平将門の乱は何が原因? 平将門の生涯や、事件の背景、その後の影響を解説

平将門の乱は、日本史の授業にも必ず登場する重要な出来事です。地方の武士が朝廷に対して起こした初の反乱で、その後の武士のあり方を変えるきっかけになりました。平将門の人物像や反乱を起こした理由、後世への影響についてわかりやすく解説します。

平将門の乱とは?

「平将門(たいらのまさかど)の乱」とは、どのような事件だったのでしょうか。起こった時代や地域、原因を見ていきましょう。

平安時代中期に起きた朝廷への反乱

平将門の乱は、関東の豪族・平将門が朝廷を相手に争い、鎮圧された事件を指します。平安時代(794~1185年)の中期に当たる、10世紀に起こりました。

935年(承平5年)、現在の千葉県北部から茨城県南部を治める一族の間で、土地や権力をめぐる争いが起こります。武力をもって一族の争いを制したのが平将門です。

その後、将門は朝廷に不満を持つ人々に支持され、勢力を広げていきます。やがて関東全域を制圧し、939年(天慶2年)に「新皇(しんのう、新しい天皇のこと)」を名乗りました。

しかし、間もなく朝廷が派遣した軍勢に将門は討ち取られ、クーデターは失敗に終わります。一族間の争いに始まり、将門が討ち取られるまでの一連の出来事を「平将門の乱」と呼んでいます。

神田明神(東京都千代田区)。14世紀、将門の祟りといわれる疫病が流行。将門の首塚に近い神田明神が霊を供養したところ疫病が治まったため、1309(延慶2)年に将門を祀っている。明治天皇行幸で一時、境内摂社に左遷されるが、1984(昭和59)年に本社復帰した。

平将門の乱が起きた原因

将門の祖父・平高望(たかもち)は、桓武天皇(かんむてんのう)の子孫で、国司(こくし、地方役人)として朝廷から上総国(かずさのくに、現在の千葉県中部)に派遣された人物です。

高望は任期が終わった後も京都へは戻らず、土着して豪族となります。高望には息子が5人いて、それぞれに所領がありました。

将門の父・良将(よしまさ)も、下総国(しもうさのくに、現在の千葉県北部)の佐倉を拠点に広大な私領を獲得しています。しかし、良将が早くに亡くなると、良将の兄弟の国香(くにか)が所領を横取りします。

この頃、将門は常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)の国司・源護(みなもとのまもる)の娘と婚姻関係を結ぼうとしますが、3人いた娘は、みな国香やほかの叔父たちの妻となってしまいました。

土地を奪い、国司と結びついて将門の邪魔をする叔父たちとの対立が激化した結果、935年の武力行使につながったと考えられています。

平将門の生涯

歴史に名を残した平将門は、どのような人生を歩んだのでしょうか。誕生から亡くなるまでの生涯を見ていきましょう。

東国で生まれ、15歳頃に上京

将門の生年は不明ですが、15歳頃に京都に上り、当時の朝廷で権力をにぎっていた藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えたとされています。

このとき、将門は検非違使(けびいし、警察に相当する官職)になることを目指していたようです。しかし、当時の朝廷は藤原氏が要職を独占しており、将門の望みはかないませんでした。

上京から12年ほどたった頃、父が亡くなったために将門は地元へ戻ります。そこで、叔父に領地を奪われたと知った将門は、ひとまず下総国豊田郡(とよたぐん、現在の茨城県結城郡)を本拠に力を蓄えます。

年貢を減らすなどの善政をしき、国司の圧政に苦しむ農民を周囲から集めることで、勢力を強めていきました。

関東で名声を高める

農民がこぞって善政を行う将門の元に集まり、生産力が落ちることを危惧した源護や国香らは、将門の殺害を計画します。935年、源護の息子たちが将門を待ち伏せし、襲いかかりました。

しかし、将門は彼らを返り討ちにし、さらには国香の屋敷を攻めて叔父を亡き者とします。その後、源護や国香の子の貞盛(さだもり)が将門討伐を企てますが、みな失敗に終わりました。

一族との争いにことごとく勝利した将門の武名は関東中に広まり、有力な豪族からも頼りにされるほどとなったのです。

鎧(よろい)神社(東京都新宿区)。将門が秀郷に討たれると、この地の人々はその死を悼み、将門の鎧を当地に埋めたという。また一説では、将門を討った後、重病にかかった秀郷が将門の鎧を埋め、祠を建てて霊を弔うと、たちまち快癒したともいわれている。

朝廷への反乱を起こす

939年(天慶2年)、常陸国の豪族・藤原玄明(はるあき)が国司と対立し、将門の元に身を寄せてきました。将門は玄明を保護して国司の軍勢と戦い、大勝します。

しかし、国司を敵にまわす行為は、朝廷に背くのと同じことです。朝敵(ちょうてき)となった将門は後に引けなくなり、周囲の国府(国司の役所)に攻め込んでは、次々に国司を追放していきました。

同じ年、伊予国(いよのくに、現在の愛媛県)の豪族・藤原純友(すみとも)も、瀬戸内海の海賊を束ねて朝廷への反乱を起こしています。

ほぼ同時期に起こった二つの乱は、合わせて「承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」と呼ばれています。

無念の死を遂げる

国司を追い出して関東全域を平定した将門は、岩井(現在の茨城県坂東市)に政庁を置いて新皇の名乗りをあげました。しかし、朝廷としても将門の行為を黙って見過ごすわけにはいきません。

朝廷は討伐軍を集めるために、「将門を討ち取った者を貴族にする」と通達します。呼びかけに応じたのは、国香の息子・貞盛と、貴族になることを望む武将・藤原秀郷(ひでさと)でした。

新皇を名乗ってからおよそ2カ月後、貞盛・秀郷連合軍との戦いで、将門は額に矢を受けて戦死します(940)。志半ばで散った将門の霊は、同じく無念の死を遂げた崇徳上皇(すとくじょうこう)や菅原道真(すがわらのみちざね)と並び、日本三大怨霊(おんりょう)の一つに数えられています。

将門塚(東京都千代田区)。京都でさらし首になった将門の怨念は凄まじく、3日目に切断された胴体を求め夜空に舞い上がった首級は、故郷の数か所に落ちたという。この地は関東大震災で露出した古墳である。幾多の建設計画が頓挫し、将門の首塚はビルの谷間に残る。

平将門の乱がもたらした影響

平将門の乱は、貴族中心の世を変えるきっかけになりました。乱が、後の世にもたらした影響を振り返りましょう。

武家政権の時代を後押し

天皇の子孫とはいえ、地方の一豪族に過ぎない将門が朝廷を脅かした事実は、同じ立場の地方武士に希望を与えます。乱を鎮圧したのが同じ武士だったことも、朝廷が武士に頼らざるを得ない現状を浮き彫りにしました。

後に、武士として初めて太政大臣(だいじょうだいじん)となった平清盛(きよもり)は、将門討伐に貢献した平貞盛の子孫です。また、後の時代には、清盛のライバルである源義朝の遺児・頼朝(よりとも)が、関東の武士を従えて挙兵し、鎌倉に本格的な武家政権を樹立しています。

以降、江戸幕府が滅びるまで、日本の政治は、ほぼ武士が担うことになりました。武士として初めて朝廷に歯向かった将門の心意気は、決して無駄ではなかったといえるでしょう。

親族抗争から始まった平将門の乱

親族間の争いが発端となった平将門の乱は、最終的に朝廷の権威を揺るがすほどの大事件に発展します。出世がかなわず、領地も奪われるはめになった将門は、貴族中心の政治に嫌気(いやけ)がさしていたのかもしれません。

歴史を大きく動かした事件の背景について親子で話し合い、歴史への認識を深めましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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