「太政官」とは? 明治初期の政治の仕組みがわかる!【親子で歴史を学ぶ】

「太政官」とは、政治を動かす機関の名称です。日本史では大宝律令が制定された律令時代と、明治時代初期の2度登場します。明治初期の太政官制について、当時の政治の仕組みや奈良時代との違い、関連する言葉の意味を解説します。

明治初期の太政官制を解説

明治維新後、新政府は、古代日本の律令制によって生まれた「太政官制(だじょうかんせい)」を刷新し、政治の最高機関としました。明治初期の太政官制について、概要を見ていきましょう。

「太政官」とは?

明治維新以前に、政治を動かしていたのは江戸幕府です。幕府に代わる政治体制の総称として明治政府が使用したのが、律令時代に登場した「太政官」です。

律令時代の太政官は、平安時代に摂政(せっしょう)・関白政治の台頭により権力を失ったものの、官制自体は幕末まで残っていました。

天皇を中心とした中央集権体制を目指す明治政府としては、日本初の中央集権体制をつくった律令時代の制度が取り入れやすかったのでしょう。太政官制は数度の見直しを経て、内閣制度が始まる1885(明治18)年まで続きました。

三権分立の実現へ

明治政府は、アメリカのような「三権分立」の実現を目指し、政治体制を何度も改革します。

現行憲法では、国会(立法)・内閣(行政)・裁判所(司法)の三つの独立機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより、権力の濫用(らんよう)を防ぐ「三権分立」の原則を定めている。

 

1867(慶應3)年の「王政復古の大号令」の後、翌1868(明治元)年に発足した新政府は「太政官」の設置を予告し、名目上は「立法」「行政」「司法」の三つに分かれていました。しかし、実際には行政の長(行政官)が政治を動かしていたため、三権分立とは名ばかりの状態だったのです。

1869(明治2)年には職員令を制定し、太政官の上に祭祀(さいし)を司る「神祇官(じんぎかん)」を置くなど、古代日本に戻すかのような体制となり、本来目指していた三権分立からは、さらに遠ざかってしまいます。

その後、1871(明治4)年に官制改革を実施、神祇官の格下げと太政官の権力分散政策(太政官三院制)が実施され、1873(明治6)年になって、ようやく本格的な三権分立体制が整いました。

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大宝律令の時代との違い

明治政府の太政官のルーツは、大宝律令(701)で定められた統治機構にあります。当時の政治の仕組みと、太政官の位置付けを見ていきましょう。

「二官八省」での「太政官」の役割

大宝律令では中央の統治機構として、「二官八省」を定めています。「二官」とは神祇官と太政官のことで、太政官の下に実務を取り仕切る「八省」がありました。

神祇官は祭祀全般を担当し、その他の行政全般を太政官が受け持つ仕組みです。

太政官には「太政大臣」を筆頭に、「左大臣」や「右大臣」「大納言(だいなごん)」などの役職があります。ただし、太政大臣は臨時の役職とされており、通常は左大臣がトップを務めていました。

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「太政官」と並ぶ「神祇官」とは?

「神祇官」は、祭祀を司る官庁のことです。律令時代には太政官と同列の最高機関とされていました。しかし実際には、国政のほとんどを取り仕切る太政官よりも、立場は下だったようです。

大宝律令は、唐(とう)の律令を参考にしてつくられましたが、唐には神祇官に該当する制度はなく、日本が独自に制定したものと考えられています。太政官と同様に、平安時代に入ると、神祇官の機能も失われます。

明治維新の後、「祭政一致」を掲げた政府によって、一度は復活したものの、間もなく廃止されました。

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「太政官」に関連する事柄

内閣が発足する前の政府の政策の中には、「太政官」を付けて呼ばれるものがあります。太政官が関わった事柄を二つ紹介します。

法令形式「太政官布告」

「太政官布告」は、太政官制時代に、政府が発した法令形式の一つです。

一般的に、太政官が全国に広く公布する制度や条例を「布告(ふこく)」、布告を受けて各省庁が発令するものを「布達(ふたつ)」といいます。

「大日本帝国憲法」ができる前の法律に相当し、内閣発足に伴い廃止されるまで、さまざまな太政官布告が発令されました。1871(明治4)年の「郵便創業」や翌1872年の「学制」は、太政官布告の身近な例です。

「郵便発祥の地」記念碑(東京都中央区日本橋)。現在は、日本橋郵便局があるが、ここに駅逓司(えきていし)と東京郵便役所が置かれた。それまでの飛脚制度に代わる郵便制度創設に着手した前島密(ひそか)の胸像が、1962(昭和37)年、郵便制度90周年を記念して建てられた。

 

郵便については、布告文と郵便システムの使い方を記した紙を、ポストの周辺に設置して一般の利用者に周知させる手法を取っています。学制の場合は、まず太政官布告で学制の趣旨を宣言し、文部省が布達を発して全国に広く行き渡らせました。

太政官制は、1885(明治18)年に内閣制度ができたことで廃止されましたが、太政官布告は大日本国憲法や日本国憲法で違憲とされない限り、現在も有効とされています。

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紙幣「太政官札」

「太政官札」は、1868(明治元)年に明治新政府が発行した紙幣です。それまで日本には全国に通用する紙幣はなく、「藩札(はんさつ)」と呼ばれる、各藩が独自に発行した紙幣が流通していました。

明治政府は藩札の代わりに全国で通用する紙幣として、10両・5両・1両・1分・1朱の5種類の「太政官札」の発行を決め、京都に製造場を設けて造幣を開始します。

太政官札には、脆弱(ぜいじゃく)だった政府の財政を強化する目的もあり、短期間で大量に発行されたため、大きな混乱を招きました。1879(明治12)年には、すべて新しい紙幣に交換・回収されています。

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「太政官」への理解を深めよう

明治政府は、幕府以前の朝廷を中心とした政治にならい、太政官制を取り入れます。短期間とはいえ、太政官制の下で、さまざまな制度がつくられ、国民の生活は大きく変わりました。

私たちの暮らしにも深く関わる、郵便や学校が始まったのも、太政官制の時代です。太政官について学ぶことで、日本の近代史への理解がさらに深まるでしょう。

構成・文/HugKum編集部

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