遣唐使派遣の目的から廃止までを解説|唐への航路や派遣された人物は?【親子で歴史を学ぶ】

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遣唐使(けんとうし)という単語に聞き覚えがあっても、内容があいまいになっている人も少なくありません。いつ子どもから質問されてもよいように、目的・航路・派遣された人物など、遣唐使の始まりから廃止までの出来事を、いま一度確認しておきましょう。

朱雀門公園の復元された遣唐使船(奈良市)

遣唐使とは

日本から遣唐使が送られたのは630~894年の間です。この時代、中国大陸を治めていたのは「唐(とう)」という名の国でした。

読んで字のごとく、遣唐使とは「唐に派遣された使者」のことをいいます。まずは、遣唐使が作られた目的と成果について見ていきましょう。

派遣の目的と日本にもたらしたもの

遣唐使派遣の目的は、「外交関係を深め、唐の制度・文化などを日本の発展に役立てること」でした。

当時の唐は、アジアの国々の中で強国として名をはせており、自国の立場を強くするために、さまざまな国が唐に貢ぎ物をしていたのです。これを「朝貢(ちょうこう)」といいます。朝貢が功を奏したのか、日本は数々の朝貢国の中でも上位国として扱われたといわれています。

最盛期を迎えていた唐は、日本にとって新たな国造りの手本でもありました。「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」や「租庸調(そようちょう)の税制」などを含めて制定された「大宝律令(たいほうりつりょう)」も、唐の制度を取り入れたものなのです。

遣唐使が唐から持ち帰った知識や技術は、その後の日本に大きな影響を与えました。

遣隋使との違い

遣唐使と遣隋使(けんずいし)の違いは、「派遣先が唐であるか、隋であるか」の一点のみです。

隋は唐の前の王朝です。南北朝時代といわれ、439年から589年まで分裂していた中国大陸を、隋が統一しました。隋が建国して間もなく、日本は飛鳥(あすか)時代に入り、600年、厩戸皇子(うまやどのおうじ、後世の尊称が聖徳太子)により最初の遣隋使が送られました。

隋は2代目の皇帝の悪政によってわずか40年弱で滅びてしまい、その後に建国されたのが唐です。遣隋使は計5回送られましたが、王朝が変わったため、それ以降の使者は遣唐使と呼ばれることになりました。

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唐までの道のり

日本と中国大陸の間には、広い海が広がっています。1000年以上昔の人々は、どうやってこの海を渡っていったのでしょうか。また、唐へ渡った有名な人物についても紹介します。

どんな船で海を渡ったか

遣唐使たちを乗せて唐に向かった船を「遣唐使船」といいます。遣唐使船に関する正確な資料は、現代には残されていません。ただ、当時の絵画や船に乗った人数などから、船の大きさは全長30m・全幅8mほどであったと推測されています。

船底は平らで安定性に欠け、転覆することも少なくありませんでした。航海に関する知識や技術も未熟だったはずです。船が唐にたどり着く確率を上げるため、1回に4隻が出港したことから、遣唐使船は「よつのふね」とも呼ばれます。

復元された遣唐使船(奈良市)

時代によって違う航路を利用

大坂湾→瀬戸内海→博多湾までは共通ルートですが、その先の航路は時代によって「北路・南島路・南路」の順に変化しました。原因は、周辺国との関係悪化と渡航技術の発達です。

630~665年は、朝鮮半島沿いを通る北路が使われていました。しかし、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」によって、朝鮮半島南東部にあった新羅(しらぎ)との関係が悪くなり、ルート変更を余儀なくされます。

702~752年は、九州・沖縄方面に迂回(うかい)してから唐へ向かう南島路を使いました。773年以降は南路で直接唐を目指しましたが、東シナ海横断は厳しい航海であったとされています。

遣唐使として派遣された人物

遣唐使として最も有名といえるのが「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)」でしょう。家柄・容姿ともに申し分ないエリートで、唐の優れた制度や文化を学ぶため、19歳のときに遣唐使として唐に渡っています。

阿倍仲麻呂は頭脳明晰(めいせき)で、20代にして難関といわれる唐の官吏登用試験「科挙(かきょ)」に合格してしまったほどです。皇帝に気に入られた阿部仲麻呂は、生涯帰国することはかないませんでした。

位の高い貴族だけではなく、僧侶も遣唐使に選ばれています。804年には「最澄(さいちょう)」「空海(くうかい)」を含む僧侶たちが唐に渡り、仏教の経典(きょうてん)を持ち帰りました。

最澄によって開かれた天台宗の総本山・比叡山延暦寺(滋賀県大津市)

 

空海が開創した真言宗の総本山・高野山金剛峯寺(和歌山県伊都郡)
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遣唐使はどうして廃止されたのか

「白紙(894)に戻そう遣唐使」の語呂合わせでも知られるように、遣唐使は894年に廃止されています。廃止の理由と、実行した人物について確認しましょう。

渡航リスクと唐の衰え

遣唐使廃止の理由は「唐の衰退」にあります。玄宗(げんそう)皇帝の時代から始まった安史(あんし)の乱(755年)を皮切りに、内乱・抗争が続いて律令体制が崩壊し、唐の都・長安(ちょうあん)はだんだんと廃れていきました。

国力の衰えた唐から日本が得られるものは少なく、「もはやリスクを取ってまで渡航するほどの価値はない」と判断されたのです。遣唐使を廃止した十数年後に唐が滅びたことから考えると、賢明な判断だったといえるでしょう。

誰が遣唐使の廃止を提案したか

遣唐使の廃止を提案したのは、学問の神様として知られる「菅原道真(すがわらのみちざね)」です。

菅原道真は、894年に20回目となる遣唐使に選ばれました。遣唐使に選ばれるのはエリートの証(あかし)とはいえ、唐へ向かうには命がけの航海を乗り越えなければいけません。また、帰ってこられるかも定かではありません。

菅原道真は大宰府へ左遷され、現地で没した。写真は太宰府天満宮と、有名な和歌に詠まれた「飛梅」(福岡県太宰府市)

 

先見の明があったのか、命の危険をおかしたくなかったのか、本当のところは不明ですが、道真の進言以降に遣唐使が送られることはありませんでした。

遣唐使をもっと詳しく知りたい方におすすめの本

遣唐使と、その時代背景についてもっと知りたい人におすすめの本をご紹介します。

全面新版 学習漫画 「日本の歴史3 仏教の都 平城京」

唐にならった都・平城京が完成し、日本は律令国家として歩んでいきます。聖武天皇のもと、大陸の知識をさかんに吸収し、はなやかな天平文化が花開く時代を追った学習まんがです。

ドラえもん人物日本の歴史3 「空海」

遣唐使として唐に学んだ空海が、真言宗を開き弘法大師と呼ばれるまでを描いた伝記まんが。遣唐使の時代の日本の空気が生き生きと描かれています。

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命がけで海を渡った遣唐使

遣唐使が唐で学んだ制度・文化は、飛鳥時代から平安時代までの日本に大きな影響を与えました。唐との国交がなければ、日本の発展はもっと遅れていたかもしれません。

しかし、遣唐使の使命は楽なものではありませんでした。外洋を渡るにはあまりにも頼りない船で、遣唐使はまさに決死の覚悟を持って唐に向かったのです。

年中行事や芸術など、日本には中国伝来の文化が数多く残されています。そのうちのいくつかはこの時代に伝わったものだと思うと、遣唐使が少し身近に感じられるのではないでしょうか。

 

構成・文/HugKum編集部

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