太政大臣とは? 代表的な人物や、摂政・関白・左大臣との違いを解説【親子で歴史を学ぶ】

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日本にはかつて「太政大臣」と呼ばれる役職がありました。日本史の有名人の中にも、太政大臣に任命された人物が何人か存在します。太政大臣とは、具体的にどのような仕事をしていたのでしょうか。摂政や関白、左大臣との違いも合わせて紹介します。

「太政大臣」とは、どのような役職?

太政大臣(だいじょうだいじん)」という役職は、いつごろ設けられ、どのような人がその職に就いていたのでしょうか。太政大臣の基礎知識を見ていきましょう。

大宝律令後に決められた最高官

太政大臣は、律令制における政治の最高機関「太政官」の長官のことです。

701(大宝元)年に、日本で初めての体系的な法律「大宝律令(たいほうりつりょう)」が制定され、「律令制」と呼ばれる政治体制が始まります。律令制では、「太政官」と「神祇官(じんぎかん)」の二つの役所を置き、祭祀(さいし)以外の政務をすべて太政官が担っていました。太政官の長である太政大臣は、実質的に国のトップといってもよい役職です。

なお大宝律令以前にも、太政大臣と呼ばれる「位」は存在していました。天皇に匹敵するほどの高い位とされ、初代の太政大臣にも、天皇の息子が就任しています。

ふさわしい人物がいなければ、空席に

太政大臣とは名誉職的な存在で、実務を司ることは、ほとんどなかったようです。

太政大臣は「世の中の手本となるような人格者」であることが求められており、ふさわしい人物が現れない限り、空席のままにする決まりでした。

実際に、大宝律令が制定された後も、しばらくの間、太政大臣に任命される人は現れませんでした。

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太政大臣になった代表的な人物

律令制以後、正規に太政大臣に任命された人物は、857(天安元)年に任命された「藤原良房(ふじわらのよしふさ)」です。

以後、太政大臣の役職は、ほとんど藤原氏の関係者によって占められていました。藤原氏以外で太政大臣になった人物を、2人紹介します。

最初の太政大臣「大友皇子」

日本初の太政大臣は、天智(てんじ)天皇の息子「大友皇子(おおとものおうじ)」です。671年に、天智天皇が任命しました。大宝律令が制定される前のことなので、太政官の長官ではなく、天皇に等しい権力を持つ役職を意味していたようです。

近江神宮(滋賀県大津市)。近江大津宮跡に建てられた神社。琵琶湖西岸の山すそにあり、1940(昭和15)年に、天智天皇を祭神として創祀された。「小倉百人一首」の第一首目を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める大会が毎年1月に開催され、コミックやアニメ、映画化もされた『ちはやふる』の舞台でもある。

 

当時、天智天皇は、弟の「大海人(おおあまの)皇子」を皇太子としていましたが、大友皇子が太政大臣になったことで、大海人皇子の皇位継承が危うくなりました。

危険を感じた大海人皇子は、いったん都を離れて吉野へ逃れ、反乱の機会をうかがいます。天智天皇が亡くなった後、大海人皇子は都に攻め入り(壬申の乱)、大友皇子を倒し、翌673年、天武(てんむ)天皇として即位しました。

武士で初めて就任した「平清盛」

平清盛(たいらのきよもり)は、平安時代の終わりに活躍した武士の頭領ともいえる人物です。公家(くげ)中心の社会から、武家中心の社会へと変わるきっかけを作った人物として知られています。

父・忠盛から受け継いだ経済力と武力を背景に、朝廷内で出世を重ね、平氏一門の全盛期を築きました。1167(仁安2)年には、武士として、初めて太政大臣に就任します。

武家としてだけでなく、公家としても最高の地位まで上り詰めた清盛でしたが、間もなく病気にかかって一線から退くことになりました。

厳島神社(広島県廿日市市)。日本三景の一つ「安芸の宮島」にある。593(推古元)年に創建され、1168(仁安3)年、平清盛により、大鳥居から奥に見えるような「寝殿造り様式」を取り入れた現存の規模に造営されている。本殿・拝殿など6棟が国宝、大鳥居・五重塔など11棟が重要文化財に指定されている。1996(平成8)年、世界文化遺産登録。
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太政大臣のほかによく聞く役職との違い

太政大臣のほかにも、日本史には「摂政(せっしょう)」「関白(かんぱく)」「左大臣」などのさまざまな役職が登場します。それぞれの役割の違いを見ていきましょう。

「関白」

「関白」は、成人している天皇を補佐する役職です。実際に政治を行うのは天皇であり、関白はアドバイザーのような立場でした。

なお関白という役職は、律令で規定されたものではありません。どこにも属さない自由なポジションで、権限も強く、実質的に政治を動かす力を持っていました。

日本で初めて関白になったのは「藤原基経(ふじわらのもとつね)」です。以後、関白の地位は、常に藤原氏出身の大臣経験者が占めるようになります。藤原氏以外で関白になったのは、戦国時代の武将「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」と息子の「秀頼(ひでより)」だけでした。

「摂政」

「摂政」は、天皇に代わって政務を行う役職です。幼くして即位した天皇や、女性天皇、病弱で政務ができない天皇の代行者として、政治を取り仕切ります。

日本史の授業では、よく関白と一緒に登場しますが、摂政は関白よりもずっと古くから存在していました。

日本で最初の摂政は、6世紀後半の「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」といわれています。後に、聖徳太子(しょうとくたいし)と呼ばれる厩戸皇子は、叔母の推古(すいこ)天皇に能力を認められ、政治を任されたのです。

橘寺(たちばなでら、写真左奥)への参道(奈良県高市郡明日香村)。参道脇に、「聖徳皇太子御誕生所」の石柱がある。太子が建立した7寺の一つ。8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院だったが、現在では1864(元治元)年に再建された本堂(太子堂)などを残すのみとなっている。

「左大臣」「右大臣」

「左大臣」と「右大臣」は、太政大臣と同じく律令制度の下に定められた役職です。太政大臣に次ぐ位ですが、太政大臣は実務を行わないため、事実上の最高位ともいえます。

左大臣と右大臣は同列ではなく、左大臣の方が上位です。右大臣には左大臣を補佐したり、左大臣が不在のときに、代わりに政務を行ったりする役割がありました。現在の日本でたとえるなら、左大臣が内閣総理大臣で、右大臣が副総理といってもよいでしょう。

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政治を統括する太政大臣

太政大臣は、ふさわしい人物のみが就任できる名誉職でした。めったに現れない一方で、太政大臣に任命された人は、まさに「位人臣を極める(くらいじんしんをきわめる)」として、世間から一目置かれたと伺われます。

平清盛が、武士として初めて太政大臣になって間もなく、鎌倉幕府が誕生したのも興味深い事実です。太政大臣をはじめ、摂政や関白などの役職を詳しく知ることで、歴史の勉強がもっと楽しくなるかもしれません。

さらに理解を深めるための参考図書

ドラえもん学習シリーズ  社会科おもしろ攻略「日本の歴史15人  はじめの一歩はこの人から」

 

本書は日本史のキーポイントになる人物15人を取り上げて、わかりやすく漫画で解説しています。この記事でもとりあげた官職を戴いた人物たちが、その時代にどのような役割を成したのかを見ていくことで、時代の特色がつかみやすくなります。中学入試に高い合格実績を持つ「日能研」の監修で、社会科の成績アップと中学入試の基礎勉強にも役立ちます。

小学館版学習まんが  はじめての日本の歴史4「貴族と武士」

全15巻の新・日本史学習まんがシリーズ。この4巻で扱うのは、平安時代中期から、平氏や源氏らの武士集団が台頭していった平安時代末期までの時代です。この記事でもとりあげた太政大臣にまでのぼりつめた平清盛と、彼をはじめとする平家の栄華がどのように極められたのか、そしてその後の平氏と源氏の戦いの経緯もていねいに描かれています。

小学館版  学習まんが人物館「豊臣秀吉」

武士としてはじめて「関白」となった豊臣秀吉の天下統一までの道と、その後の彼の治世の詳細をまんがでくわしく解説しています。日本史を知るうえで欠かすことのできない天下人・秀吉の生涯から、戦国の世であった安土桃山時代を概観することができます。

 

構成・文/HugKum編集部

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