坂上田村麻呂は、どんな人?
「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」は、平安時代に活躍した人物です。武芸に優れ、数々の戦功を挙げて当時の朝廷を支えました。田村麻呂の功績と、強さの由来を見ていきましょう。
平安時代初期に、征夷大将軍として活躍
田村麻呂は758(天平宝字2)年に、坂上苅田麻呂(かりたまろ)の子として生まれました。父の苅田麻呂は、朝廷に対する反乱を鎮圧した功績により、当時の天皇に重用されて出世を果たします。
田村麻呂も、若い頃から武官として期待され、朝廷内の要職を歴任します。794(延暦13)年に、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・大伴弟麻呂 (おおとものおとまろ)の副将軍となり、797(延暦16)年には、およそ40歳で征夷大将軍に就任しました。
なお、田村麻呂の祖先は、朝鮮半島南西部にあった国・百済(くだら)から日本へと渡来した氏族の一つ「東漢氏(やまとのあやうじ)」です。東漢氏は、土木・製鉄の優れた技術を持ち、経済的にも軍事的にも他の氏族より秀でていたと伝わっています。
毘沙門天の化身との呼び声も
記録によると、田村麻呂の身長は約175cm、胸板は約40cmもあったそうです。平安時代初期の男性の平均身長は161cmほどとされており、175cmの田村麻呂は、人々が見上げるような大男だったと考えられます。
また、彼は鷹のような鋭い目を持ち、ふさふさとした黄金色のあごひげを生やしていたと伝わっています。恵まれた体格と精悍(せいかん)な顔つきを併せ持つ田村麻呂は、その強さから軍神・毘沙門天(びしゃもんてん)の化身と呼ばれました。
坂上田村麻呂による蝦夷征伐
坂上田村麻呂は「蝦夷(えみし)征伐」の功績によって、歴史に名を残しています。蝦夷の意味と、田村麻呂の活動について見ていきましょう。
蝦夷とは
蝦夷とは、朝廷から見て、自分たちの支配が及ばない地域に住む人々を指す言葉です。当時、朝廷の支配領域は都を中心とする西日本に限られていました。西日本以外の北陸や関東、東北地方などは、朝廷にとっては「異国」のような存在だったのです。
奈良時代後期から平安時代初期にかけて、朝廷は支配領域を広げるため、現在の宮城県に多賀城を築いて東北地方への進出を始めます。朝廷が、わざわざ都から遠く離れた東北にこだわった理由は「金(きん)」です。
当時の東北には、多くの金鉱脈があったとされており、財政難に苦しんでいた朝廷にとっては、ぜひ支配下におきたい地域でした。
蝦夷のリーダー「アテルイ」
朝廷の侵略行為に対して、先住民である蝦夷たちも黙ってはいません。続々と軍勢を繰り出してくる朝廷の前に、「阿弖流為(アテルイ)」という名の人物が立ちはだかります。
アテルイは、現在の岩手県奥州(おうしゅう)市水沢地域付近に暮らしていた、蝦夷の族長です。789(延暦8)年には「巣伏(すぶし)の戦い」で5万を超える朝廷軍を撃退し、蝦夷のヒーローとして名を馳せました。
蝦夷の象徴的な存在として知られるアテルイですが、生い立ちや人物像に関する記録は残っておらず、詳細は謎に包まれています。
802年に、アテルイが降伏
アテルイ率いる蝦夷軍は、地の利を生かして朝廷軍を翻弄(ほんろう)します。しかし、802(延暦21)年、征夷大将軍としてやってきた田村麻呂の実力を見て観念し、もう一人の族長「モレ」とともに降伏することを決めました。
田村麻呂が、どのようにして蝦夷と戦い、降伏させたのかについて、詳細な記録は残念ながらありません。ただ彼が、降伏した二人を、生かして故郷へ帰そうとした事実は伝わっています。
アテルイとモレを連れて都へ凱旋(がいせん)した田村麻呂は、朝廷に二人の助命を願い出ます。しかし、願いは聞き入れられず、二人とも斬首刑(ざんしゅけい)に処されてしまいました(802)。
坂上田村麻呂に関する伝承
蝦夷の長(おさ)を救おうとした行動からも分かるように、坂上田村麻呂は強いだけでなく、優しい人物だったと伝わっています。1,200年以上のときを超え、現代まで伝わる田村麻呂のエピソードを紹介します。
大多鬼丸退治
田村麻呂による大多鬼丸(おおたきまる)退治は、現在の福島県田村市周辺に伝わる物語です。大多鬼丸は、大滝根山に住む賊の頭で、大勢の手下を率いて辺りを荒らしまわっていました。
そこで朝廷は、田村麻呂に大多鬼丸の討伐を命じます。朝廷軍は当初、不慣れな山中で苦戦を強いられます。しかし、神のお告げや白鳥の導きのおかげで次第に優勢となり、ついに大多鬼丸を自決させました。戦いの後、田村麻呂は大多鬼丸の武勇をたたえて丁重に葬ったとされています。
ちなみに、大多鬼丸は大滝根山周辺を治める豪族で、朝廷の支配を拒んだために征伐されたとする説もあります。アテルイのときと同様、本当は田村麻呂も、大多鬼丸を死なせたくなかったのかもしれません。
清水寺創建にも関わる
田村麻呂は京都の古寺・清水寺(きよみずでら)の創建にも関わっています。清水寺の建つ音羽山(おとわやま)には、778(宝亀9)年に「賢心(けんしん)」という僧侶が開いた霊場がありました。
賢心が霊場を開いてから2年後、田村麻呂が鹿狩りのために音羽山を訪れます。彼が鹿を狩る理由は、生き血を病気の妻の薬にするためと伝わっています。
賢心は田村麻呂に、霊場での殺生(せっしょう)をいさめると同時に、観音菩薩(かんのんぼさつ)の功徳を説いて聞かせます。賢心の教えに感銘を受けた田村麻呂は、後に本格的な堂宇(どうう:堂の建物)を寄進して「清水寺」と名付けました。
その後も、田村麻呂と清水寺の関係は続き、征夷大将軍になった翌年には、本堂の改修に協力しています。
現在に続く歴史の出来事を知ろう
坂上田村麻呂は都の人たちにとって、東北の蝦夷を相手に戦った英雄でした。一方で、アテルイやモレの助命嘆願や寺の建立(こんりゅう)に奔走する温かな人柄が伝わり、蝦夷からも信頼されたと伝わっています。
現在も、東北地方には田村麻呂にまつわる伝説が残っていますし、彼が建てた清水寺は、国内外から多くの観光客が訪れる名所となっています。田村麻呂のエピソードを通して、遠い昔の人が起こした出来事の一つ一つが、現在にも確かに続いていることを子どもに伝えてあげましょう。
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構成・文/HugKum編集部