桶狭間の戦いで知られる今川義元とは? 「マロ眉」の戦国武将の素顔を探る【親子で歴史を学ぶ】

桶狭間の戦いで有名な今川義元ですが、戦国武将としての功績をご存じでしょうか。大名として駿河国を治めた今川義元は、文化的な素養を持った人物でもありました。有力な武将でありながら、内政面にもマルチな才能を発揮した今川義元について解説します。
<画像:桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)の今川義元の銅像>

今川義元とは、どのような人物?

歴史の教科書にも登場する「今川義元(いまがわよしもと)」とは、どのような人物だったのでしょうか。生まれやエピソードを紹介します。

「海道一の弓取り」と呼ばれた武将

義元に関して、桶狭間(おけはざま)の戦いに登場した人物、というイメージがある人も多いのではないでしょうか。織田信長(おだのぶなが)に敗れたことで有名ですが、義元は武勇に優れた戦国武将でもあります。

義元は、1519(永正16)年に今川氏の五男(三男説も)として生まれ、4歳で出家(しゅっけ)しました。1536(天文5)年に兄・氏輝(うじてる)が亡くなったことから、家督争いに加わります。次男との争いを制した義元は、今川氏を継承し、駿河(するが)国を治めました。

義元は「海道一の弓取り」とも呼ばれており、東海道で一番の武士と評されました。出家した際に、善得寺(ぜんとくじ)で出会った僧・太原雪斎(たいげんせっさい)を軍師としていたことでも有名です。

公家かぶれのイメージが強い

義元は、京から文化人を招くなどして、駿河国に京風文化を取り入れたことでも知られています。義元に関して、「公家(くげ)かぶれ」「軟弱」といったマイナスイメージが定着したのは、なぜでしょうか。

今川氏は、室町幕府の将軍である足利(あしかが)家の分家にあたり、将軍の地位を継ぐ可能性もある名家です。義元は、公家にかぶれていたわけではなく、和歌や蹴鞠(けまり)などの公家文化との関わりが深い人物だったと考えられます。

義元が、公家かぶれだと思われがちなのは、後年の創作に描かれた人物像も大きな要因です。いわゆる「マロ眉(まゆ)」や貴族的な口調など、義元をユーモラスに描いた作品が多かったことから、公家にかぶれた印象が広まったともいわれています。

静岡駅前に建てられた今川義元(右)と竹千代の銅像(静岡市)。竹千代は、言わずもがなの人質時代の徳川家康。義元の後を継いだ氏真(うじざね)は、駿河追放後に家康の家臣となっている。江戸時代には、今川氏は、高家(こうけ)旗本として幕臣に列する。

今川氏は、代々駿河国を治める名門

足利家とも関係が深い今川氏は、長い歴史を持つ名門です。駿河国を繁栄させた、今川氏の政策について解説します。

駿河国の守護大名から戦国大名へ

今川氏は、代々駿河国を治める「守護(しゅご)大名」の家系でした。守護大名とは、室町幕府に任じられて各国に配置された守護が武力を持ち、国を自分の領国とした大名です。

今川義元の父である氏親(うじちか)は、1526(大永6)年に分国法「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」を制定しました。分国法とは、大名が自らの領地を支配するために作った法律であり、幕府に頼らず領地を統治することを示すのが目的でした。

義元は、1553(天文22)年に21条を追加し、「守護使不入(しゅごしふにゅう)」を廃止しました。守護の立ち入りを禁止する守護使不入を否定することで、守護大名として幕府に従うのではなく、「戦国大名」として実権を握っていることを宣言したのです。

優れた経済政策でも知られる

戦国時代の日本では、年貢米が大きな収入源でした。駿河国は、それほど米の生産には向かない土地であったため、義元は検地(けんち)を行って石高(こくだか)を細かく把握しました。

後に、織田信長が行った「楽市楽座(らくいちらくざ)」のように、商人の特権を認めて、商業を発展させたのも義元の功績です。駿河国には、京都と鎌倉を結ぶ東海道が通っていることから、多くの商人が集まりました。

また、駿河国には「金山(きんざん)」が多かったため、金を採取して、米以外での収入を得たことでも知られています。義元は文化的な人物でもありましたが、経済面でも優れた人物であったのです。

今川義元と桶狭間の戦い

義元は、武田や北条などの武将と同盟関係にありました。桶狭間の戦いに至るまでの流れや背景を見ていきましょう。

武田・北条との三国同盟

義元は1537(天文6)年に武田信虎(のぶとら)の娘と結婚し、甲斐(かい)国を治める武田氏と同盟関係を結びました。しかし、この結婚がきっかけで、相模(さがみ)国の北条氏と敵対してしまうのです。

このようにして、北条氏綱(うじつな)と争うことになりますが、氏綱は1541(天文10)年に亡くなります。1554(天文23)年、義元は家督を継いだ北条氏康(うじやす)の娘と嫡男(ちゃくなん)を結婚させ、北条と同盟を結んだのです。

甲相駿(こうそうすん)三国同盟」が結ばれ、義元は尾張(おわり)へと攻め込むことになりました。強力な三国同盟が築かれたことが、桶狭間の戦いが起こった背景ともいえるでしょう。

兵力の小さい織田信長に敗北

有力な農民らと主従関係を結ぶ「寄親寄子制(よりおやよりこせい)」を導入していた今川氏は、大きな兵力を動員することが可能でした。1560(永禄3)年に起こった桶狭間の戦いでは、今川の兵は2万5,000、信長の兵は3,000~5,000と圧倒的な差があったのです。

圧倒的有利な状況に油断した義元は、桶狭間山で休憩中に奇襲を受け、斬首されました。信長は、義元の首をとった毛利新介(もうりしんすけ)よりも、居場所を知らせた簗田政綱(やなだまさつな)を高く評価したことで有名です。信長は、戦況の連絡を大事にすることで奇襲を成功させました。

桶狭間の戦い後は、義元の嫡男・今川氏真が今川家当主となったものの、「義元の死」からの今川氏は大きく衰退したのです。

戦人塚(せんにんづか、愛知県豊明市)。「桶狭間の戦い古戦場」と目されている緑地公園から、北東へ数百m行ったところにある。今川方の戦死者2500人を埋葬し供養をしたのが曹源寺の住職・快翁龍喜。周囲は住宅地化されたが、塚は残り、今でも法要が行われる。

ゆかりの地やイベントをチェック

駿河国のあった静岡県には、今も今川氏ゆかりの地が残っており、観光スポットとなっています。その他、義元に関連するイベントも行われています。

今川氏と関係の深い「静岡浅間神社」

静岡浅間(しずおかせんげん)神社は、今川家の歴代当主が庇護(ひご)した神社であり、旗印である「今川赤鳥(いまがわあかとり)」とも深い関係があります。境内には多くの桜が植えられており、お花見スポットとしても人気です。

江戸幕府の将軍となる徳川家康は、今川氏の人質になった時期がありました。家康は、義元の軍師である雪斎から教育を受け、浅間神社で元服したエピソードも有名です。

浅間神社は「おせんげんさん」とも呼ばれ、地元の人に昔から親しまれてきました。静岡には義元をモデルにしたご当地キャラ「今川さん」がいて、街中にイラストが描かれているのも特徴です。

静岡浅間神社(静岡市)。賎機山(しずはたやま)の麓にあり、1555(弘治元)年、家康が14歳のとき、ここで元服式を行った。中央が大拝殿、右が舞殿。境内にある資料館跡の建物は大河ドラマ「どうする家康」(2023)の「大河ドラマ館」。名誉館長は、春風亭昇太。

参考:駿河国総社 静岡浅間神社

今川忌法要が行われる「臨済寺」

臨済寺(りんざいじ)は、若くして亡くなった義元の兄である氏輝の菩提寺(ぼだいじ)です。義元が、寺の名前を善得寺から臨済寺と改めたことでも知られており、雪斎が住職を務めていました。

臨済寺は、今川氏の人質となっていた家康が、雪斎から教育を受けた場所です。一度は火事で消失したものの、家康によって再建され、現在は「竹千代手習いの間」も復元されました。

市指定の史跡にもなっている今川氏の墓所や義元と雪斎の木像など、さまざまな品を見ることが可能です。普段は修行寺ですが、年に2回の一般公開日が設けられています。

臨済寺(静岡市葵区)。山号を「大龍山」と称する臨済宗妙心寺派の寺院。毎年5月19日の今川義元の命日と、10月15日の「摩利支天祈祷会」に内部が特別公開される。

参考:臨済寺 | 徳川家康公の足跡をたどる

合戦を再現した「桶狭間古戦場まつり」

愛知県豊明(とよあけ)市で行われている「桶狭間古戦場まつり」は、桶狭間の戦いで戦死した武者たちを供養するためのイベントです。300人を超える大迫力の武者行列や、合戦の様子を再現した劇を見ることができます。

甲冑(かっちゅう)を身に着けた武者行列は、戦国時代さながらの雰囲気が体感できる見どころの一つです。桶狭間古戦場に隣接する高徳院(こうとくいん)では、義元の供養祭が行われ、一般の人でも参加できます。

ボランティアによる歴史ガイドも参加しており、桶狭間の戦いについて詳しく学べるのがメリットです。新型コロナウイルス感染症の影響で、2022(令和4)年の開催は中止になりましたが、ボランティアによる歴史ガイドのみ通常通りに行われたようです。

参考:桶狭間古戦場まつり|豊明市観光協会 大金星のまち とよあけ 愛知県豊明市観光協会公式ホームページ

今川義元が登場する作品を紹介

脚色されて描かれることが多い今川義元ですが、戦国武将としての姿を描いた作品もあります。義元が出てくる作品をチェックしましょう。

NHK 大河ドラマ「風林火山」

2007(平成19)年に放送されたNHK大河ドラマ「風林火山(ふうりんかざん)」は、武田信玄の軍師である山本勘助(かんすけ)が主人公でした。信玄と上杉謙信(けんしん)を中心に話が展開しますが、信玄と同盟を結んでいた義元も主要人物として登場します。

義元は、ドラマでも貴族風のキャラクターとして登場することが多かったものの、この作品では、知性的な戦国武将として描かれているのが特徴です。義元の母・寿桂尼(じゅけいに)や軍師の雪斎など、今川家全体が印象的に描かれています。作中で谷原章介(たにはらしょうすけ)さんが演じた義元は、ドラマファンにも愛される役柄となりました。

また、明智光秀の生涯を描いたNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」(2020)でも、義元を勇敢な智将として描いています。

コーエーテクモゲームス「戦国無双5」

戦国時代を題材にしたゲームは数多く、義元は「信長の野望」や「戦国BASARA」にも登場しています。白塗(しろぬ)りやおどけた口調など、コメディリリーフとして描かれることが多いようです。

「戦国無双」に登場する義元も、シリーズ1~4はマロ眉で蹴鞠が大好きなキャラクターになっています。武将らしい一面が垣間(かいま)見えるシーンもありますが、公家かぶれのネタキャラに近い扱いでした。

「戦国無双5」からは、天下統一を狙う大大名として描かれており、史実を重視した方針転換が行われました。カリスマ性を感じさせる「東海の覇者」である義元が見たい人にはおすすめでしょう。

実力者として再評価されつつある人物

今川義元は「信長に負けた人物」「公家かぶれ」など、偏ったイメージを持たれがちな人物です。しかし近年では、天下統一の可能性があった武将として再評価が進んでいます。

東海道一といわれた強さはもちろん、優れた政治力を持ち合わせた義元は、実に多才な人物だったといえるでしょう。駿河国の京風文化は「今川文化」とも呼ばれ、戦国三大文化に数えられるほどの繁栄ぶりでした。

2019(令和元)年の生誕500年を記念して、静岡駅に銅像が建てられるなど、義元は地元の人にも愛されています。評価が見直されつつある義元について、改めて学んでみてはいかがでしょうか。

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構成・文/HugKum編集部

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