をもとに、同世代の女性に寄り添えるような記事を心がけている。

撮影/五十嵐美弥

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