【俳優で家庭教師、小堀正博さんの中学受験】10 年間思い切り野球がしたいから 関西学院中学部へ! 中学受験に導いた、アメリカ帰りの両親の教育方針とは?

NHK連続テレビ小説の常連俳優で「マッサン」「べっぴんさん」「舞いあがれ!」など数々の作品に出演。俳優をやりながら家庭教師の仕事もするユニークな二刀流の小堀正博さんは、2024年にはギラン・バレー症候群に見舞われ生死をさまよいました。希有な人生を送ってきた小堀さんに、受験や・将来の仕事についての価値観を3回に分けてお聞きします。まずは、どんなときも「既存概念にとらわれず、自分らしく前向きに」を貫いてきた小堀さんの「中学受験」のお話。響きます!

アメリカ生まれで両親は子どもを型にはめない教育を

――小堀さんは関西学院中学部を中学受験し、合格されました。私立大学の附属校で、人気の中学受験上位校です。小さい頃から勉強は好きでしたか?

小堀さん いえ、そんなことはなく、遊ぶのが好きな活発な子どもでした。うちの両親は結婚後アメリカに留学して、現地で僕が誕生しました。1歳半までワシントンD.C.に住んでいたんです。

ワシントンD.C.在住、1歳の頃

両親、子どもを型にはめるような感じではなくて。帰国後は僕を普通の保育園とか幼稚園ではなくて、生活の自立を目指すような幼児教育をする「西宮友の会幼児生活団」というところに通わせました。週1回の活動日に登園するほか、音楽や芸術にも親しませ、感性を磨く場でもありました。そのほかの日はプリスクール(英語教材を使う幼児教室)と教会のクリスチャンセンターの英語で遊ぶクラスに通うなどして、外国の方とふれ合う機会も多かったです。

日本に帰国して兵庫県に住んでいた頃

――小学校は普通の公立ですね。お稽古事や塾などは?

小堀さん とにかく身体を動かすのが好きで、関西では有名なキッズプラザ大阪という施設に行って、よく走り回っていました。両親は机上の勉強よりも体験を重んじていて、お絵かきとか水泳とかをやらせてくれましたね。勉強みたいなのは週1回、個人の人に算数と国語を教わっていました、これは自分の意思ではないです(笑)。でも、週1回ですし、しんどい、みたいな感じではなかったですね。

中学受験をして附属校に入れば10年間存分に野球ができる!

――そこから中学受験を決心したのは?

小堀さん 野球が好きで、中学受験をするつもりはなくて、5年生のときに「地元の野球チームに入って、小学校、中学校と活動したい」と母親に言ったんです。そうしたら、「地元の公立中学校に進んで野球をやって、高校受験して大学受験して……、となると2回も受験しないと大学に入れないよね。でも、中学受験をして大学まで入れる附属中学校に行けば、小学校の1回だけがんばれば、あと10年間思う存分野球ができるよ」って。なるほどと思いました。

小学生の頃。阪神タイガースファンはいまだ変わらない

母がすすめたのが関西学院中学部でした。キリスト教に基づく教育と校舎がきれいなことで知られ、きちんとしているけれど、自由な部分もあって、当時も今も人気があります。家が近くて周りをよく通っていたので「環境が良いな」と好感を持っていました。スポーツもそこそこ強いと聞いて、ますます「いいな」と。中学に入学できれば中学から高校、高校から大学は普段の勉強をがんばれば、受験勉強なく優先的に内部進学できる。母が言うように思い切り野球ができる環境です。

兵庫県の西宮に住んでいたので、関西学院までは歩いて30分です。僕も「徒歩30分の学校に通うのは近くてラク」という感覚でした。自分に合った学校だと感じて、関西学院中学部を目指すことになりました。

――野球をやりたいから中学受験をしたのですね!

小堀さん まあ、うまいこと母親に誘導されたのかもしれません(笑)。でもそんなに勉強しろしろ、という感じでもないし、中学受験はしてよかった、と思っています。

塾の初日に苦い「洗礼」を。以後ひたすら勉強して追いついた

――塾には通ったのですか?

小堀さん うちは受験に熱心な家庭ではなかったので、幼いときに通っていた「生活団」の保護者の方のご紹介で、石倉塾っていうわりと歴史の古い塾に行きました。先生方も熱心でした。でも、初日に大きなショックを受けました。

5年生の夏休みの終わりに入塾するって、だいぶ遅いスタートですよね。塾は先取りでどんどん新しい問題をやるので、ほかの子たちは先まで進んでいるんです。でも、僕は学校でやっていることしかわからない。塾の問題を見てもぜんぜん解けないんです。

初日の算数は0点でした。隣同士の子と答案用紙を交換して採点するので、隣の子に「0点、アホが来た」とか言われて、教室のみんなにもいじめられて。家に帰ってから母に「塾、辞めたい」って言いました。そうしたら母が塾に電話してくれて、塾長が「必ずきちんとフォローするから来させてください」と言って、次の日は周囲の子たちを叱ってくれました。

自分も「アホなんだからしょうがない」と思って、「ちゃんとできるようになったら何も言われないはず」と、勉強をがんばりました。最初の1週間、2週間はしんどかったけれど、すぐに追いついて、バカにされなくなりました。そこからは自主的に勉強していきましたね。

塾では「友達は作らない」と決めていました。最初の事件が鮮烈で、当時人見知りだったので、「ここは友達としゃべる場所ではない」という感情のまま過ごしました。学校などには友達がたくさんいるし、ここは集中して勉強する場所だ、と。いやだった体験が、結局自分を勉強に向かわせていったんです。

塾自体はとても生徒思いのいい塾で、実は大学時代からかなり長い間、ここで塾講師の仕事をしていたんですよ。それなので、自分のいやだった体験をほかの子にはしてほしくなくて、塾で教えるようになってから、「クラスにお休みしている子がいたら先に進めない」と決めました。休んでいる子がいる日は演習の時間にして、全員そろっているときに新しいことを教えます。子どもたちには、「休んでいる子が次来て進んでいたらしんどいやん、だから進めないよ」って説明していました。

母校・関西学院大学の中央芝生にて

2日間連続試験のある関西学院中学部を受け、初日で合格を確信!

――ご自身の中学受験の勉強はしんどかったですか?

小堀さん 塾は週3回、宿題もありましたが、そんなめちゃくちゃやったわけではなく、今の子に比べれば勉強量は少なかったです。

ただ、受験はうまくいったんです。当時、関西学院中学部の中学受験は2日間あって、初日に国語・算数・理科・面接があり、 2日目に国語・算数・体育がありました。今の関学は1日だけの試験になりましたが、兵庫県では今も灘や甲陽学院は2日間試験がありますね。僕の場合1日目にかなりうまくいったので、もう受かるな、と思えて。2日目は落ち着いて受けることができ、おかげさまで合格できました。

――では、中学入学後は思う存分野球をしたのですね?

小堀さん それが、中学3年のときにけがをしてしまって、中学のときに野球をやめてしまいました。とても残念でしたが、とにかく学校は楽しかったから、それほど強いショックは受けなかったですね。友達もたくさんできましたし、授業もおもしろかったし、キリスト教の学校なので礼拝があって、礼拝の時間も好きだった。パイプオルガンの音に合わせて黙祷から始まり、先生のお話が毎日あるんですが、落ち着く時間でした。今の自分の基礎を作ったのは関学の中学校時代だと思うし、この礼拝の時間が僕の性格にもいい影響を与えてくれたと思っています。もう一回中学受験をしても、また関学の中学部に行ったと思いますね。

中3の演劇コンクールで最優秀演技賞を受賞し、俳優の道へ

――野球の夢が破れてしまったあとは、何か夢中になれるものを見つけられましたか?

小堀さん 関学の中学部では、中3のときにクラス対抗で演劇コンクールを開催します。当時の中学部は男子校だったので、女性の役も男子がやるんですが、僕は主人公のお母さん役を演じて最優秀演技賞をとったんですよ。それで「俳優もおもしろそうだな」と思って、新聞の下のほうにある「CM出演者募集」みたいなのを見て、応募をしたんです。

遊園地のCMで、「1次審査が通ったら遊園地のフリーパスをあげます」っていうのにひかれたのもありました。当時は「俳優になろう」という強い信念があったわけではないですが、一次審査を通ってフリーパスをもらえたし、結局最終審査は落ちてしまったけれど、今所属している事務所の人にも出会えて、俳優になる素地ができました。

高校生時代の小堀さん

高1のときにはCM出演もできましたし、高3で初めて映画に役つきで出演。大学に入ってからドラマのレギュラーもいただきました。

大学4年で一般企業に内定。悩んだ末に辞退「何考えてる!?」

小堀さん 大学4年間のうちにドラマのレギュラーや映画に5本出られたら俳優としてやっていけるかもしれない。それを目標にしていました。でも、一方で小学校のときに通っていた石倉塾の講師のアルバイトもやり、大学では教職をとって「教員として生きるのもアリだな」と思っていました。そして就職活動もやっていて、専門学校を運営している法人に内定。内定したからにはここに就職するか、と思っていたんです。

――でも、就職されなかったのですね。

小堀さん 当時所属していた事務所の社長、そして今の事務所の役員でもあるのですが、その社長に「就職します」って言いに行ったんですよ。そうしたら、「小堀が決めたことだから応援するよ。ただ、3年くらい仕事がんばって、こっちに戻ろうかなと思ったらまた戻ってきなよ」と明るく言って送り出そうとしてくれたんですね。でも、そう言いながら、目が悲しそうだった。

その芸能事務所はこぢんまりとしていて、僕が一番がんばっていた、というくらいの小規模なところだったんです。僕がやめたら、痛手なんですよ。それなのに自分の就職のために抜けて、3年して戻ってくるなんて。目先の安定をとって、3年したら「ただいま」なんて、自分の都合ばっかりだなと。今まで一緒に社長ががんばってくれたのに、ぱっとやめるってちょっと違うな、ここで一緒にがんばって事務所大きくするのが自分がやるべきことかなと思ったんです。

――せっかく就職が決まっていたのに、事務所の社長のために内定を辞退するなんて、クールに見えて義理堅い、小堀さんの一面が見えてきます。次回はそんな小堀さんの大学卒業後の人生を追いかけます。実はその頃から、俳優と家庭教師の二刀流の人生が始まっていたのです。

ギラン・バレー症候群で生死の境をさまよった俳優・小堀正博さん。極限状態のときに決心したことは?「役者の仕事は無理でも、オンライン授業ができれば幸せ」
内定を辞退して俳優+家庭教師で生きていく決心を ――企業の内定を辞退した小堀さん。当時、映画にも多数出演、NHK連続テレビ小説に続け...

お話を聞いたのは

小堀正博さん 俳優・家庭教師

1988年生まれ。関西学院中学部・高等部・大学出身。高校生の頃から俳優業を始め、NHK連続テレビ小説「マッサン」「べっぴんさん」「舞いあがれ!」など数々の作品に出演。大学時代から始めていた塾講師・家庭教師としても活動(塾講師は2023年に退職)し、現在俳優+家庭教師の二刀流。20244月、突然ギラン・バレー症候群で手足が動かなくなり息ができなくなる。7月に復帰、2025年には俳優として宮下玄覇監督「長篠」武田勝頼役、米本累人監督「Valsalva」辻本涼役を務める。家庭教師としてはオンラインを中心に45人を受け持つ。高校公民科教職免許、司書教諭、漢検2級、英検2級、珠算3級

http://masahiro619kobori

取材・文/三輪泉

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