平安時代とは、いつのこと?
「平安時代(へいあんじだい)」とは、794年(延暦13年)から約390年にわたって京都が都であった時代です。
794年から始まる時代
794年、桓武(かんむ)天皇によって長岡(ながおか)京から平安京に遷都(せんと)されてから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間が平安時代です。鎌倉幕府が成立した年代は諸説ありますが、1185年(文治元年)から1192年(建久3年)の間とされています。
現在の京都市中心部あたりに存在していた平安京が都だったことから、平安時代と呼ばれるようになりました。この平安京という名称は、「平安な世の中が続くように」という願いをこめて付けられたといわれています。
平安時代の特徴
奈良時代と比べると、平安時代は日本独自の文化や政治体制が育った時代といえます。
仏教文化が伝来する
日本に、初めて仏教が伝来したのは6世紀中頃とされています。その後、遣隋(けんずい)使・遣唐(けんとう)使によって中国の文化が日本にもたらされるようになり、そのなかに中国で進展していた仏教文化も含まれていました。
日本における仏教上の大きな変化は、平安時代になって「密教(みっきょう)」が伝わってきたことです。奈良時代の仏教が、貴族階級に支持された世俗的なものであったのに対して、密教は修行や仏教の精神的な面を重視しました。仏も人も本質的には同じであり、仏と一体になった境地を実感するために修行を積むという思想です。
密教は、遣唐使船に同乗した最澄(さいちょう)と空海(くうかい)によってもたらされ、それぞれ天台宗(てんだいしゅう)と真言宗(しんごんしゅう)として発展しました。
数多くの文学作品が生まれる
894年(寛平6年)に遣唐使が廃止されてからは、日本独特の文化が発達していきます。なかでも、ひらがなやカタカナの普及によって、「竹取(たけとり)物語」や「今昔(こんじゃく)物語」などの読みやすい文学作品が生まれたことは大きな特徴です。
さらに、女房(にょうぼう、朝廷に仕える女官)によって文学作品が書かれることも増えていきます。例えば、「枕草子(まくらのそうし)」の作者である清少納言(せいしょうなごん)は、一条天皇の后(きさき)・藤原定子(ふじわらのていし)の女房です。
▼さらに詳しく!
和歌の分野では、醍醐(だいご)天皇の命により、「古今和歌集(こきんわかしゅう)」が編纂(へんさん)されます。ほかにも、歌の優劣を競う歌合(うたあわせ)が開かれたり、屛風(びょうぶ)に歌を書いて飾ったりと、「和歌」は平安貴族の生活になくてはならないものだったのです。
政治の在り方が何度も変わる
平安時代は、約390年もの長きにわたるため、政治のあり方も変わっていきます。平安初期は、奈良時代から引き継いだ律令制が政治の基本で、桓武天皇や嵯峨(さが)天皇が親政(しんせい)を行っていました。
9世紀中頃になると、多くの荘園(しょうえん)を支配する藤原氏の勢力が大きくなり、摂関(せっかん)政治に移行していきます。摂関政治とは、貴族たちが天皇に代わって政治を行う摂政や関白の地位に就くことで、実権をにぎる仕組みです。
11世紀後半には、藤原氏の勢力が衰え、天皇の位を退いた上皇(じょうこう)が政治を行うようになります。これを「院政」といい、白河(しらかわ)上皇や鳥羽(とば)上皇によるものが有名です。
このように、平安時代の間で何度も政治のあり方が変わっています。律令制は中国から伝わったものであるため、日本の実情に合った政治体制に変わっていったともいえるでしょう。
▼院政についてはこちらもチェック
平安時代に台頭した武士
平安時代では、武士のあり方も大きく変わっていきました。武士の始まりは、貴族の横暴に対抗するために農民が武装し、地域の豪族になっていったことです。
地方の武士団は都からやってきた源氏や平氏と主従関係を結び、源氏や平氏の長は棟梁(とうりょう)といわれるようになります。
院政が始まった平安時代末期には、都でも「北面(ほくめん)の武士」が組織され、上皇の御所(ごしょ)である院の警護にあたりました。上皇に仕えて院政を支える武力となったことにより、武士の勢力が強くなっていきます。
やがて、平清盛(たいらのきよもり)が武士で初めて太政(だいじょう)大臣となり、政治の実権をにぎりました。しかし、平氏の栄華は20年ほどしか続かず、源氏に滅ぼされます。その後、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開いたことで武士の時代が幕を開け、平安時代は終わりを迎えました。
▼こちらの記事も参考に
平安時代を代表する人物
平安時代には、歴史上の重要人物が数多くいますが、なかでも政治・文化に深く関係している3人をみていきましょう。
2度の遷都を行った「桓武天皇」
父・光仁(こうにん)天皇の崩御を受けて即位した桓武天皇は、奈良の仏教勢力から離れるために長岡京へ、さらに平安京へと2度の遷都を行いました。2度も遷都を行った背景には、災害や疫病の流行、粛清された皇族たちの祟(たた)りを恐れたことがあります。
また、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に任命し、東北地方の蝦夷(えみし)討伐を行いました。これによって、東北地方も朝廷の影響下におかれることになります。
ただ、「都の造営」や「蝦夷討伐」は民衆の大きな負担となっていたため、晩年に両方とも断念されました。積極的に政治を行った天皇として、歴代天皇のなかでも有名な人物です。
▼こちらの記事も参考に
現在では学問の神様「菅原道真」
全国の天満宮に祀(まつ)られ、「学問の神様」として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)は、学者の家系に生まれました。5歳のときにすでに和歌を詠んでいたとされ、長じてからは学者の最高位・文章博士(もんじょうはかせ)になります。
また、道真は政治家としても有能で、遣唐使の廃止などを行いました。藤原氏の勢力を抑えようとしていた宇多(うだ)天皇に重用され、最後は右大臣にまで昇りつめます。
しかし、出世を重ねる道真を快く思わない人も多かったようです。901年(延喜元年)、道真は藤原時平(ときひら)の陰謀によって九州の大宰府(だざいふ)に左遷され、2年後、失意のうちに亡くなりました。
その後、都では、時平が39歳の若さで亡くなったり、洪水・干ばつ・疫病などが起こったりします。人々は道真の祟りだと恐れ、道真の霊魂を鎮めるため、京都に北野天満宮を造営しました。
▼詳しくはこちら
源氏物語を執筆した女性作家「紫式部」
紫式部(むらさきしきぶ)は、清少納言とならんで平安時代の文学を代表する人物です。
三十六歌仙のひとりである藤原兼輔(かねすけ)を曾祖父にもち、父は花山(かざん)天皇に漢学を教えた藤原為時(ためとき)です。式部は幼少時から文学に目覚め、漢文にも秀でていました。
やがて、その優秀さが認められた式部は、藤原道長(みちなが)の娘で一条天皇の后・彰子(しょうし)に仕えることになります。ただ、いつまで朝廷にいて、いつ頃亡くなったのかは明らかではありません。
代表作である「源氏(げんじ)物語」は世界最古の長編小説とされ、現在でも世界中の20カ国語以上に翻訳されて読み継がれています。
平安時代の人々の暮らし
平安時代に対して、華やかなイメージをもつ人は多いと思いますが、人々の実際の暮らしはどうだったのでしょうか。
貴族の生活
平安貴族の男性は、毎日夜明け前に起き、内裏(だいり:天皇の住まいで政治を行うところ)へ出仕して仕事をしていました。仕事は11時頃に終了して、午後は自由に過ごしていたようです。
貴族の女性は、ほとんど家から出ることがなく、顔を合わせる男性は父親と夫くらいでした。家事や育児をするわけではないので、時間が余っていたのではないでしょうか。
平安時代は陰陽道(おんみょうどう)が盛んで、暦を見て物忌(ものいみ)の日には仕事を休んだり、方違え(かたたがえ)が必要な日は寄り道をして方向を変えたりしていました。また、七夕やひな祭りなどの年中行事は、この時代から始まって現在まで続いています。
平安貴族は、たっぷりある自由時間を利用して、教養や感性を磨くために文学や管弦を学びました。平安時代の文化は、貴族の余暇のおかげで生まれたのかもしれません。
庶民の生活
平安時代の庶民の生活について記された文献は数少ないため、庶民がどのような暮らしをしていたかは、推測が多分に含まれています。
平安京の人口の大部分は庶民です。都に住む庶民は、ものを売ったり、ものを作ったりして働いていました。
土壁と板葺(いたぶ)きの屋根でできた家に住み、服装は働きやすいつくりのものが多かったようです。食事は、品数が多い貴族とは違い、玄米やキビ・アワが中心の質素なものでした。
日本の「昔」と「今」を比べてみよう
桓武天皇によって平安京に遷都され、平安時代は始まりました。大きな特徴は、中国の影響が薄れたことにより、日本に合った政治や文化が生まれたことです。
とはいえ、そうした恩恵を受けていたのは皇族や一握りの貴族だけで、庶民の暮らしは「弥生時代」とほとんど変わらなかったとさえいわれています。
現代の我々の生活は、物質的には平安時代のどんな大金持ちよりも恵まれていますが、精神面の豊かさはどうでしょう。風情を楽しむ余裕があり、それを表す術(すべ)を知っているというのは、平安貴族の特権なのかもしれません。
あなたにはこちらもおすすめ
構成・文/HugKum編集部