【ナイチンゲールダンス・中野なかるてぃんさん】塾なし・通信教育一本で一橋大学に合格! 7代続く医師家系でも進路は自分で決めてきた

お笑いコンビ「ナイチンゲールダンス」として活躍する中野なかるてぃんさん。大学受験まで一度も塾に通わず、通信教育を活用した自宅学習で一橋大学に合格しました。

さらに、7代続く医師家系に育ちながら、選んだのは医学部ではなく法学部。さらに、大学在学中にNSC(吉本総合芸能学院)に通い、芸人の道へ!? 独自の道を突き進んだ中野さんは、どのように勉強と向き合い、自らの進路を選んできたのでしょうか。

インタビュー【前編】では、子ども時代やご両親との関わりを振り返りながら、一橋大学合格までの道のりを伺います。

活発なサッカー少年。みんなを楽しませるのが好きだった

――中野さんはどんなお子さんだったのでしょう?

中野なかるてぃんさん(以下、中野さん): 活発な子どもでしたね。小学2年生からスポーツ少年団に入ってサッカーをしていたので、外で遊ぶ友だちも多かったです。

一方で、人を笑わせたり、注目されたりするのも好きでした。小学3年生くらいのとき、音楽の授業で童謡の「海」に合わせて波の真似をしたら、教室ですごくウケて。そういうことをするのも好きでしたね。

――小学生の頃から、みんなを楽しませることが好きだったのですね。家ではどんなふうに過ごしていましたか?

赤ちゃん~幼少期の中野さん

中野さん: 一人っ子なので、本を読んだりゲームをしたり、一人で過ごす時間も多かったんですが、小学校に上がる前は、母と「のど自慢ごっこ」をしたりもしていたみたいです。

僕が架空のシンガーソングライターになって挑戦者役をやるんです。「エントリーナンバー○番」とか言って、アニメの歌か何かを歌って、母に鐘を鳴らしてもらう(笑)。小さい頃から、注目されるのが好きだったのかもしれないですね。

――個性的な遊びですね(笑)。勉強のほうはどうでしたか? 宿題は嫌がらずにやるタイプだったのでしょうか?

中野さん: 実際に宿題をやってみて「嫌だ」と思う人もいる一方で、周りが「宿題嫌だ」と言っているのを聞いているからそう思ってしまう人もいると思うんですよ。

僕は兄弟がいないし、父は医師、母は歯科医師で共働きだったので、放課後は児童館で同級生と過ごすことが多かったんです。そんな環境だったからか、「宿題は嫌なもの」という先入観がなかったんですよ。

僕が知っている中で「宿題が嫌だ」って言っていたのは、『ドラえもん』ののび太くらい(笑)。だから、宿題は「やるのが当然」という感覚で、「やりたくない」と思うこともとくになかったですね。

(左)人を楽しませるのが好きだった小学生の頃 (右)中学・高校はサッカー部に

「勉強しなさい」はなし。必要なときには両親がサポート

――ご両親はともに医療のお仕事をされていたのですね。勉強について何か言われることはありましたか?

中野さん: 「勉強しなさい」と言われた記憶はないですね。普段はとくに何も言われませんでしたが、必要なときには手を貸してくれました。例えば、夏休みの自由研究で昆虫について調べたいと言えば、車を出して連れていってくれたり。

ある年、本で「クモの巣にスプレーのりをかけて黒い画用紙を押しつけると、クモの巣の標本ができる」というのを読んで、それを自由研究にしようと思ったんです。山梨に住んでいたので、通学路にもクモの巣はたくさんあるんですけど、人が通る場所だとなかなかきれいな形では残っていなくて。

でも、お盆のお墓参りに行ったときに、きれいなクモの巣がたくさんあるのを見付けたんですよ。それで、その年は母も連日お墓に手を合わせに行きながら、クモの巣を探してくれました(笑)。

――普段からあれこれ言うのではなく、必要なときに手を貸してくれていたのですね。逆に、「そこまでしてくれなくてもいいのに」と思ったことはありませんでしたか?

中野さん: 書き初めの宿題のときに、「こうしたほうがいい」とかアドバイスされるのは、結構嫌だったかもしれないですね(笑)。

母は書道を習っていたので、得意分野である分、言いたくなる気持ちも今はわかるんですよ。確かに、言われた通りに書けばきれいな字になる。だけど、僕はそこまできれいな字を書くことを求めていなかったんです(笑)。

僕は塾に行かない! 大学受験まで通信教育一本

――塾に通われたりはしていたのでしょうか?

中野さん: 塾には今まで一度も通ったことがないんです。勉強は、赤ちゃん向けから高校生向けまで教材がある通信教育一本でした。塾には行きたくなかったんですよね。

――でも、周りには塾に通っている子も多かったのでは?

中野さん: 学校の友だちが塾の友だちの話をしていると、「なんかうらやましいな」と思うことはありました。

でも、それ以上に嫌だったのが、部活でサッカーをしたあとに、また塾に行って授業を受けること。学校のテスト期間にも塾に行って授業を受けなきゃいけないのも嫌だったんですよね。

――通信教育は、自分で計画を立てて進めないと教材がたまってしまう、という悩みもよく聞きます。中野さんは、どうやって活用していたのでしょう?

中野さん: 僕は「教材はたまるもの」というか、たまっても無視しようと思っていました(笑)。

小学生の頃は、課題を提出するともらえるシールを集めると、枚数に応じてプレゼントと交換できたんです。それで、どうしても釣りざおがほしくて頑張っていましたね。

中学生の頃はいちばん教材をためていて、あまり使いこなせていなかったかもしれません。でも高校生になると、勉強の計画を立てられるようになり、自分なりの使い方がわかってきました。

必要に応じて教材の中から勉強したい範囲を探して問題を解いたり、わからないところがあれば、その教科の学校の先生のところへ持っていってみてもらったりしていました。

大学別のコースもあったので志望大学が決まったらそれを進めて、同時に、自分で買った問題集や大学入試の過去問、先生が作ってくれた問題などもやっていましたね。

模試ではB・C判定。「絶対無理」の一言が原動力に

――大学受験までずっと自宅学習とはすごいですね。

中野さん: 模試の判定はBとかCあたりをうろうろしていた感じでしたし、全然余裕はなかったですよ。

でも「浪人したくない」という気持ちが強くありましたし、担任の先生に、志望校として一橋大学を書いたら「絶対無理」と言われたことも、原動力になっていたのかもしれません。

地方の公立高校だと「国公立進学率」という言葉がよく飛び交うので、僕自身も、なんとなく「できれば国立大学へ」という気持ちはありました。無事に一橋大学に合格できたので、本当によかったです。

一橋大学を選んだ最初の理由は「名前の響きがかっこいい」

――国立大学は都内はもちろん都内近郊にもたくさんあります。その中で、なぜ一橋大学を志望したのでしょう?

中野さん: 最初は、本当に名前の響きです(笑)。

高校1年生のときに、国立大学の偏差値ランキングみたいなものを見たんです。上のほうには東京、京都、北海道、九州とか地名のついた大学が並んでいるのに、その中に「一橋大学」っていう、知らない名前があって。

当時は「一橋」が地名だということも知らなかったので、「国立大学なのに地名じゃない、なんかミステリアスでかっこいいやつがいる」みたいな(笑)。それで、最初の模試か何かの志望校欄に書いたんだと思います。

(左)高校時代 (右)大学の入学式

――名前の響きが、志望の入り口だったのですね。その頃から法学部をめざしていたのでしょうか?

中野さん: そこまで明確なビジョンがあったわけではないですね。数学はまだよかったんですけど、化学にはあまり興味が湧かなくて、「来年もこれを勉強するのは嫌だな」と思って、高校2年生で文系を選びました。

法学部を選んだのも、「弁護士ってかっこいいだろうな」くらいの感じでした。

7代続く医師家系。それでも「医師にならなきゃ」はなかった

――ご自身が医師になりたいと思ったり、ご両親から医師になることを期待されたりすることはなかったのでしょうか?

中野さん: 「医師になりたい」も「医師にならなきゃ」も、そんなになかったですね。

7代続く医師の家系ではあるんですけど、誰も開業していなかったんです。両親も祖父母も勤務医だったので、「病院を継がなきゃ」ということを考えなくてよかったのは、大きかったかもしれません。

――医師として働くご両親の姿を見て、憧れることは?

中野さん: 父は脳外科医なので、すごい仕事だとは思うんです。でも、例えば部活をしていて成長痛で「膝が痛い」って食卓で言っても、「病院に行きなさい」って言われるんですよ(笑)。

もちろん、脳外科医だからこそ「骨のことは専門の先生に診てもらったほうがいい」ということだったんでしょうけど、子どもながらに「そんなもんなんだ」って(笑)。そこで何か専門的なことをしてくれていたら、「お父さん、かっこいい!」となっていたかもしれないですけどね。

むしろ母のほうが、歯科医なので身近でした。家に歯医者さんで使う小さな鏡みたいなものがあって、それで口の中を見てもらったときは、「かっこいいな」と思いました(笑)。

父から言われた「自分で敷いたレールを進んでいてすばらしい」

――医学部ではなく法学部へ。ご両親はその進路をどのように受け止めていたのでしょう?

中野さん: 高校3年生の元旦、受験を目前に控えた時期に、父と初詣に行ったんです。そのときに受験の話をしていたら、父が「自分で敷いたレールを進んでいてすばらしい」というようなことを言ってくれて。

医師ではない道を選んだ息子に、そういう言葉をかけてくれるって、すごい父親ですよね。

――子どもの意思を尊重して応援してくれていたんですね。ちなみに、そのときお父様と一緒に、絵馬に合格祈願を書かれたりとかは?

中野さん: それが僕、ひねくれていて…。一生懸命勉強してきたんだから、受かったときには、自分の努力と、支えてくれた親や友だちのおかげだと思いたいじゃないですか。

それなのに絵馬に合格祈願を書いたら、「今日初めて会った神様のおかげかも」ってなっちゃう。それが嫌で(笑)。

――では、絵馬にはなんと?

中野さん: 結局、「合格できますように」って書いたと思います(笑)。

――【後編】では、一橋大学で夢中になったお笑いの世界へ。芸人になる決意を伝えた父から返ってきたのは、まさかの「そんなところにレールはない!」。それでも芸人になることを選んだ中野さんは、どうやってその一歩を踏み出したのでしょうか。ご両親との関係とともに伺います。

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お話を伺ったのは

中野なかるてぃん お笑い芸人

1994年8月28日生まれ、山梨県出身。一橋大学法学部卒業。大学在学中からお笑い活動を始め、大学4年時にNSC(吉本総合芸能学院)東京校22期に入学。卒業後の2017年、ヤスさんとお笑いコンビ「ナイチンゲールダンス」を結成。2023年「ツギクル芸人グランプリ」優勝、2023年・2024年「M-1グランプリ」準決勝進出。吉本興業所属。趣味は小道具作り、ジェットコースター。

この記事を書いたのは

篠原亜由美 ライター

法学部卒業後、通信教育などを手がける教育業界の企業に勤務し、その後ライターとして、女性誌や複数のWeb媒体で、暮らしや子育てを中心としたライフスタイル分野で取材・執筆を行っている。2児の母で、子どもはすでに成人しており、中学受験や大学受験を経験。実体験をもとに、同世代の女性に寄り添えるような記事を心がけている。

撮影/五十嵐美弥

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