遣隋使とは?
遣隋使は、日本史で必ず習う言葉ですが、細かい内容までは思い出せない人も多いのではないでしょうか。遣隋使の意味と、間違えやすい「遣唐使(けんとうし)」との違いを見ていきましょう。
日本から隋へ送ったつかい
遣隋使は、日本の朝廷が中国の隋に派遣した「朝貢(ちょうこう)」使節です。朝貢とは、周辺諸国の君主が、中国の皇帝に貢物を献上し、皇帝が返礼品を持ち帰らせる外交体制のことをいいます。
朝貢は、基本的に中国に従属し、庇護(ひご)を受けるために行うものでしたが、君臣関係のない国が朝貢することも可能でした。日本の朝廷は、581年に中国を統一して大国となった隋と国交を結びたいと考え、公式な使者を送ることにしたのです。
遣隋使は、大坂の港「住吉津(すみのえのつ)」を出発し、瀬戸内海と玄界灘(げんかいなだ)を通過した後、朝鮮半島の沿岸を通って隋に上陸したとされています(600年)。
遣唐使との違い
遣隋使と遣唐使は訪問する相手が変わっただけで、日本から中国への公式使節だったことに変わりはありません。隋は建国から40年もたたないうちに、国が乱れて滅んでしまいます。
隋に代わって中国を治めた王朝が「唐」です。中国との外交を続けたかった日本は、唐の皇帝にも使節を送ることにしました。遣唐使は630年に初めて海を渡ってから、唐が滅亡する直前まで260年以上も続けられます。
多くの僧侶や学者、官僚などが唐を訪問し、仏教をはじめとする最新の文化を学んで帰国しました。
遣隋使を送った目的
当時の朝廷が、隋に使節を送った目的は二つありました。
1.隋の皇帝に、日本を対等な国として正式に認めてもらう
2.隋の文化を取り入れて、国づくりに生かす
600年に初めて派遣された使者は、皇帝との問答で日本の文化レベルの低さをさらしてしまいます。このため、第一の目的は達成できませんでした。
しかし最初の遣隋使がもたらした情報をもとに、日本は文明国家への道を歩み始めます。制度や文化を学ぶという第二の目的は、しっかりと果たせたといえるでしょう。
遣隋使を子ども向けに簡単に説明すると?
遣隋使を子どもたちに説明するなら、以下のように伝えてみましょう
「遣隋使(けんずいし)は、日本から中国の隋(ずい)という国に送られた使者たちのことです。昔の日本の天皇や政府は、隋という大きな国と友好関係を築くために、学びたいことや伝えたいことがたくさんありました。そのため、遣隋使を送りました。
彼らは船で長い旅をして、中国に行きました。中国では、新しい技術や文化、法律などを学び、日本に持ち帰りました。このことで、日本の文化や政治が大きく発展しました。遣隋使は日本が他の国と仲良くなるきっかけのひとつとなり、学ぶことの大切さを教えてくれました。」
遣隋使の活動内容
遣隋使の仕事は、国書を携えて隋の皇帝に拝謁(はいえつ)し、返礼品と見聞した成果を持ち帰ることでした。拝謁の様子や帰国後の功績など、書物に残っている活動内容を見ていきましょう。
国書で隋の皇帝を怒らせた?
遣隋使といえば、2度目の使者が皇帝に渡した「国書」のエピソードが有名です。国書には「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」と書かれていました。
これを読んだ隋の皇帝は、とても立腹します。その理由は、以下の通りです。
・皇帝のみに許される「天子」を日本の王が自称した
・「日没する処」が隋の衰退をイメージさせた
非文明的な国とさげすんでいた日本の王が、従属するどころか、皇帝と同じ立場で国書を送ってきたのですから、怒るのも無理はありません。
しかし、当時の隋は、隣国・高句麗(こうくり)への侵略に忙しく、日本に対応する余裕はありませんでした。結局、皇帝は日本と国交を結ぶことを決め、裴世清(はいせいせい)という役人を同行させて使者を帰したのです。
遣隋使の功績
1度目は相手にされず、2度目は皇帝を怒らせてしまった遣隋使ですが、日本の発展には大きく貢献します。第1回遣隋使の失敗の後、朝廷は隋と対等な国づくりを目指すようになりました。
「十七条憲法」や「冠位十二階制(かんいじゅうにかいせい)」といった政策は、遣隋使の持ち帰った情報を参考に、聖徳太子(しょうとくたいし、厩戸皇子)らが考案したと考えられています。
2度目の遣隋使で、ようやく隋と正式な国交を結んだ日本は、その後、数回にわたって使節を派遣します。裴世清を隋へ送り帰すために派遣されたときには、多くの留学生が同行し、隋の技術や文化を学びました。
遣隋使と関わりの深い人物
遣隋使に深く関わった人物として知られているのが、聖徳太子と小野妹子(おののいもこ)です。2人の足跡を簡単に紹介します。
聖徳太子
聖徳太子は、推古(すいこ)天皇を補佐する役職「摂政(せっしょう)」として活躍した人物です。第1回遣隋使から多くの情報を学び、政策に生かしたほか、第2回では皇帝を怒らせた「国書」を持たせるなど、隋との外交において大変重要な役割を果たしました。
ところで聖徳太子は、なぜ、わざわざ皇帝の気に障るような国書を書いたのでしょうか。当時の日本は朝鮮との交流が活発で、聖徳太子も高句麗出身の僧侶から、さまざまな情報を入手していました。
聖徳太子は隋が高句麗との戦いで疲弊しており、日本に手出しできる状況ではないことを知ったうえで、今なら、隋に従属しない対等な関係を築けると考え、わざと強気な文言を書いたともいわれています。
小野妹子
小野妹子は、第2回と第3回の遣隋使代表だった人物です。第2回では、聖徳太子に託された国書が皇帝の怒りを買いますが、無事に返書を受け取り、隋の役人と一緒に帰国しました。
ところが彼は、帰国途中に、大切な皇帝からの返書を紛失してしまいます。責任を問われ、流罪となった妹子は、なぜか、すぐに許されて第3回遣隋使の代表に任命されました。
この件については、返書を読んだ聖徳太子らが、内容を隠蔽(いんぺい)するために紛失したことにしたという説があります。日本と隋の橋渡し、という大役を2度も果たした妹子は、大変有能な外交官だったのかもしれません。
日本へ影響を与えた遣隋使
大陸を制覇した強国、隋との交流を目指して派遣された遣隋使は、期待通りに大きな成果をもたらします。隋の滅亡後も、日本は唐との外交を続けて、どん欲に文化を吸収していきました。
最初の失敗で諦めなかったことや、聖徳太子の優れた外交戦略も、遣隋使成功の要因といえます。はるか昔に、国の命運を託された遣隋使たちの気持ちを、子どもと一緒に考えてみてはいかがでしょうか。
時代背景をもっと学びたい人におすすめの本
遣隋使のころの時代について、もっと知りたい人のために、おすすめの本をご紹介します。
遣隋使を派遣したころの日本の様子が一連の歴史的流れの中で理解できます。
過去の時代へ飛ばされた少年少女=タイムドリフターははたして、名探偵コナンの助けを借りて現代へと戻れるのか。全12巻中の3巻では、この記事で扱った飛鳥時代のストーリーをタイムトラベルしたコナンとともに学べます。
構成・文/HugKum編集部