柴田勝家は、どのような人物?
「柴田勝家(しばたかついえ)」の人生は、織田信長(おだのぶなが)と深い関係があります。どのような関係があったのか、生い立ちや活躍も含めて紹介します。まずは、勝家がどのような人物だったのか、見ていきましょう。
戦国時代、安土桃山時代の武将
柴田勝家は、戦国時代、安土桃山時代に活躍した武将の一人です。誕生したのは、1522(大永2)年とも1530(享禄3)年ともいわれており、明確ではありません。尾張(おわり)国愛知郡(現在の愛知県名古屋市)で生まれ、父親は柴田勝義(かつよし)といわれています。
織田信長の父である織田信秀(のぶひで)に才能を見出され、居城に招かれ、文武の道を教わりました。信秀の死後は、信長の弟である信行(のぶゆき)の家老となり、信行を後継者にするために信長打倒を企てました。これが「稲生(いのう)の戦い」(1556)です。
結果は、信行側の敗北に終わり、本来であれば処刑される身だった信行ですが、実母の懇願によって命拾いしました。勝家も信長に謝罪し、忠誠を誓うことで許しを得られたのです。
織田信長の重臣として活躍
はじめは信行を支持していた勝家ですが、後に信長の重臣として活躍しました。きっかけは、信行が後継者争いに敗北したにもかかわらず、再び信長打倒を企てたことです。
その動きを察知した勝家が、信長に密告し、激怒した信長は信行の暗殺を命じました(1557)。それから信長に信頼される重臣となっていったのです。
1560(永禄3)年の「桶狭間(おけはざま)の戦い」や1565(永禄8)年の「犬山城(いぬやまじょう)攻略」では、大きな手柄をたてました。その勇敢な戦いぶりから「鬼柴田」や、先陣を切って突進していく姿勢から「かかれ柴田」と呼ばれていました。
1575(天正3)年には、信長の命令を受け「越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)」を鎮め、その功績として越前国(現在の福井県北部)に49万石を与えられたのです。
柴田勝家の妻や子孫
勝家の人生を語るうえで欠かせないのが、結婚相手です。妻も信長と深い関係にある人物でした。勝家の妻は、誰だったのでしょうか? また、子孫についても紹介します。
妻は、信長の妹「お市の方」
勝家は1582(天正10)年に、信長の妹「お市(いち)の方」と結婚しました。お市の方は、もともと浅井長政(あざいながまさ)と政略結婚していましたが、長政が戦(いくさ)で敗れ自害したため、3人の娘と織田家で暮らしていました。
かねてから好意を抱いていたお市の方との結婚は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の仲介だったといわれています。
結婚時、勝家は52~60歳、お市の方は35歳前後で、かなりの年の差がある結婚でした。二人の間に子どもはいませんでした。
子孫は途絶えたが、家名は受け継がれている
勝家には二人の実子がいたといわれていますが、どちらも早くに亡くなっており、勝家の血脈が受け継がれた子孫は途絶えています。しかし、勝家とお市の方は、複数の養子を迎え入れており、その一人である勝政の息子・勝重(かつしげ)が家名を継いだのです。
勝家が命を落とすことになる、豊臣秀吉との「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」(1583)が起きたときには、勝重はまだ幼かったため、お市の方の祖父のもとに逃がされ生き延びました。その後、旗本として江戸幕府に仕え活躍したことで、家名を残すことができたのです。
柴田勝家の最期は?
勝家の最期もまた、信長と関係があります。織田家に仕える重臣同士の対立が、悲しい結果を招くことになりました。どのような最期だったのかを紹介します。
豊臣秀吉との確執
同じ織田家に仕える重臣である秀吉と勝家の間には、何かしら確執がありました。
1582(天正10)年の「本能寺(ほんのうじ)の変」で、明智光秀(あけちみつひで)の裏切りによって信長は命を落としましたが、勝家は遠征中だったため、その知らせが届いたのは数日後でした。
軍を撤退させ、光秀を討つために動き出した頃には、すでに秀吉率いる軍が向かっており、敵(かたき)を討つという手柄を取られてしまったのです。
その後、信長の後継者を決める会議「清須(きよす)会議」(1582)が開かれましたが、勝家は信長の三男である信孝(のぶたか)、秀吉は信長の嫡孫(ちゃくそん)である三法師(さんぼうし)を推薦し対立します。
最終的には光秀を討った秀吉の意見が優先され、三法師が選ばれました。勝家は後継者争いにも敗れてしまったのです。
戦に敗れ、自害
三法師が後継者となって、織田家で秀吉が大きな発言権を持つようになったことに不満を抱えていた信孝らは、勝家を巻き込み、秀吉と対立するようになります。そして、1583(天正11)年には、ついに戦に発展します。これが「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれる戦で、勝家側の敗北に終わりました。
勝家は居城である北の庄(きたのしょう)城に逃れましたが、城の防備にあたった兵はわずか3,000人で、死を覚悟した勝家は自害を決意します。妻のお市の方と3人の娘に、城を出るように促しましたが、お市の方は拒否し、一緒に自害する道を選びました。
ちなみに3人の娘は、秀吉に身柄の保護を依頼する書状を送り、救出されています。
柴田勝家ゆかりのスポットと家紋
勝家ゆかりのスポットを紹介します。近くを訪れる機会があったら、足を運んでみましょう。特徴的な家紋についても紹介します。
福井県の「北の庄城」と「柴田神社」
福井市にある「北の庄城址・柴田公園」は、発掘調査によって、勝家が築城した「北の庄城」の天守があったとされる場所だとわかりました。
記録によると、北の庄城は1575(天正3)年に築城が開始され、信長の安土(あづち)城天守の七層をしのぐ、九層の天守を持つ城だったとされています。
敷地内には、勝家・お市の方・三姉妹の銅像があり、見どころの一つです。
また「柴田神社」は、勝家・お市の方・三姉妹が祀られています。夫婦・兄妹・家族の絆を御神徳とする「絆の宮」として親しまれています。
家紋は「丸に二つ雁金」
柴田家の家紋(かもん)は、丸と2羽の雁(かり、がん)を組み合わせた「丸に二つ雁金」と呼ばれるデザインです。雁は特徴的な鳴き声で、よい知らせを運んでくる、縁起のよい鳥として親しまれてきました。
また、群れをなして飛ぶ習性から、一族の結束や絆を強めるという意味も込め、家紋に用いられたともいわれています。勝家ゆかりの地では、2羽の雁が空を飛んでいる姿を見ると、勝家とお市の方が戻ってきたと偲(しの)ぶ人もいるようです。
信長の天下統一に貢献した武将
柴田勝家は、古くから織田家に仕え、信長の天下統一に多大な貢献をした有名な武将の一人です。一方で、織田家の権力抗争に巻き込まれ、妻とともに自害するという悲しい最期を迎えた人物でもあります。
血脈を受け継いだ子孫は途絶えてしまったものの、家名は受け継がれています。北の庄城や柴田神社など、ゆかりのスポットもあるので、訪れてみるのもよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部