桶狭間の戦いとは? 織田信長の戦略やエピソードを分かりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

桶狭間の戦いは、少数の兵で大軍を撃退した逆転劇で知られる、戦国時代の合戦です。詳細は謎に包まれているものの、歴史的勝利をおさめた織田信長の戦略は、現代でも高く評価されています。戦いが起こった経緯や、合戦前後のエピソードを紹介します。

桶狭間の戦いとは

「桶狭間(おけはざま)の戦い」は、日本史の授業で習う有名な出来事です。戦いの結果が、後の歴史に大きな影響を与えた戦(いくさ)として知られています。

戦国時代に起こった有名な合戦

桶狭間の戦いとは、1560(永禄3)年5月19日に、織田信長が今川義元(よしもと)の本陣を攻撃し、勝利した事件のことです。5月19日は旧暦で、現在の暦では6月の上旬頃に起こったと考えられています。

当時、信長は尾張(おわり、現在の愛知県西部)を統一したばかりで、動員できる兵力は数千人程度でした。そこへ隣国、三河(みかわ、愛知県東部)・遠江(とおとうみ)・駿河(するが、ともに現在の静岡県)の3国を支配する大名・今川義元が大軍を率いて攻めてきます。

誰もが、信長の負けを予想する状況でしたが、結果は逆でした。ピンチを乗り切った信長は力を付け、天下統一へと進んでいきます。

織田信長公(左)と今川義元公の銅像(愛知県名古屋市緑区)。「桶狭間田楽坪古戦場公園」にある。公園全体が、合戦の様子を再現した「ジオラマ公園」として整備されている(2009)。この田楽坪は、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた今川義元の最期の地といわれる。

「番狂わせ」の戦いとして知られる

桶狭間の戦いの勝利によって、信長の名は全国にとどろきます。日本中で合戦が起きていた戦国時代に、一つの合戦がそこまで話題になったのは、なぜでしょうか。

理由の一つは、圧倒的な軍事力の差です。両軍が動員した兵の数には諸説ありますが、信長軍が2000~4000人程度だったのに対して、義元軍は2~3万人もいたといわれています。

また、信長と義元の間には、身分や実績に大きな差があります。れっきとした守護大名で「東海一の弓取り」と呼ばれた義元に対して、信長は家督(かとく)を継いだばかりで尾張一国の平定にも苦労していました。義元の出陣を聞いて、織田方から今川方に寝返る武将もいたほどです。

これでは信長が勝てるはずはないと、誰もが考えたとしても不思議ではありません。このため信長の勝利は、大変な番狂わせとして、多くの人々の興味をひきました。

桶狭間の戦いが起きた経緯や場所

今川義元が尾張に侵攻した理由や討ち取られた場所については、近年、新たな説が登場しています。桶狭間の戦いに関する最新情報を紹介します。

今川義元が尾張に攻め込んだ理由

義元は上洛(じょうらく)のために、通り道である尾張に侵攻したと習った人もいるかもしれません。足利(あしかが)将軍家に連なる家柄の義元は、弱体化していた将軍家の代わりに天下に号令を下すため、上洛を決意したとされてきました。

しかし、現在は尾張東部の支配権をめぐって、義元自ら出陣したとの説が有力です。三河と接する尾張の東側は、もともと今川家の領地でしたが、織田信長の父・信秀(のぶひで)に奪われてしまいます。

信秀が亡くなり、尾張が混乱したため、義元は旧領を取り戻すチャンスと考え、出陣したというものです。大軍を率いてきたのは、ついでに信長を滅ぼして尾張全土を手に入れようとしていたからかもしれません。

「桶狭間」とは、どんな場所?

桶狭間とは、現在の愛知県名古屋市緑区から豊明(とよあけ)市にある丘陵地帯のことです。長い間、義元はこの辺りの窪地(くぼち)で休んでいるところを討たれたとされてきました。

しかし、戦上手(いくさじょうず)で知られる義元が、わざわざ見通しのきかない窪地に留まるのは不自然です。このため、近年では、義元は丘の上に布陣していたと考えられています。

なお、本陣があった丘の場所や討たれた地点には諸説あり、信長の進軍ルートも定かではありません。現在は、名古屋市緑区の桶狭間田楽坪(でんがくつぼ)古戦場公園と、豊明市の桶狭間古戦場公園の2カ所が戦場として伝わっています。

桶狭間古戦場公園(愛知県豊明市)。古戦場として唯一、国指定史跡となっている「伝説地」。敷地内には、今川義元をはじめ、7人の武将の戦死場所を示す「七石表」がある。二つの「古戦場公園」があるが、桶狭間山(高台)とその麓一帯は、すべて戦場であったとみるべきだろう。なぜなら、行政区は違うが、両者は約1㎞しか離れていないのだ。

大軍に勝利した織田信長の作戦

今川義元の出陣を聞き、尾張はもちろん、周辺の国からも織田家の存続を危ぶむ声が上がります。しかし、織田信長はあきらめず、大軍を打ち破る作戦を次々に実行しました。

主な作戦と、その成果を見ていきましょう。

情報を重視した

桶狭間の戦いに限らず、信長は情報をよく活用しています。信長と義元の情報に対する考え方の違いが、勝敗を分けたともいわれています。

当時、尾張東部を領有する武将の中には、弱小な信長よりも強い義元に付くほうが得と考え、寝返る武将がいました。そこで、信長はその武将の筆跡を真似(まね)、偽の手紙を使って義元をかく乱します。

手紙を信じた義元は怒り、この武将を切腹させてしまいました。信長は情報操作だけで、裏切り者の処分と義元の勢力削減に成功したのです。

また、信長は、三河にスパイを送り込んで義元の居場所を報告させる一方、自軍の位置は敵に漏れないように、情報を統制します。こうして信長は、ひそかに義元の本陣に接近し、勝利を引き寄せました。

相手を油断させた

戦いの前日、義元は、織田家が築いた二つの砦(とりで)を攻撃します。砦からは、ひっきりなしに援軍の要請が届きますが、信長は動きません。

それどころか軍議も早々に切り上げ、家臣を帰らせています。実は信長は、最初から砦を見捨てるつもりでした。

砦を簡単に取らせることで、相手を油断させようとしていたのです。軍議での態度も、家臣に紛れ込む義元のスパイを騙(だま)すためのものでした。

二つの砦は今川軍の猛攻を支えきれず、間もなく陥落します。砦陥落と軍議の様子を聞いた義元は、信長の目論見(もくろみ)通り、すっかり油断してしまうのです。

敵軍を分散させた

信長と義元の兵力には10倍近い差があり、まともに戦ってもとうてい勝ち目はありません。そこで信長は、敵軍を分散させる作戦を立てます。

まず、義元が入ろうとしていた城の手前に二つの砦を築いて、入城を阻止します。義元は砦の攻略のために、先遣隊を派遣することになりました。

後方の守備にも軍勢を割く必要があったため、最終的に義元の周囲には5000人程度しかいない状況がつくられます。

さらに信長は、300人ほどの兵を先に突入させ、義元の兵を引き付けます。こうして、守りが手薄になったところを一気に攻め込み、義元を討ち取ったのです。

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桶狭間の戦いにまつわるエピソード

桶狭間の戦いは、織田信長にとって、生きるか死ぬかの瀬戸際(せとぎわ)といえる重大な出来事でした。決死の覚悟で臨んだ信長の心境と、今川家のその後を紹介します。

信長が舞った「敦盛」

信長の家臣・太田牛一(おおたぎゅういち)が残した「信長公記(しんちょうこうき)」には、清洲城で、出陣の前に信長が「敦盛(あつもり)」を舞ったと書かれています。

「敦盛」は、幸若舞(こうわかまい)と呼ばれる舞の演目の一つです。幸若舞は、主に源平合戦で伝わる物語をテーマにしており、戦国武将の間で流行していました。

なお有名な一節「人間五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば」の「五十年」は、人の寿命ではなく、「人の世での50年」を指しています。

人の世では50年の長い年月も、天界では1日程度であり、とてもはかないものだという意味です。世のはかなさを訴えるこのフレーズに、信長は何を思っていたのでしょうか。

清洲城模擬天守(愛知県清須市)。信長は「敦盛」を舞ったあと、早朝4時に清洲城を出発。8時に熱田神宮で戦勝祈願を行い、10時には兵を整えた。戦いは、わずか2時間で勝敗を決した。現在の清洲城は、1989(平成元)年に建設された鉄筋コンクリート製の模擬天守だが、当時の城郭は開発によってほぼ消失し、本丸土塁の一部が残るのみ。

義元の刀を大切にした信長

信長は、桶狭間で手に入れた今川義元の刀を、お守りのように大切にしていました。

刀は、鎌倉時代末期の名工「正宗(まさむね)」の高弟だった「左文字(さもんじ)」の作品です。武田信玄(しんげん)の父・信虎(のぶとら)が、義元に嫁ぐ娘に持たせたと伝わっています。

信長は、この刀を大変気に入って、入手した日付や自分の名前を金色で彫らせ、常に持ち歩きました。信長の死後、刀は豊臣秀吉の手に渡り、後に徳川家康のものとなります。

明治時代に、信長を祀(まつ)る神社が建てられると、徳川宗家(そうけ)が信長ゆかりの品として刀を寄贈しました。その後は、重要文化財に指定され、現在は京都国立博物館で保管されています。

今川家のその後

義元が討たれた後、息子の今川氏真(うじざね)が今川家の当主となりますが、家臣の離反が相次ぎ、国は衰退していきました。

駿河を武田信玄に奪われると、氏真は北条氏に保護され、戦国大名としての今川家は終わりを迎えます。

しかし、大名でなくなったことで氏真は生き長らえ、江戸時代になると、孫が「高家(こうけ)」として幕府に仕えることになります。

高家とは、幕府内で行われる儀式や典礼を取り仕切る役職です。高い教養が求められ、名門と呼ばれる家の出身者で占められていました。

今川家も、足利将軍家に連なる名門であり、高家となる資格は十分にあったのです。今川家の血筋は1887(明治20)年に、男子が途絶えるまで続きました。

徳川家康が世に出るきっかけに

桶狭間の戦いで世に出たのは、信長だけではありません。後に江戸幕府を開く徳川家康も、このときから天下取りへの道を歩みはじめます。

家康は、三河の岡崎城主・松平広忠(ひろただ)の子として生まれます。しかし、当時の三河は、今川家の支配下にあったため、家康は幼い頃から今川家の人質としての暮らしを余儀なくされました。

桶狭間の戦いにも駆り出され、最も厳しい前線に配置されます。戦場で義元の死を知った家康は、駿河へは戻らず無人となった岡崎城に入ります。ここで散らばっていた一族や家臣を集め、ついに今川家からの独立を果たすのです。

歴史の転換点となった桶狭間の戦い

桶狭間の戦いで、今川義元が勝っていれば、織田信長の天下統一も、家康の江戸幕府開府もなかったでしょう。信長の足軽(あしがる)だった豊臣秀吉も、「本能寺の変」を起こした明智光秀も、無名のままで終わっていた可能性があります。

持てる力をすべて使って大敵に挑む若き信長の姿は、現代に生きる私たちにも歴史のロマンを感じさせてくれます。歴史を大きく動かした桶狭間の戦いについて、親子で話し合ってみると新たな気付きを得られるかもしれません。

時代背景をもっと知りたいときの参考図書

小学館版 学習まんが人物館「織田信長」

集英社 学習まんが日本の伝記  戦国時代のスーパーヒーロー「織田信長」

ポプラ社 時代の流れがよくわかる!歴史なるほど新聞5  戦国時代~安土桃山時代「信長、桶狭間の戦いに勝利!」

ベストブック 中学生からの超口語訳「信長公記」

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構成・文/HugKum編集部

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