フランスの学校は「できないこと」より「できていること」に目を向ける
フランスの小学校では、毎年9月に全国テストがあります。その結果をもとに、10月に面談担任の先生と保護者面談が行われるのです。
ある日、CM1(小4)の長男の面談で小学校へ行ったときのこと。担任の先生は、私に成績表を手渡して、にこやかに「よくがんばっていますよ。素晴らしい」と言いました。
私は成績表を見て凍り付きました。そこにあったのは、とても「がんばっている」とは言えないスコアばかり。むしろ「がんばりましょう」ばかりだったのです。
国語は悲惨そのもの、算数はかけ算と文章題がほとんどできていません。先生の顔を見て、また驚きました。こんなにひどい結果なのに、なぜこんなに明るい顔をしていられるのだろう?
「この国語はひどいですね」と先生に言うと、彼は首を振り、こう言い切りました。

「国語は他のフランス人の子たちと比べたら、たしかにできていません。でもこちらに来たときよりは、単語も発音もできるようになっています。すごい進歩ですよ」
「でも、算数はどうでしょうか。かけ算と文章題は?」
「かけ算は本人は『時間がなかった』と言っていました。時間があればきっとできます。文章題は難しいけれど、これは他の子もほとんどできていません。心配する必要はない」
欠点についてはそれだけ。あとは長男の得意なことについて熱心に説明してくれました。足し算と引き算は速い、字がきれい、マラソン大会では何位だった……。
まるで長男をかばうような先生の姿勢に、私は気づかされました。フランスは苦手なことよりも得意なことに目を向ける国なのだ、と。
というのも、日本の小学校での面談を思い出したからです。
できてないところを明確にして改善していくのが日本
当時の長男は小学2年生で、担任の先生と保護者面談がありました。そこでは「こういう素行を直してほしい」「この教科のここができていない」という話が中心で、「ここがよくできていますね」と言われた記憶は、正直あまり残っていません。
その先生が冷たかったわけではありません。熱心に指導をしてくれて、保護者からも生徒からも人気でした。できていないところを明確にして、改善策を一緒に考える。それが日本の面談の型なのだと思います。

ただ、正直言って、その手の面談は億劫でした。子どものできていない部分なんて親が一番知っているから、言われなくても分かっているんだけどな。もう少ししたらできるようになるから、もうちょっと待っていてほしいな、と感じたこともありました。
だから、フランスの「いいところを伸ばす」という姿勢に、救われるような気持ちになりました。でも、安心したのも束の間。「友だちとはどう過ごしていますか?」と聞いたときに、先生は次にこう言いました。
「ひとりで過ごしているときもあります」
長男の過ごし方に「ひとりでいるのも権利です」
え? ひとりぼっちで? 動揺する私に、先生は説明してくれました。
「運動会のとき、クラスの男の子たちが輪になってお弁当を食べていた中で、彼はひとりで食べていました」
何でもないことのように話す先生の姿が、信じられませんでした。ポツンとひとりでさみしそうにランチを食べる長男の姿が、脳裏に浮かんでいたからです。私の口から、自然に言葉がこぼれました。
「それって問題じゃないんですか?」

日本の小学校では、ひとりでいることは問題とみなされます。 いつもグループの輪の中にいなければならないというプレッシャーから「休み時間にひとりでいる姿を見られたくなくて、寝たふりをしていた」という子もいました。
友だちに囲まれているのはいいことで、ひとりでいるのは孤立していること。「何が問題?」と不思議そうな顔をする先生に説明すると、彼はきっぱりと言いました。
「いいえ。みんなから『一緒に食べよう』と声をかけられても、彼は『僕はひとりで食べる』と言いました。周りに断られていたのなら問題です。でも彼は自分の意志でひとりでいることを選んだ。それに休み時間やお昼ご飯は、友だちと過ごしていますよ」

他にもこんな話をしてくれました。ある生徒が親友と行動をともにしない日が続いていたから、何かあったのか聞いた。そうしたら「別に。ただ一緒に過ごしたくない気分だから」と返された、と。
「誰かと一緒にいたい気分の日もあれば、ひとりでいたい日もあります。僕は『みんなと一緒にいなさい』と子どもに強制しません。ひとりでいる権利がありますから」
たしかに、フランス語にまみれ、フランス語を母語とする子どもたちに囲まれて過ごす日々の中では、長男もひとりでいたいと思う時間があるのでしょう。
日本では「かわいそう」と心配されるような状況でも、ここでは「ひとりでいることを選んでいる」と受け止められる。それは孤独ではなく、自由の証なのかもしれません。
ひとりを恐れない社会で育つということ
「ひとりでいる権利」を聞いた後日、私は職場である光景に遭遇しました。
ランチタイムには、みんなそれぞれが家から持ってきたお弁当を電子レンジで温めたり、スーパーで買ったものを温めたりしています。街のあちこちには冷凍食品の専門店「Picard(ピカール)」があり、そこで買って職場のオーブンで温める人もいます。それらを持ち寄って、食事をするためのテーブルに集まって食べるのです。

その日、ある女性社員がデスクでお弁当を食べていました。ひとりでスマートフォンを見ながら。どうやら仕事が忙しいというわけではなく、YouTubeを観ています。前の日は同僚たちとテーブルで食べていたのに……。
でも誰も「一緒に食べようよ」と話しかけません。もちろん仲間外れというわけではなく、別の日には仲良く連れ立ってランチに出かけていました。
たしかに、ひとりで食べることに理由なんていりません。そのときの気分で選べる自由が、日常の中にあるのです。

一方で「ひとりでいる権利」を頭では理解しつつ、「それでも、やっぱり長男には友だちと過ごしてほしい」と母としては願ってしまいます。
それは私が日本で育ち、「みんなと仲良く」「輪の中にいるのが正しい」と信じている大人だからでしょう。そうなるとこの心配は子どものためでなく、親としての安心を満たしたいだけなのかもしれません。
みんなと一緒という「大人にとっての」安心から離れて、ひとりでいる強さを持つ――それもまた、フランスで育つということなのかもしれません。
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この記事を書いたのは
三菱UFJ銀行の法人営業、ユーザベースのセールス&マーケティングを経て独立。ビジネスやマネーの取材記事から、恋愛小説まで幅広く執筆。2025年よりフランスに拠点を移し、フランス企業の日本進出支援(ローカライズ)やフィクションの翻訳にも携わる。3児の母。
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写真・文/綾部まと