「五摂家」とは、どのような家柄? すごいといわれる理由や歴史を知ろう【親子で歴史を学ぶ】

「五摂家」とはどのような家柄を指すのかご存じでしょうか? 何となく五つの家であることは分かっても、詳細は知らない人が多いかもしれません。五摂家の成り立ちや歴史を、有名な出身者などとあわせて解説します。今なお続く家系について知識を深めましょう。<上画像:五摂家のひとつ、九条家の家紋「近衛牡丹」>

「五摂家」成立までの流れ

「五摂家(ごせっけ)」は、鎌倉時代から続く五つの名家です。ルーツは、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)に始まる藤原氏で、奈良時代までさかのぼります。五摂家が成立するまでの流れを見ていきましょう。

祖先は、奈良時代の藤原鎌足

藤原氏の祖・藤原鎌足は、元の名を中臣(なかとみの)鎌足といいます。645(大化元)年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)とともに蘇我(そが)氏を倒し、「大化の改新」と呼ばれる政治改革を行いました。

律令制度の基礎を築くなどの功績から、死の直前に、最上の官位・大織冠(たいしょくかん)と藤原姓を賜ります。

鎌足の子・不比等(ふひと)も、父の跡を継いで律令制度を推し進めました。さらに娘・宮子(みやこ)と光明子(こうみょうし)をそれぞれ文武(もんむ)天皇・聖武(しょうむ)天皇の皇后に立てるなど、不比等は天皇の外戚となって権勢を振るったのです。

談山(たんざん)神社「峰の塔」(奈良県桜井市)。1298(永仁6)年に造られた淡海公(たんかいこう)こと不比等の墓とされる十三重塔。談山神社は、神仏分離以前は「多武峰(とうのみね)妙楽寺」という寺院であった。父・鎌足の墓は、背後の山頂にある。

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藤原氏の絶頂期を作った藤原道長

藤原家は不比等の子の代で、北家(ほっけ)・南家(なんけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の「藤原四家」に分かれます。そのうち最も力があったのは北家でした。

藤原北家が繁栄するきっかけの一つとされるのが、「薬子(くすこ)の変」です。810(弘仁元)年、帝位への復帰を狙った平城(へいぜい)上皇と弟の嵯峨(さが)天皇が争いました。

平城上皇の寵愛(ちょうあい)を受けていた藤原式家の薬子と兄・仲成(なかなり)は平城上皇側に、藤原北家の冬嗣(ふゆつぐ)は嵯峨天皇側につきます。嵯峨天皇の勝利によって、冬嗣と藤原北家は勢力を伸ばしていきました。

「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれた藤原道長(みちなが)も、藤原北家の出身です。関白にはなれませんでしたが、天皇に上奏する文書をまず見て処理する「内覧(ないらん)」、君主に代わって政治を行う「摂政(せっしょう)」、律令制度における最高の官位「太政(だいじょう)大臣」などを歴任し、藤原氏は絶頂期を迎えます。

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鎌倉時代に「五摂家」として成立

摂関家として栄えた藤原北家は、平安末期、内部抗争によって二家に分かれます。摂政・関白を務めた藤原忠通(ただみち)の子のうち、基実(もとざね)が近衛(このえ)家、兼実(かねざね)が九条(くじょう)家を興しました。

鎌倉時代に入ると、近衛家も基実の曾孫(そうそん)の代で近衛家と鷹司(たかつかさ)家に分かれます。また、兼実の曾孫の代で、九条家は九条家・二条家一条家の三家に分かれ、五摂家が成立しました。

この後、江戸時代末期まで摂政・関白は五摂家から立てられることとなります。

五摂家は、まだ残っている?

五摂家が存在したのは、過去の出来事と思われるかもしれません。しかし五摂家は、明治維新を経て現代まで続いています。

明治維新以後は、公爵家として華族の筆頭に

1867(慶応3)年、「王政復古の大号令」に伴い摂関制度が廃止されます。五摂家は明治維新後、華族に列せられました。

さらに、1884(明治17)年の「華族令」により、五摂家はすべて公爵位を授けられます。その後も、後の皇后となる皇太子妃は五摂家の令嬢から選ばれるなど、華族の筆頭とされました。昭憲皇后(しょうけんこうごう、明治天皇皇后)美子(はるこ)は一条家、貞明皇后(ていめいこうごう、大正天皇皇后)節子(さだこ)は九条家の出身です。

1947(昭和22)年に華族令が廃止されるまで、華族の財産は保護され差し押さえされず、親から子へ引き継がれるという華族世襲財産法や、貴族院議員の選挙・被選挙権、後の学習院である華族学校での教育などの特権も享受しました。

五摂家の現状

五摂家は、現代まで続いています。現在もそれぞれの家に当主が存在し、神職(しんしょく)や実業家、弁護士などの職に就いています。ただし、五摂家の当主は、直系ばかりではありません。養子に入って家を継いだ人もいます。

例えば近衛家の現当主・近衛忠輝は、もともと旧華族・細川(ほそかわ)家の出身で、元首相・細川護煕(もりひろ)の実弟です。1965(昭和40)年に養子となり、近衛家を継いでいます。

現在は、伊勢神宮大宮司の任にある鷹司家の当主・鷹司尚武(なおたけ)も、昭和天皇第三皇女の養子に入りました。

五摂家出身の有名な人物

長い歴史を持つ五摂家は、歴史に名を残す人物も多く輩出しています。なかでも特に有名なのは、次に紹介する3人でしょう。

養女となり、将軍家に嫁いだ「天璋院篤姫」

幕藩体制の確立にともない、大名たちは家の格を上げることを重視するようになります。その手段とされたのが、公家(くげ)や有力大名家との婚姻でした。将軍家も第2代将軍・秀忠(ひでただ)を除いて、正室は宮家や五摂家から迎えています。

「江戸城無血開城」の立役者にもなった篤姫(あつひめ)は、第13代将軍・家定(いえさだ)の正室です。天璋院(てんしょういん)は夫の死後、落飾(らくしょく)してからの名になります。

篤姫こと於一(おかつ)は、薩摩・島津(しまづ)家の分家・今和泉(いまいずみ)家の生まれで、もともと五摂家の出身ではありませんでした。婚姻にあたり、於一はまず島津斉彬(なりあきら)の養女となって、名を篤子と改めました。さらにその後、近衛家の養女になり、五摂家の出身として家定に嫁いだのです。

「幼少の篤姫 於一像」(鹿児島県指宿市)。1754(宝暦4)年に初代今和泉家当主・忠郷(たださと)が建てた今和泉島津家別邸跡に立つ。現在の今和泉小学校にあった屋敷跡には、当時を偲ばせる石垣や手水鉢、井戸が残る。篤姫は、錦江湾を望むこの地で育った。

後の貞明皇后「九条節子」

貞明皇后こと九条節子は、九条家の出身です。1900(明治33)年、後の大正天皇である皇太子嘉仁(よしひと)親王に16歳で嫁ぎました。

1901(明治34)年、後の昭和天皇・裕仁(ひろひと)親王を生みます。さらに3人の親王を産んだことで、皇室で初めて一夫一婦制を確立しました。

貞明皇后は、病弱な大正天皇と年若い摂政(裕仁親王)を支えながらも、養蚕(ようさん)業の推進やハンセン病患者の救済事業などにも尽力されています。

内閣総理大臣を3回務めた「近衛文麿(ふみまろ)」

近衛文麿(1891-1945)   ー内閣官房内閣広報室,Wikimedia Commons(PD)

五摂家筆頭・近衛家第30代当主です。貴族院議長などを務めた後、1937(昭和12)年に第34代内閣総理大臣となり、その後も第38・39代と二度務めています。

革新政治家として期待される一方、「国家総動員法の成立」「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)の結成」「日独伊三国同盟の締結」など、ファシズム体制の樹立を図ったとされています。

1941(昭和16)年の第3次内閣総辞職後、一度は表舞台から退いたものの、1945(昭和20)年2月に戦争の早期終結を唱えて上奏文を提出しました。

敗戦後は国務大臣・内大臣府御用掛として、憲法改正案の起草に取り組みます。しかし、1945(昭和20)年12月、戦犯指定され、服毒自殺を遂げました。

五摂家を通じて、日本の歴史を知ろう

五摂家のルーツは、奈良時代までさかのぼります。教科書に登場する藤原鎌足が祖というだけで、歴史の長さや古い家柄であることがうかがえるでしょう。

藤原道長など五摂家の出身者は、その後の歴史にもしばしば登場しています。重要な役割を担った人も少なくありません。五摂家の歴史を知ることは、日本の歴史を知ることといえるかもしれません。ほかにどのような人がいたのか、この機会に子どもと一緒に調べてみても日本史への理解が深まるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

 

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