「律令」とは?
「律令」という言葉には、どのような意味があるのでしょうか。中国での歴史と、日本に伝わった時期も見ていきましょう。
中国伝来の政治の仕組み
律令は、現在でいう法律に該当する言葉で、「律」は罪と、罪を犯した人への刑罰について、「令」は行政の枠組みについて定めたものです。
律令制度は、中国で「秦(しん)」の時代に始まったとされ、「隋(ずい)」や「唐(とう)」の時代には、国を統治する仕組みとして機能するまでに発展します。
日本では、奈良時代に、唐の制度をまねて律令が取り入れられました。
それまでの日本には、行政における明確な基準がありませんでしたが、律令制度の導入によって、天皇を中心とした全国を統治する中央集権体制が作られていったのです。
日本で定められた律令
中央集権国家を目指していた日本の朝廷は、唐の律令を参考に、わが国の実情に合わせたオリジナルの律令を定めました。ただし、実際に制定されたのかどうか、資料からは分からない律令もあります。
制定が確認されている、三つの律令の概要を紹介しましょう。
飛鳥浄御原令
「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」は、681年に天智(てんじ)天皇の命で編さんが始まり、689年に持統(じとう)天皇が施行したと伝わる律令です。
全部で22巻あり、後の「大宝律令(たいほうりつりょう)」の基本となる日本初の体系的な法典と考えられています。
原文が残っていないため、詳細は不明ですが、日本が編さんしたのは「令」のみで、「律」は唐のものをそのまま代用したという説が有力です。
大宝律令
「大宝律令」は、701年に刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)らにより制定されました。当時の元号が「大宝」だったことにちなんで、大宝律令と呼ばれています。
「律」と「令」が揃(そろ)った日本で最初の法典で、律は6巻、令は11巻ありました。
刑罰や官制、税制の仕組みを明確にした大宝律令は、日本が本格的な中央集権国家へ移行するうえで、大変重要な役割を果たします。ただし、原文は残っておらず、後世の文献で一部が判明しているに過ぎません。
養老律令
「養老律令(ようろうりつりょう)」は、大宝律令の改訂版として施行された律令です。藤原不比等らによって718(養老2)年から編さんが始まり、不比等の孫の代にようやく完成しました(757)。
律・令各10巻から成りますが、内容は大宝律令とあまり変わりません。養老律令の制定以降は大きな改訂は行われず、律令制度自体も徐々に衰退していきます。
養老律令も本来の効力を失いますが、公家(くげ)の社会では形式的に用いられ、一部の制度は、明治時代の初期まで存続していました。これも原文は残っていませんが、他の文献によって、ほぼ全文を知ることが可能です。
律令制定から衰退までの流れ
大宝律令が制定されてから、日本の律令制度は、約200年間続きます。日本が律令を導入した経緯と、衰退までの流れを見ていきましょう。
中央集権国家の形成を目指す
律令制度が導入される前の日本では、占いや、まじないによって政策が決められていました。
大和朝廷が国を支配するようになると、聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)が官位制度や憲法の制定によって、政治体制の整備を進めます。
しかし、当時は「豪族」と呼ばれる地方領主の力が強く、朝廷では有力豪族「蘇我氏(そがし)」が政治の実権を握っていました。
このままではいけないと考えた「皇族」中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、蘇我氏の当主・入鹿(いるか)を暗殺して、政治の舞台から排除します(乙巳の変)。
その後、2人は天皇による中央集権国家の実現を目指して、「大化の改新」(645)と呼ばれる政治改革をスタートさせました。
白村江の戦いでの敗北
蘇我氏暗殺後、中大兄皇子は孝徳(こうとく)天皇の補佐役となって改革を進めていきます。
しかし、朝鮮半島の国「百済(くだら)」が「新羅(しらぎ)」に滅ぼされた(660)のを機に、日本に大きなピンチが訪れました。
百済再興を願う遺臣の要請に応じて援軍を派遣したところ、「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」(663)で、新羅と唐の連合軍に大敗してしまったのです。大国・唐を敵にまわしたことで、朝廷は大きな危機感を持ちます。
中大兄皇子は、唐の襲来に備えて国防を強化しますが、唐の側にも事情があり、最終的に日本は攻撃されずに済みました。
この経験によって、もっと国を強くする必要性を痛感した朝廷は、天智天皇となった中大兄皇子を中心に、唐と同じ律令制度を取り入れていくことになります。
墾田永年私財法で税収は崩壊
大宝律令の制定以降、本格的な中央集権体制が始まります。しかし実際は、地方の豪族の力が強く残っており、律令が全国に浸透し、機能したとはいえない状態でした。
時代が経(た)つにつれて、律令制度はほころびを見せはじめます。律令制度崩壊を決定的にしたのが、743(天平15)年の「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」の制定です。
律令制度では、すべての土地は天皇のものと考え、「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」が定められていました。人民は、天皇から土地を「口分田(くぶんでん)」として割り当てられ、収穫の一部を「租」として納税する決まりです。
さらに、人民には「庸(労役)」と「調(特産品)」が課せられており、大変厳しい暮らしを強いられました。奈良時代の中期には、重税に耐えかねた農民が、口分田を捨てて逃げ出す事態に発展します。
朝廷はやむなく「墾田永年私財法」を制定して、個人の土地所有を認めることにしました。
自分が開墾した田畑を自分のものにできるとあり、豊富な資金を持つ豪族や寺社が、こぞって農民を雇い、所有地を広げていきます。
この土地は「荘園(しょうえん)」と呼ばれ、朝廷の税収を圧迫する要因となります。税収の崩壊に伴って、律令制度も衰退してしまったのです。
国の制度の基本を定めた律令
国を一つにまとめ、治めていくためには、刑罰や徴税制度などの「決まり」が必要です。唐から伝わった律令による政治体制は、明確な決まりのなかった時代の日本人にとって、画期的なシステムだったといえるでしょう。
律令制度崩壊以降も、各政権において独自の法が制定され、現在に至ります。中国で生まれた律令が、日本に与えた影響に思いをはせつつ、歴史の知識を深めていきましょう。
参考にしたい関連図書
小学館版学習まんが 日本の歴史2「律令国家への道」
大陸からわたってきた国家制度や仏教は、日本にどのような影響を与えたのか? 聖徳太子(厩戸皇子)が行った政治とはどのようなものだったのか? 等々、飛鳥時代をしっかり把握できます。聖徳太子の憲法十七条、蘇我氏を滅ぼすクーデタ(乙巳の変)、唐・新羅連合軍に敗れ去った白村江の戦い、皇位をめぐる内乱・壬申の乱などが描かれます。
小学館版学習まんが 日本の歴史3「平城京と政争の時代」
同シリーズの第2巻の飛鳥時代からさらに時代が下り、奈良時代の日本を取り扱います。藤原不比等の活躍や、藤原4兄弟と長屋王の争い、鎮護国家を願った聖武天皇の大仏造立、藤原仲麻呂(恵美押勝)をめぐる権力争いなどを中心に、古都・奈良の姿が描かれます。
山川出版社 日本史リブレット「律令制とはなにか」
律令をもとに統制されていった古代国家はどのようなものだったのか、またその律令制の研究方法はどのようなものなのかを学術的に論じています。古代日本と隋や唐との律令法の比較研究を盛り込みながら、天皇制の唐風化や、奈良時代中期から平安時代にいたる中国風の儀礼の伝来についても解説。日本の歴史の基礎となった古代国家の枠組みをひもときます。
構成・文/HugKum編集部