墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)とは、今でいう土地に関する税の仕組みを定めたものです。現代とは異なる仕組みの社会で暮らしていた人々は、どのように税を納めていたのでしょうか。墾田永年私財法の内容を、制定されるにいたった時代背景とともに紹介します。
法令が出された背景
まずは、飛鳥時代から奈良時代にかけて、当時の時代背景を振り返り、墾田永年私財法が発布されるまでの出来事を学びましょう。
公地公民制に不満を抱く人々
当時の農民たちは、大化の改新(645年)の翌年に定められた改新の詔(みことのり)によって、「公地公民制」「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」「租庸調(そようちょう)の税制」といった制度に苦しめられていました。
土地も民も、貴族や豪族ではなく国の所有物でした。民は国から支給された「口分田(くぶんでん)」を耕し、「租(そ)」という口分田にかかる税金を納めていたのです。
しかし、口分田は受給者が亡くなれば国に返還されるため、いくら耕しても自分の家の財産にはなりません。労働意欲を失った農民は、租などの税負担に耐えかねて逃げ出し、耕す者のいなくなった土地は荒れ果てていきました。
三世一身法を制定するも失敗
農民が土地を放棄して米を作らないようになると、朝廷が受け取る税が減少してしまいます。農民の士気を高めるため、朝廷は723年に「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」を制定しました。
法の内容は、「土地を開墾した者には、3代にわたってその土地を所有する権利を与える」というものです。人口増加がすすんで口分田が不足していた背景もあり、新たな土地の開墾をすすめる狙いもありました。
しかし、当時の人の平均寿命は今よりはるかに短く、3代とはいえ、土地を所有できる期間はそう長くはありません。開墾の苦労に見合わないと判断した農民が逃げ出すまで、そんなに時間はかかりませんでした。
743年、墾田永年私財法がスタート
再び財政難に陥った朝廷は、743年、聖武(しょうむ)天皇の命により「墾田永年私財法」を定めました。そのくわしい内容について確認しましょう。
開墾した土地は永久に私有地に
三世一身法では土地の所有を3代に限ったのに対し、墾田永年私財法では「土地の永久私有」を認めたのです。
この法によって農民のモチベーションが一気に上昇し、新たな土地が次々に開墾されていきます。
墾田永年私財法の制定は、「土地も民も国のもの」という公地公民制の理念を崩すものとなりました。ただ、財政が火の車になっていた当時の朝廷にとって、農民の労働意欲をあげることが何より優先されるべき事項だったのです。
開墾には一定の条件付き
開墾すれば私有地にできるとはいえ、どこでも好きなように開墾してよいわけではありませんでした。墾田永年私財法に定められた開墾する条件は、主に以下のようなものです。
- 開墾する前に国(国司)に申請すること
- 許可を受けてから3年以内に開墾すること
- 公衆の妨げになる土地の所有禁止
開墾した土地は自分の財産になりますが、その土地の収穫物は税の対象となります。「私有化を許可する代わりにしっかり納税させる」という、朝廷の意図によるものです。
労働力と資金が必要だった
墾田永年私財法によって暮らしが豊かになる農民がいる一方、ますます追い込まれていく農民もいました。その差は、「労働力と資金があるか」の一点にあります。
国は土地の私有を認めましたが、開墾にかかる費用を手助けすることは一切なかったのです。
たとえば、大量の水が必要な稲作には、田んぼに水路を引くことが欠かせません。この灌漑(かんがい)工事は、開墾した農民自身が行わなければなりませんでした。
墾田永年私財法で潤ったのは潤沢(じゅんたく)な労働力と資金を持つ一部の農民だけであり、貧しい農民の暮らしが豊かになることはなかったのです。
制定後はどのような変化があった?
墾田永年私財法の制定により、日本の歴史において重大な変化が訪れます。朝廷・貴族・農民の立場がどのように変わっていったのか見ていきましょう。
農民と貴族・僧侶との間に格差が生じる
墾田永年私財法の制定で多少持ち直したとはいえ、まだまだ朝廷の財源は豊かとは言い難いものでした。そこで朝廷が目を付けたのが、裕福な暮らしをしている貴族や僧侶です。
朝廷は、貴族や僧侶に対して、農民より優先して開墾できるように計らいました。力を持つ貴族や僧侶に恩を売ることができ、なおかつ開墾地も増やせるので、朝廷にとって一石二鳥ともいえる策だったのです。
この結果、朝廷が予想していたよりもはるかに多くの土地を、貴族や僧侶が私有するようになりました。自分で土地を開墾できない貧しい農民は、こうした貴族や僧侶のもとで働くようになったのです。
荘園制が始まる
貴族や僧侶が「大規模な私有地=荘園(しょうえん)」を得たことで、「荘園制」が始まります。当時の荘園は、まだ朝廷に税を支払う義務をまっとうしていたため、この荘園制は朝廷にとっても受け入れやすいものでした。
墾田永年私財法の制定により崩壊していった公地公民制は、ここではっきりと終末をむかえたといえるでしょう。
荘園や武士の誕生のきっかけに
墾田永年私財法は、もとは朝廷の財源を増やすために発布されたものでした。しかし、その影響は税収を増やすにとどまらず、人々の暮らしにも多くの変化をもたらしたのです。
荘園ができたことで「警備」が必要になり、ここから「武士」が誕生することになります。やがて武士の世になっていくことを考えると、墾田永年私財法は世のありかたを大きく変えるきっかけであったともいえるのではないでしょうか。
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構成・文/HugKum編集部