薬子の変とはどんな事件? 関係したのは誰?
「薬子の変(くすこのへん)」とは、平安時代に起こった権力をめぐる朝廷内での抗争のことです。事件の内容や、名称の由来となった藤原薬子(ふじわらのくすこ)について解説します。
平安時代初期に起きた、朝廷内の権力争い
薬子の変とは、平城(へいぜい)上皇と嵯峨(さが)天皇の間で起こった権力争いを指します。平城上皇の寵愛(ちょうあい)を受けていた藤原薬子が事件の中心にいたことから、薬子の変と呼ばれるようになったのです。
809(大同4)年、平城天皇は病気を理由として弟の嵯峨天皇に譲位し、上皇となります。806(大同元)年に即位してから、わずか3年間の在位でした。
平城天皇の譲位によって権力を失った薬子は、兄の仲成(なかなり)とともに、上皇の復位を狙って「平城遷都(へいじょうせんと)」を画策します。この権力争いは嵯峨天皇の勝利に終わり、追放された薬子は自殺を選んだのです。
平城天皇と、藤原薬子の関わり
藤原薬子の父親は、桓武(かんむ)天皇に厚い信頼を寄せられていた藤原種継(たねつぐ)です。藤原四家のうち式家(しきけ)の出身であった薬子は、自分の娘が後宮(こうきゅう)に入った際に、付き添いとして朝廷に入ります。
薬子の娘は、当時、皇太子だった平城天皇の妃(きさき)として輿入(こしい)れしたため、天皇にとって薬子は妃の母親です。しかし、平城天皇は薬子に惹かれてしまい、薬子は女官の最高位である尚侍(ないしのかみ)となりました。
天皇と上皇が争うきっかけになったことから、薬子は悪女としてのイメージが強い人物です。しかし、薬子の変に関する記録は、あまり残っていないことから、薬子が騒動の原因ではないという説もあります。
薬子の変が起こるまでの背景と流れ
薬子の変は、どのようにして起こったのでしょうか。上皇と天皇との対立関係や、薬子の変が起こるまでの流れを見ていきましょう。
平城上皇と嵯峨天皇の対立
病を理由に譲位を行ったものの、平城上皇の体調はその後すぐに回復しました。復調した平城上皇が復位を目指して、薬子や仲成とともに平城京に移り住んだのが、嵯峨天皇との対立状態の始まりです。
嵯峨天皇は、京都の平安京で政治を行っていましたが、平城上皇は平城京で政務をとろうとします。こうして、上皇と天皇がそれぞれ命令を出す「二所朝廷(にしょちょうてい)」という状態が発生したのです。
平城上皇は、810(弘仁元)年に「観察使」という役職を廃止するなど、自らの権力をアピールしました。嵯峨天皇も新たに「蔵人所(くろうどどころ)」という役所を設置し、機密情報の管理に気を配ったのです。
薬子の変へ
810年に、平城上皇が平城京への遷都を宣言したことで、薬子の変が始まります。自分の住む平城京が都であり、自分が再び天皇になることを主張したのです。
挙兵した平城上皇に対して、嵯峨天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を派遣しました。薬子の変で活躍した田村麻呂は、蝦夷(えみし)を討伐したことでも有名な人物です。
嵯峨天皇の的確な対応により平城上皇は敗れ、出家することとなりました。仲成は左遷の後に処刑され、追放された薬子は自害します。
薬子の変による影響
平城上皇の挙兵は鎮圧されましたが、薬子の変は、その後の歴史にも影響を及ぼしました。式家や北家(ほっけ)など、藤原四家のその後についても解説します。
薬子の家系である藤原式家の没落
藤原薬子が生まれたのは、藤原四家の一つである式家です。藤原四家とは南家・北家・式家・京家のことで、そのうち北家は、平安時代以降に摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)として栄えました。
薬子・仲成の兄弟は、強い勢力を誇っていましたが、薬子の変により式家は影響力を失いました。
没落した式家に代わって権力を拡大したのが北家です。嵯峨天皇は、北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)に信頼を寄せており、蔵人所の長官として「蔵人頭(くろうどのとう)」にも任命しました。
薬子の変による式家の没落は、北家が勢いを増すきっかけとなったのです。
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薬子の変で勝利した嵯峨天皇の政治
薬子の変で平城上皇に勝利した嵯峨天皇は、その後も天皇として優れた政治を行いました。嵯峨天皇の残した業績についてチェックしましょう。
検非違使の設置
嵯峨天皇は、臨時の官職として「検非違使(けびいし)」を設置したことでも有名です。検非違使とは、律令(りつりょう)で決められていない官職(令外官・りょうげのかん)であり、主に都の警備を行いました。
現在でいう警察のような役割を担当していた検非違使は、やがて裁判などの役割も担当するようになります。平安時代の終わりには、京都だけでなく全国各地に設置されるようになりました。
検非違使の役所を検非違使庁といい、その長官は「検非違使別当(けびいしのべっとう)」と呼ばれました。都のパトロールを行う検非違使の設置は、治安維持に大きな役割を果たしたのです。
空海との親交
博学で教養ある文化人でもあった嵯峨天皇の治世は「弘仁(こうにん)文化」と呼ばれる、唐風の宮廷文化が花開きました。
嵯峨天皇は美しい筆跡でも知られ、真言宗をひろめた空海(弘法大師)や橘逸勢(たちばなのはやなり)とならぶ三筆に数えられているほどの能筆です。勅撰漢詩集の『凌雲集』『文華秀麗集』に自らの漢詩も多く残しています。
最新の仏教である真言密教を唐から持ち帰った空海には、高野山や東寺を下賜して、その布教活動を支援しました、空海の真言密教を支援することで、それまでの仏教勢力で、政治への影響力が大きくなりすぎた南都六宗の勢力を抑える狙いもありました。
三代格式の一つである弘仁格式の編さん
平安時代の法律は「律令」と呼ばれており、701(大宝元)年に唐の法律を参考にした「大宝(たいほう)律令」がつくられたことが始まりです。嵯峨天皇の頃に使われていたのは、757(天平宝字元)年に施行された「養老(ようろう)律令」です。
嵯峨天皇は、養老律令の補足として「弘仁格式(こうにんきゃくしき)」を編さんしました。格とは律令の修正や補足、式とは施行細則を意味しており、これを合わせたものが格式です。
弘仁格式は、後につくられた貞観(じょうがん)格式・延喜(えんぎ)格式と並んで三代格式ともいわれています。嵯峨天皇は法律や都の治安を整備し、安定した政治を行ったのです。
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薬子の変【まとめ】
天皇と上皇が権力を争った薬子の変は、名称の通り、藤原薬子が原因だったといわれています。妃の母という立場ながら平城天皇に寵愛された薬子は、強い権力を持っていたのです。
平城上皇の譲位で権力を失いつつあった薬子は、兄の仲成とともに平城上皇の復位を計画しました。こうして、平城上皇と嵯峨天皇との間で権力争いが始まったのです。
争いは嵯峨天皇の勝利に終わり、薬子の家系である藤原式家は没落します。その後、摂関政治の中心となる藤原北家が力を強め、栄えるようになったのです。
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構成・文/HugKum編集部