ミケランジェロはどんな人? 代表的な作品やエピソードを紹介【親子で偉人に学ぶ】

ミケランジェロは、歴史的にも大変有名な芸術家の1人です。政治や宗教にかかわる重要な依頼を次々にこなし、後世の芸術家にも影響を与える名作を多く残しました。ミケランジェロの代表作や生涯を通して、中世西洋史への理解を深めていきましょう。

ミケランジェロとは

ミケランジェロの名前を知っていても、どのような人物だったのかを詳しく覚えている人は少ないかもしれません。まずはミケランジェロの人物像を、簡単に解説します。

ルネサンスを代表する芸術家

ミケランジェロは、中世のイタリアで活動した芸術家です。本名は「ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ」です。

彫刻・絵画・建築・詩など、さまざまなジャンルで才能を発揮し、その万能ぶりが高く評価されました。当時全盛期を迎えていた「ルネサンス」を代表する芸術家として、歴史の授業にもよく登場します。

同じ時代に生きた著名な芸術家には、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、ボッティチェリなどがいます。

ルネサンスについて

ルネサンスが花開いたフィレンツェの町並み

 

「ルネサンス」とは、中世のヨーロッパに広がった、文化・芸術・思想の動きです。14世紀にイタリアで始まり、16世紀まで続きました。

ルネサンスはフランス語で、「再生」や「復活」の意味を持つ言葉です。当時のヨーロッパで主流だった、宗教を中心とする思想から離れ、古代ギリシャや古代ローマ時代の文化を尊重したことに由来します。

古代の文化を手がかりに、芸術・建築・文学など各ジャンルで、人間らしさを自由に表現した新しいスタイルの作品が多く生まれました。

ライバルはレオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミケランジェロにとって、25歳も年上の先輩芸術家です。そのダ・ヴィンチが、若いミケランジェロの才能を認めていたと思われるエピソードが残っています。

彫刻が得意なミケランジェロに、ダ・ヴィンチが「彫刻はただの肉体労働」と、嫌味を言ったのです。既に名声を得ていた人物が、思わず嫌味を口にしてしまうほどの才能が、ミケランジェロにはあったのでしょう。

ミケランジェロの代表作「ダビデ像」の設置場所をめぐり、2人が激しく口論したこともありました。発注者の依頼で像の設置場所を決める委員会のメンバーとなったダ・ヴィンチは、像を保護する観点から、屋根の下に置くべきと提案します。

しかし、ミケランジェロは真っ向から反論し、多くの人の目に触れる広場に置くことを主張します。最終的には作者の意見が通り、ダビデ像は広場に設置されました。

フィレンツェ・ヴェッキオ宮殿

 

また同じ頃、2人はフィレンツェのヴェッキオ宮殿大広間の壁画制作を依頼されます。一方の壁をダ・ヴィンチが、もう一方の壁をミケランジェロが担当することになったのです。

諸事情により壁画は完成しませんでしたが、もし完成していれば美術史に残る傑作となったはずです。

ミケランジェロの生涯

ミケランジェロはどのようにして、歴史に名を残す芸術家となったのでしょうか。出生から晩年までの生涯を見ていきましょう。

メディチ家の援助を得て彫刻を学ぶ

ミケランジェロ広場から観たフィレンツェの街並み

 

ミケランジェロは1475年3月6日に、フィレンツェの近くの小さな村で生まれました。生まれてすぐに、父親が大理石採石場を経営することになり、フィレンツェに移住します。

母親が闘病中だったため、幼いミケランジェロは採石場で働く石工の家に預けられました。このとき金槌やノミに触れたことが、彼が彫刻に親しむきっかけとなります。

学問に無関心だったミケランジェロは、親の反対を押し切り、13歳で人気芸術家に弟子入りします。ミケランジェロの才能を認めた師匠は、彼をフィレンツェの権力者であるメディチ家に紹介しました。

当時のメディチ家の主、ロレンツォは大変気前のよい人物で、芸術家への支援を惜しまなかったといわれています。ロレンツォの援助を受けたミケランジェロは、メディチ家が経営するアカデミーに入り、本格的に芸術を学びました。

ローマを始め各地で名作を残す

1492年、ロレンツォが病気で亡くなると、メディチ家は政争に敗れてフィレンツェを追われてしまいます。ミケランジェロもフィレンツェを離れ、実家やメディチ家の分家を頼って各地を放浪する生活を余儀なくされました。

この間ミケランジェロは、修道院から遺体を提供してもらい、解剖学を学びながら創作活動を続けています。

やがて作品が後のローマ教皇となる人物の目に留まると、ミケランジェロはローマに招かれ、教皇庁から「ピエタ」の制作を依頼されます。

ピエタとは、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアを描いた、彫刻や絵画の総称です。解剖で培った知識を存分に発揮したミケランジェロのピエタは、大変な評判となりました。

その後はフィレンツェやローマを行き来しながら、彫刻だけでなく絵画の仕事も受けるようになります。

晩年には建築の依頼も

サン・ロレンツォ聖堂の回廊

 

ミケランジェロは41歳のときに、ローマ教皇レオ10世の依頼でフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂の装飾を手がけています。

70代のときにはカトリックの総本山、サン・ピエトロ大聖堂の修築事業に参加しました。70代といえば、当時の感覚では大変な高齢者ですが、ミケランジェロの創作意欲は衰えていなかったそうです。

彫刻家・画家・建築家としてマルチな才能を発揮した天才芸術家ミケランジェロは、1564年、ローマにて88年の長い生涯を終えました。

彫刻家ミケランジェロの作品

ミケランジェロが最も得意としたジャンルは、彫刻です。彼の原点となった、彫刻の代表作を紹介します。

美術史上屈指の傑作「ダビデ像」

本来の位置に置かれたレプリカのダビデ像

 

「ダビデ像」は、ミケランジェロが26歳の頃にフィレンツェで制作した作品です。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と並ぶ、美術史上屈指の傑作といわれています。

ダビデは旧約聖書に登場する英雄で、たった1人で敵国の巨人「ゴリアテ」を倒したとされる人物です。巨人を組み伏せるダビデの雄姿を描いた彫刻や絵画は、以前から多く作られていました。

ミケランジェロのダビデ像は、こうした伝統にとらわれず、巨人に戦いを挑む直前の姿を表現しているのが大きな特徴です。

武器を持つ両腕に力をみなぎらせ、決然と相手を見据えるダビデからは、今にも動き出しそうな気迫を感じます。

デビュー作「サン・ピエトロのピエタ」

「サン・ピエトロのピエタ」は、メディチ家の衰退で各地を放浪中のミケランジェロが、ローマで制作したデビュー作です。現在、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に展示されているため、このように呼ばれています。

ピエタが公開されたとき、人々は無名の彫刻家が手がけたとは夢にも思わず、他の作家の作品と勘違いする人もいました。

その様子に腹を立てたミケランジェロは、夜中にこっそりと展示場所に忍び込み、マリアの帯に名前と出身地を刻みます。ミケランジェロが自分の作品に署名したのは、後にも先にもこのときだけといわれています。

未完の遺作「ロンダニーニのピエタ」

「ロンダニーニのピエタ」は、ミケランジェロが亡くなる直前までノミをふるった遺作です。後に「ロンダニーニ侯爵」が購入したことが、名前の由来となっています。

「ロンダニーニのピエタ」と「サン・ピエトロのピエタ」とは、構図や雰囲気が大きく異なります。衝撃のデビューから60年以上の年月を経て、ミケランジェロという人物も変わっていったのでしょう。

ミケランジェロは、生涯で四つのピエタを制作しています。ただし完成したのは「サン・ピエトロのピエタ」のみです。

死を間近にしたミケランジェロが、どのようなピエタを創ろうとしていたのかは、誰も知りません。

参考:Amazing TRIP|ミケランジェロの代表作品を徹底解説 – 彫刻・絵画・建築

画家ミケランジェロの作品

ミケランジェロの芸術的才能は、絵画にもいかんなく発揮されました。画家・ミケランジェロの代表作を見ていきましょう。

バチカン市国の町並み

苦労の末に完成した「天地創造」

「天地創造」は、バチカン市国の「システィーナ礼拝堂」に描かれた天井画です。ローマ教皇ユリウス2世が、ミケランジェロに命じて描かせました。

彫刻家を自負していたミケランジェロは、一度依頼を断わりますが、教皇の権力には逆らえず、渋々引き受けたそうです。

とはいえ、高さ20mのアーチ形の天井に直接絵を描く作業は、苦労の連続でした。上を向いて作業するため、首や腰には相当な負担がかかり、流れ落ちる塗料のおかげで、目も痛みます。

完成からしばらくの間、首が上を向いたままだったと伝わるほどの、過酷な作業でした。

芸術家としての意地をかけ、4年の歳月を経て完成させた天井画は、現在も礼拝堂を訪れる観光客の目を楽しませています。

参考:MUTERIUM  Magazine|ミケランジェロの大作、システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」を解説

エピソードの多い「最後の審判」

「最後の審判」は、ミケランジェロが58歳のときに手がけた作品です。「天地創造」と同じ、システィーナ礼拝堂の祭壇奥の壁に描かれました。

<The Last Judgment, by Michelangelo>From Wikimedia Commons, the free media repository

 

芸術作品として高い評価を受ける一方で、宗教画としての評価が分かれる作品としても有名です。特に登場人物がほぼ全裸であることが、批判の対象となりました。完成間近の絵を見て、とても礼拝堂には飾れないと非難した関係者もいたほどです。

このときミケランジェロは、非難した人物に似た顔を持つ地獄の番人を描き、ひそかに意趣返しをしています。

裸体への非難は絵の完成後も続き、見かねたローマ教皇はミケランジェロの元弟子に命じて、腰布を描かせています。しかし、この行為は純粋に芸術を楽しみたい民衆の反感を買い、元弟子は「さるまた屋」のあだ名を付けられてしまいました。

建築家ミケランジェロの作品

ミケランジェロは、世界的に有名な建物の設計にも携わっています。建築家・ミケランジェロの代表作を見ていきましょう。

現在もローマの中心「カンピドリオ広場」

カンピドリオの丘。階段の上の建物はローマ市庁舎

 

「カンピドリオ広場」はローマのシンボルとして、教皇パウルス3世が造らせた広場です。ローマ市内で最も高い「カンピドリオの丘」の頂上にあります。

ミケランジェロは丘の上に元々あった二つの宮殿に、もう一つ新しい宮殿を加え、広場を囲むようにデザインしました。

建物のない方角には広場への入り口があり、サン・ピエトロ大聖堂を始め、ローマ市内を見渡せるようになっています。

宮殿は現在、ローマ市庁舎や博物館として使われており、広場には多くのローマ市民が行き交っています。

無償で引き受けた「サン・ピエトロ大聖堂」の設計

サンピエトロ大聖堂

 

「サン・ピエトロ大聖堂」は、1506年の着工以来、長い年月をかけて完成した建物です。資金不足や責任者の死去などにより、工事は遅々として進みませんでした。

1546年、72歳になっていたミケランジェロは、ついに大聖堂建設の責任者に着任します。

多くの芸術家が携わる大プロジェクトを任されたことを、光栄に思ったミケランジェロは、無償で仕事を引き受けています。

ミケランジェロが主に設計したのは、聖堂の中央に建つ「クーポラ」と呼ばれるドームの部分です。晩年のミケランジェロが情熱を注いだクーポラは、現在も堂々と天に向かってそびえ、教皇の威厳を伝えています。

ルネサンスを牽引した天才芸術家、ミケランジェロ

ミケランジェロは10代の頃から才能を見出され、経済的にも恵まれた環境で育ちます。苦労を知らず、若くして有名になったミケランジェロに対し、嫉妬を感じた芸術家も多かったでしょう。

しかしデビューから60年以上、第一線で活躍できた背景には、ミケランジェロ本人のたゆまぬ努力がありました。天賦の才に溺れずに、真摯に芸術と向き合ったミケランジェロの生き方を、未来を担う子どもにも正しく伝えてあげましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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