「院政」とはどのような政治? 始まるまでの経緯や関係する上皇も解説【親子で歴史を学ぶ】

「院政」という言葉は知っていても、具体的にどのような政治のことなのか、説明できない人もいるのではないでしょうか。そこで、院政の政治体制や始まるまでの経緯などを紹介します。院政と関係のある上皇についても知り、理解を深めましょう。
<画像:後白河法皇が平清盛の資材協力を得て、院の御所とした法住寺殿の中に創建した三十三間堂(京都市東山区)>

「院政」とは

院政は、どのような政治体制を指すのでしょうか?  初めて院政を取り入れた人物や、院政期の文化についても紹介します。

上皇が政治を行う体制

院政は、上皇(じょうこう)が政治を仕切る体制を指します。上皇は、後継者に皇位を譲って退位した元天皇のことです。つまり、天皇ではなく上皇が政治の実権をにぎっている体制を院政といいます。

院とはもともと上皇の御所の名称でしたが、上皇の尊称として使われるようになりました。そこから、上皇が政治を行う体制を院政と呼ぶようになったのです。

初めて院政を行ったのは「白河上皇」

初めて院政を行ったのは、第72代天皇の「白河(しらかわ)上皇」です。1072年(延久4年)に即位した白河天皇は、1086年(応徳3年)に息子の「善仁親王(たるひとしんのう)」に譲位しました。親王は「堀河(ほりかわ)天皇」として即位し、白河天皇は上皇になったのです。

即位当時、堀河天皇はまだ8歳と幼かったため、白河上皇が政治の実権をにぎっていました。これが院政の始まりです。

白河上皇は、朝廷の意向に振り回されることなく、父の後三条天皇が推進していた政治改革を、引き続き推し進めようとしていました。そのため、朝廷と深い関わりのない貴族を登用したり、源氏や平氏といった武士を側近にしたりして、院政の権力を強めていったのです。

白河上皇(イメージ)

院政期の文化

院政期の文化の大きな特徴は、それまで貴族中心だったところに、武士や庶民も台頭し始めたことです。例えば、この頃には「田楽(でんがく)」や「猿楽(さるがく)」などの伝統芸能が流行しました。「今昔物語集」などの説話集や、平将門の乱をもとにした「将門記」などの軍事物語も作られています。

実際の出来事を言葉と絵で描写した「源氏物語絵巻」などの絵巻物も、数多く作られました。また、もともと京都の貴族の間で信仰されていた「浄土教(浄土信仰)」が庶民の間にも広がり、全国に普及します。浄土教は建築にも影響を与え、極楽浄土を表現したとされる「中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)」などが建てられました。

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院政が始まるまでの経緯

院政が始まるまでは、藤原氏が政治の実権をにぎっていました。どのような政治体制だったのか、院政に至るまでの経緯とともに紹介します。

藤原氏による摂関政治の弱体化

院政が始まる以前は、藤原氏による「摂関(せっかん)政治」が行われていました。摂関政治とは、藤原氏が「摂政(せっしょう)」や「関白(かんぱく)」など重要な役職を独占し、実権をにぎっていた政治体制を指します。

娘を天皇に嫁がせ、2人の間に誕生した皇子を天皇にすることで、「外祖父(天皇の母方の祖父)」として朝廷内で強い権力をもったのです。

摂関政治の全盛期は、藤原道長・頼通親子の頃です。道長は、娘を天皇に嫁がせて生まれた皇子を即位させ、自分が摂政となり、天皇の代わりに政治を行いました。その後、頼通に摂政の地位を譲り、藤原氏の権力を強めていきます。

しかし、頼通の娘は天皇に嫁いだものの、皇子を生むことはありませんでした。そのため、頼通は外祖父となって権力をにぎることができず、摂関政治が弱体化していったのです。

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後三条天皇の即位

藤原氏の娘を母にもたない「後三条(ごさんじょう)天皇」が即位し、自ら政治を行う「親政」を開始したことで、摂関政治は終焉を迎えました。

1069年(延久元年)には、藤原氏の大きな財源となっていた荘園(しょうえん)の審査を行い、基準に合わなければ停止する「延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)」を実施するなど、さまざまな改革を断行して藤原氏の勢力を弱めていきます。

後三条天皇の後継者となったのが息子の白河天皇で、堀河天皇へ譲位した後に上皇となり、院政をスタートさせたのです。

院政と関連して知っておきたい上皇

院政を始めた白河上皇以外にも、院政と関わりのある上皇として知っておきたい人物が2人います。どのような人物なのか見ていきましょう。

後白河上皇

後白河上皇(イメージ)

約30年にわたり院政を行った人物として知られているのが、77代天皇の「後白河(ごしらかわ)上皇」です。その即位をめぐっては、後白河天皇方と兄の崇徳(すとく)上皇方との間で争いが起こりましたが、1155年(久寿2年)に後白河天皇が即位しました。その3年後、息子の「二条天皇」に譲位し、上皇として院政をスタートさせます。

院政を行っている間には、息子である二条天皇が親政を行おうとするなど権力争いが起こり、後白河上皇が幽閉される事件も起きました。こうした情勢から、この頃には後白河上皇による院政が滞った時期もあります。

1165年(永万元年)には、二条天皇が息子に譲位して「六条天皇」が即位します。しかし、直後に二条上皇は亡くなったため、六条天皇は祖父・後白河上皇の庇護下となり、幼いうちに叔父にあたる親王に譲位することとなりました。

京都市東山区の新熊野神社。後白河法皇によって奉納された神社といわれ、境内の「影向の大樟(ようごうのおおくすのき)」は樹齢900年、「上皇によるお手植え」と伝えられている。

後鳥羽上皇

「後鳥羽(ごとば)上皇」は、後白河上皇の孫にあたる第82代天皇です。和歌や宮廷文化などあらゆる分野に精通していたといわれています。馬上から的に矢を射る競技「笠懸(かさがけ)」や、馬術やスピードを競う「競馬」のスキルも高く、文武両道で万能だったようです。

後鳥羽上皇(イメージ)

源氏の将軍が3代で途絶えたのを受け、後鳥羽上皇は1221年(承久3年)に鎌倉幕府打倒を計画し、「承久(じょうきゅう)の乱」を起こしました。しかし、味方の裏切りや幕府方の御家人の奮闘によって大敗してしまいます。その後、鎌倉幕府の勢力拡大に伴い、院政の力は衰えていきました。

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院政は上皇が政治の実権をにぎっている政治体制を指し、初めて院政を行ったのは白河上皇です。藤原氏による摂関政治が弱体化し、藤原氏と外戚関係のない天皇による親政が開始されたことが、院政が始まるきっかけの一つです。

平安時代の政治についてもっと詳しく調べてみるのもよいでしょう。

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