荘園とは、何のこと?
「荘園(しょうえん)」とは、どのような土地を指す言葉なのでしょうか。まずは荘園の定義をおさらいしましょう。
中世の有力者が所有した私有地
荘園とは、中世の有力者が所有した、公的支配を受けない土地のことです。土地といっても、その規模は大きく、作物も住民も所有者の管理下に置かれたのが特徴です。日本では平安時代中期の貴族・藤原(ふじわら)氏が、荘園経営により莫大(ばくだい)な利益を得ていたことが知られています。
また荘園は、同じ頃のヨーロッパや中国にも見られます。ヨーロッパでは8~14世紀頃まで、中国では「前漢(ぜんかん)」の時代(紀元前1世紀頃)から20世紀半ばの「中華人民共和国」建国まで続きました。
荘園誕生の経緯
日本の荘園は、なぜ生まれたのでしょうか。荘園が誕生した経緯(いきさつ)を解説します。
大化の改新で、土地制度が一新
古代の日本では、豪族と呼ばれる人々が地域ごとに土地や人民を支配していました。しかし、645(大化元)年の「大化の改新」以降は制度が変わり、土地も農民もすべて国家(朝廷)のものとなります。
朝廷は農民に土地を貸し与え、収穫物を年貢として納めさせました。このシステムを「班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。
ただし、農民が土地を借りられるのは1代限りで、本人が亡くなった場合は、一度朝廷に返す決まりがありました。これでは、どれほど頑張って米の収穫高を増やしたとしても、子孫には受け継がれず、農民の苦労は報われません。
そのため、農民は働く意欲を失い、耕作を放棄する人が続出します。困った朝廷は、723(養老7)年に「三世一身の法(さんぜいっしんのほう)」を制定し、新しく開墾(かいこん)した田畑については、孫の代まで所有を認めることにしました。
墾田永年私財法が出される
三世一身の法は、所有期間が3世代に限定されていたために、やはり農民の意欲は上がらず、効果もほとんどなかったようです。そこで朝廷は、743(天平15)年、自分で開墾した田畑は永遠に所有を認めるとする「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を出します。
これでようやく農民の意欲が高まり、田畑の開墾が進みました。ただし、誰もが好きなだけ土地を開墾・所有できたわけではありません。
開墾・所有できる土地の大きさには制限があり、身分の高い人ほど有利になる仕組みでした。そこで貴族や寺社、有力な豪族など、身分的にも経済的にも力のある人々が、周辺の農民を雇って大規模な農地開発に乗り出します。
こうして作られた農地が荘園の始まりとされ、後の荘園と区別して「初期荘園」と呼ばれています。
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拡大する荘園
初期荘園は、基本的に朝廷に年貢を納めていたため、朝廷も荘園の増加を歓迎していました。しかし時代が下るにつれ、荘園のあり方は変わっていきます。拡大する荘園の様子と、世の中に与えた影響を見ていきましょう。
貴族らが不輸・不入の権を獲得
初期荘園の時代から、大きな寺院や神社の荘園には「不輸・不入の権(ふゆ・ふにゅうのけん)」が認められていました。不輸は年貢の免除、不入は田を点検する役人を排除することです。
10世紀頃からは、藤原氏などの有力な貴族が朝廷に働きかけ、寺社と同じ特権を持つようになります。不入の権にいたっては、田の点検だけでなく警察権の行使も排除できる権利となり、国家の支配をほとんど受けない荘園が増えていきました。
一方で、地方の豪族や有力農民が開墾した土地には特権などなく、国司(こくし、朝廷が派遣した地方役人)による厳しい年貢の取り立てが続きます。
寄進地系荘園が主流に
高い年貢に苦しんだ豪族たちは、負担を軽くするよい方法を思いつきます。不輸・不入の権を持つ貴族や寺院に土地を寄進して、所有者になってもらうことで国司の徴税を免れたのです。
豪族たちは、貴族や寺院に手数料を払う必要がありましたが、取り立てられる年貢に比べれば、はるかに安く済みました。貴族や寺院も、何もしなくてもお金が入ってくるため積極的に寄進を受けるようになります。
寄進された荘園を、さらに皇族や摂関家(せっかんけ)などに寄進するケースも見られ、土地の所有権はいっそう複雑化していきました。10世紀以降は、こうした「寄進地系荘園」が主流となり、自力で開拓した「自墾地系荘園」と区別されています。
たびたび荘園整理令が出される
徴税を免れる荘園が増えた結果、朝廷は税収不足に陥ります。そのため朝廷は、たびたび荘園整理令を出し、新しい荘園や不正な荘園を廃止しようとしました。
最初の法令は、902(延喜2)年に醍醐(だいご)天皇が出した「延喜(えんぎ)の荘園整理令」です。目的は皇族や貴族の土地所有を禁じ、再び班田を実施することにありました。しかしほとんど効果がなく、班田制度自体が終わってしまいます。
その後出された法令も、多くの荘園を持つ藤原氏の協力が得られず失敗しています。唯一成功といえるのが、1069(延久元)年に後三条(ごさんじょう)天皇が出した「延久(えんきゅう)の荘園整理令」です。
天皇は記録所を設けて書類審査の徹底を命じ、藤原氏が不正に所有していた荘園の多くを停止させました。ただし、その後も荘園の増加は止まりません。寄進先が藤原氏から皇室へ変わっただけで、荘園は減るどころかますます増えていくのです。
荘園制の崩壊
貴族や寺院が持つ特権は、後の支配者となる武家には通用しませんでした。平安時代が終わり、武士の世になってからの荘園の運命を見ていきましょう。
貴族から武家に支配権が移る
1185(文治元)年、鎌倉に日本初の武家政権を樹立した源頼朝(みなもとのよりとも)は、地方を管理する役人「守護・地頭(しゅご・じとう)」を全国に設置します。主に徴税を担う立場の地頭は、私有地である荘園にも、もれなく派遣され、しっかり年貢を取り立てました。
1221(承久3)年の「承久(じょうきゅう)の乱」で朝廷が幕府に敗れると、皇室や貴族が所有する荘園の多くは幕府に没収されてしまいます。
室町時代には、守護の権限が強化され、「守護大名」と呼ばれる武士が国司や荘園主に代わって地方を支配するようになりました。
豊臣秀吉が荘園制を終わらせる
1467(応仁元)年に始まった「応仁(おうにん)の乱」をきっかけに、日本各地で戦(いくさ)が相次ぐ時代が到来します。やがて「戦国大名」が登場し、奪った土地を家臣に分け与えるようになりました。土地の所有権も戦のたびに入れ替わり、荘園制は事実上崩壊します。
土地の所有権をめぐる混乱を終わらせたのが、天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。秀吉は1582(天正10)年に、全国の農地面積と収穫量を調査する「太閤検地(たいこうけんち)」を開始します。
その後、一つの土地を耕作できるのは1人だけと決め、その農民を検地帳に登録しました。こうして複雑化した土地の所有権はリセットされ、荘園も完全に姿を消すのです。
荘園を通して、中世日本の歴史を学ぼう
荘園は、奈良時代から約800年間続いた、貴族や寺院の私有地です。徴税を免れる手段となったり、権力者の財源となったりと、歴史のさまざまなシーンで登場します。荘園を通して中世日本の土地制度を学び、日本史への理解を深めていきましょう。
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構成・文/HugKum編集部