前編では発症当時のことを伺いました

目次
手作りの料理は避け、カロリーがわかるものしか食べない
娘は、小6の春にかかりつけの小児科から紹介された病院を受診して拒食症と診断され、通院することになりました。
当時の娘は食べたいものを自分で決めていました。白身魚など、脂肪の少ないものを望み、肉料理は避けていました。

そのうち私の手料理はカロリーがわからないので受け付けず、カロリー表示があるものしか食べなくなっていきました。ファミリーレストランはメニューにカロリーが表示されているのでOKです。私は、娘にどうしても食べてほしかったので、よく一緒にファミレスに行きました。でも次第に、ファミレスのメニューはローカロリーのものが少ないので嫌がるようになりました。
ほかに娘が好んで食べたのはコンビニで売っているベーグルです。1日3食同じベーグルを食べていたこともあります。彼女なりに安心できる食事を選んでいたのかもしれません。
次女には「この地獄いつまで続くの?」と聞かれた
娘には3歳違いの妹がいます。妹は、大好きな姉が日に日に変わっていくことを不安がっていました。そしてそんな姉に母親はつきっきり。次女は一人で不安に向き合っていて、寂しくつらかったと思います。「ママ、いつまでこの地獄が続くの?」と聞かれたこともあります。
夫は、拒食症と診断されたとき「どうしたんだろう…」と言って、戸惑っていました。家族全員、現実をなかなか受け入れられませんでした。
やせ細って体力がもたず早退してきたことも
医師からは「25kg以下になったら入院だからね。入院が嫌だったら頑張って食べないと!」と言われていました。でも体重が減っていくのはあっという間でした。娘はやせ細っているので、春になっても寒くてセーターが手放せず、背中にはいつも使い捨てカイロを貼って登校していました。

体力がもたず「しんどくて帰ってきちゃった」と早退してきたこともあります。そのときは「よく帰ってきたね」と抱きしめました。
小6の6月、体重が23kgになり入院
娘が入院したのは小6の6月、体重が23kgになったときです。家族と離れて1人で入院しなくてはいけないため、娘はとても不安そうでした。病室は薄暗いトイレ付きの個室で、娘が想像していた雰囲気とは違います。治療を拒む娘に主治医は「精神科ではないので、君を縛ることはできない。だけど眠剤で君を眠らせることはできる。その間に身体に栄養を入れてしまうからね」と言ったそうです。(のちに、主治医にも確認しました)
医師の言葉にショックを受けた娘は脱走
娘はショックを受けてパニックになり、見つからないようにして病院を脱走しました。実は通院中から、私も主治医には不信感を抱いていました。「お母さん。拒食症は治りませんよ。治ったとしても、10年20年かかる病気です」「お母さん、どんな子育てをしてきたの?」「拒食症はアルコール中毒と一緒ですよ」--そんなことを言われたこともあります。「転院すればいいのに」と思う方もいるかもしれませんが、子どもの拒食症を治療できる医療機関は少なく、情報も少ないのです。
それでも娘を守りたい一心で、入院から3日で私は転院先のあてもないのに自主退院させました。そのとき医師からは「連れて帰ってもいいけど、きっとまたここへ戻ってきますよ。ほかに診てくれるところなんてないんだから。必ず、ここに戻ってきますよ」と言われました。
もちろんこのような医師ばかりではありません。素晴らしい医師もたくさんいますが、たまたま私たちの主治医はそういう方でした。
大学病院の児童精神科へ 信頼できる医師との出会い
自主退院してから数日後、私はどうしていいのかわからず、その病院のソーシャルワーカーに相談して、大学病院の児童精神科を紹介してもらいました。信頼できるいい先生がいると言われました。

紹介された大学病院の児童精神科では、医師から「お嬢さんは、前の病院でずいぶんとつらい思いをされましたね。お嬢さんが私や病院との間に信頼を感じてもらえるまでは、栄養的治療や入院の話などはしません。ただ、定期的に体重計測と血液検査は行います。そして本当にこれはマズイな…と判断したときには、小児科にも診てもらおうと思います」と言われました。
症状はさらに進行。体力がなくて、小6の2学期から登校できない
夏休み前までは登校していたのですが、体力がなくて小学校までの片道5分の道のりも歩けなくなっていきました。「小学校で階段を上り下りするのがつらい」とも言っていました。それでも娘は「学校に行きたい」という気持ちが強かったので、担任の先生と相談して、午前中だけ授業を受けたり、午後から登校したりしていました。
でも小6の2学期になり、体力がなくて学校に行けなくなりました。
その頃娘は、さらに症状が進行してゼロカロリーのゼリーを好んで食べるようになっていました。朝食は、いつしかゼロカロリーのゼリーのみ。昼食は、ゼロカロリーのゼリーとコンビニのベーグルといった食生活でした。
「入院」と言われパニックになり、自宅の3階から飛び降りようとする
娘は以前の病院での経験が強く心に残っていて、「入院」に対して、強い拒否感を示すようになりました。
けれど体重が限界に達し、ついに大学病院でも「入院」を提案されました。娘は、「ママ、お願い死なせて! 私なんて生きていてもしょうがないんだよ! どうせ、入院なんてしたって治りっこないんだよ! ママ、死なせてよ!」と言って、当時住んでいた社宅の3階のベランダから何度も飛び降りようとしました。

その頃の娘の体重は18kgまで落ちていました。飛び降りようとする娘を必死に抱きしめて止めると、体が折れそうなぐらい細いんです。
母の言葉が娘の心に届いてから快方へ
繰り返し飛び降りようとする娘との、極限のやり取りの中で私自身の中で何かが変わった瞬間がありました。私はやっとそのとき初めて気づいたのです。「つらいのは、この子なんだ!」と。
私は娘をぎゅっと抱きしめて「そんなにつらいんだね。死にたくなるくらい、どうしようもなくなるくらいつらいんだね」と言いました。すると娘は大きな声で泣きじゃくって、飛び降りるのをやめました。
私は娘に「つらかったね。ずっと、ずっと、つらかったね。わかってあげられなくてごめんね」と謝りました。そして、娘に「愛している」という言葉を伝えました。「ただ娘の存在が本当に大切で、愛している」そう伝え続けました。それは、苦しみの末に親子でたどり着いた命と命が触れ合う瞬間のようでした。この出来事があってから、娘は快方に向かいました。
拒食症の経験から、娘との関わり方を見つめ直した
娘は今25歳になり、社会人です。拒食症は再発していません。
娘は、拒食症を乗り越えた経験から柔軟さを身に付けたように感じます。あの経験があったからこそ、試練に対しても自分を磨くチャンスだと前向きに考えられるようになりました。そして、ストレスに敏感なことやこだわりが強いことなど自分の個性を受け入れ、上手に付き合っています。

私は娘の拒食症の体験から、娘との関わり方を見つめ直しました。私は、これまで一生懸命愛情を注ぎながら子どもたちを育ててきたつもりです。娘が大好きなパンを焼いたり、ケーキを作ったりもよくしていました。転勤族で引っ越しが多いので、娘のためによく友達を家に招くこともしていました。
でも振り返ると、それは娘のためではなく私のためだったように思います。理想の母親像を追い求めていたのかもしれません。
「拒食症で苦しむ子を救ってあげて」 娘の言葉をきっかけにカウンセラーとして活動
私は公認心理師になり、拒食症克服サポート専門カウンセラーとして活動しています。
拒食症克服サポート専門カウンセラーになったのは、娘から「拒食症で苦しむ子を救ってあげてほしい。子どもと一緒に苦しんでいるママを助けてあげてほしい。ママが笑顔になれたら、子どももきっと元気になれると思うから」と言われたことがひとつのきっかけでした。
大切なのは「子ども一緒に歩むこと」
私は医師ではないので、拒食症を治すことはできません。けれど、かつての私と同じように悩むお母さんたちが、自分にできることを見つけられるようお手伝いをしています。 医師から治らないと言われたとき、 私は絶望しました。 でも、 だからこそ母親としてできることを模索し、 関わり方を変えていき、少しずつ娘の心にも変化が生まれました。
極限状態の中、 不器用な私が精いっぱいの愛を伝えられた瞬間、 奇跡のように娘は拒食症から解放されました。この一言に至るまで、 私は何度も試行錯誤を重ねました。
大切なのは正解を探すことではなく、 子どもと共に歩み続けること。その積み重ねの先に、ふと気づけば、乗り越えた自分たちがいるのだと思います。
子どもの拒食症は低年齢化していて、SNSがきっかけになることも
子どもの拒食症は早いと小学校低学年からサインが見られます。SNSで「あの子みたいに細くなりたい」という憧れから始まるケースもあります。
発症したときは、どうしようもなく、不安で怖くて必死で、たくさん迷うと思います。私たち親子もそうでした。
けれど、「絶対に治る」と信じ、命と向き合い、克服することができました。わが子を拒食症から救うには原因の究明よりも、自分を大切にするとはどういうことなのか、親として子どものこころ、いのちへの寄り添いや向き合いをしっかり考えることこそが重要なのだと私は思います。
前編はこちらから

お話を伺ったのは

公認心理師。2人の子どもの母。自身の経験を活かし、拒食症克服サポート専門カウンセラーとして活動する。のべ1,000名を超える相談を担当。
渡辺貴子トレーナーへの相談は>>こちらから
取材・構成/麻生珠恵