数々の名言を残した孔子とは?
「孔子(こうし)」は、「子曰(しいわ)く」のフレーズで有名な「論語(ろんご)」に登場する人物です。どのような人だったのか、簡単に見ていきましょう。
四聖の一人である中国の思想家
孔子は、古代中国に生まれた思想家・哲学者です。人を愛することを基本とする「仁(じん)」と、外見的な秩序を意味する「礼(れい)」を重視した教えを説き、後に「儒学(じゅがく)」「儒教」の始祖と呼ばれました。
彼の名言をまとめた「論語」は、中国だけではなく、日本や韓国にも大きな影響を与えています。
現在では、英語をはじめとするさまざまな言語に翻訳されており、孔子は「世界的な思想家」といってもよいでしょう。「ソクラテス」「キリスト」「釈迦(しゃか)」に並ぶ四聖(しせい)の一人としても知られています。
孔子の生涯
「論語」については、聞いたことがあっても、孔子の生涯までは知らない、という人は多いのではないでしょうか。孔子がどのような人生を歩んだのか、簡単に紹介します。
春秋時代末期に魯で誕生
孔子は、古代中国の春秋(しゅんじゅう)戦国時代の末期に、現在の山東省・魯(ろ)で生まれました(紀元前551年頃)。父親は武将、母親は巫女(みこ)でしたが、孔子が3歳のときに父親は他界してしまいます。大黒柱を失った孔子一家は、以後、貧しい暮らしを余儀なくされました。
孔子が17歳を迎える頃、母親もこの世を去ります。天涯孤独の身となってしまった孔子ですが、勉学に勤しむことはやめませんでした。
成人後に政界へ
孔子は成人すると、魯の役人として、貨物倉庫を管理する職を得ます。その後は、牧場を管理する仕事を任され、着実にキャリアを積み重ねていきました。孔子は優れた才能で頭角を現し、魯の国で順調に出世の道を歩んだといわれます。
しかし44歳になると、役人としての職を辞してしまいます。再び幅広い知識を学ぶとともに、多くの弟子の教育・育成に力を注いだのです。
50歳を過ぎてからは、再び魯の官僚として仕えました。このときもまた卓越した才能を発揮し、出世を重ねていきます。
13年にわたり諸国を遊説
最終的に孔子は、大司寇(だいしこう)という役職に就きました。これは刑罰や警察を司る、高位の役職です。孔子は政治に改革をもたらそうと尽力しましたが、結局はうまくいきませんでした。
孔子はせっかく就いた高位の役職を辞し、魯を後にします。弟子たちとともに衛(えい)・曹(そう)・鄭(てい)・蔡(さい)などのさまざまな国をまわり、遊説(ゆうぜい)を行いました。
孔子が再び魯に戻ったのは、69歳になってからといわれています。魯を出奔(しゅっぽん)してから、実に13年もの月日が経(た)っていました。
74歳で生涯を終える
魯に戻った孔子は、政治に関わることはなく、弟子の育成に力を注ぎました。弟子の数は生涯を通して3,000人にも上るといわれ、多くの優秀な才能を世に送り出しています。
しかしながら孔子の晩年は、幸せとはいい難いものでした。長男に先立たれたり、かわいがっていた弟子を失ったりと、悲しいことも多かったようです。
孔子は失意のなか、74年間の生涯を終えました(紀元前479年)。死因は老衰とされ、山東省曲阜(きょくふ)市の城北にある泗水(しすい)のほとりに葬られたそうです。
孔子の思想や名言
儒教は、人間が「本来あるべき姿」を説いた教えです。その教えの基本のうち、道徳を「五常(ごじょう)」・基本となる人間関係を「五倫(ごりん)」といいます。
儒教の教えや、論語で語られている孔子の名言を見ていきましょう。
儒教の教え「五常」と「五倫」
五常は、人が常に守るべきとされる道徳です。「仁・義・礼・智・信」からなるとされ、孔子が最も重視したのは「仁」「礼」でした。
仁とは、他人への思いやり・愛情を指します。礼は、仁を態度に表わしたものです。人として理想的な心の持ち方が仁、仁を適切な形で態度に表わしたものが礼と考えればわかりやすいでしょう。
五倫は、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の関係を指します。それぞれに「親・義・別・序・信」が必要とされ、秩序ある社会をつくるための理想の関係が述べられています。
これら考え方は、儒教を取り入れた国々の社会秩序・体制維持に非常に有益なものとなりました。
人生の節目を説いた言葉
孔子の言葉をまとめた「論語」には、孔子が自身の人生を振り返って語った言葉があります。
子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩
(子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にしてしたがい、七十にして心の欲する所にしたがえども、のりをこえず)
簡単に訳すと「15歳で学問を志し、30歳で独立し、40歳で迷うことがなくなった。50歳になって自分の天命を理解し、60歳で人の言葉を素直に聞けるようになり、70歳でやりたいようにやっても人の道を踏み外すようなことはなくなった」という意味です。
孔子はこの言葉で、人生を堅実に歩み続けることが、人間の確かな成長につながっていくことを述べています。
この名言にちなみ、日本では15歳を「志学」、30歳を「而立(じりつ)」、40歳を「不惑(ふわく)」、50歳を「知命(ちめい)」、60歳を「耳順(じじゅん)」、70歳を「従心(じゅうしん)」と表現することがあります。
仕事などにも通ずる名言
「部下が思い通りに動いてくれない」「どのように指示したらよいか分からない」などと悩んでいる人には、以下の言葉がおすすめです。
先行其言、而後従之
(先ずその言を行い、しかる後にこれに従う)
簡単にいうと「あれこれと言う前にまず実行すること。言うべきことがあれば、実行の後にすべき」のような意味となります。どれほど立派な言葉を並べても、実行が伴わない人は信用されません。
上に立つ人自らが手本を示すことで、下の人も自然に動いてくれるようになるでしょう。
「論語」が由来の熟語
日常で使われる四字熟語には、漢文由来のものがたくさんあります。論語から生まれたものも多く、聞いたことのある四字熟語も多いはずです。
例えば「温故知新(おんこちしん)」は、論語で孔子が述べた言葉から派生しました。
子曰、温故而知新、可以為師矣
(子曰く、ふるきをたずねて新しきを知れば、もって師とたるべし)
孔子は、「古い知識を大切にした上で新しい知識を得るべきである。そうすれば、師と呼ぶにふさわしい人物になれる」と述べています。そのことから、温故知新は「古い知識から新しい知見を得ること」を表わす四字熟語になりました。
孔子が日本に与えた影響
孔子の教えは中国を離れ、日本や韓国にも伝わっています。孔子が日本に与えた影響とは、どのようなものだったのでしょうか?
日本人が手にした最初の書物「論語」
論語は3世紀頃に、朝鮮半島より日本にもたらされました。日本人が初めて手にした書物だといわれており、かの聖徳太子(しょうとくたいし)は「十七条憲法」の第1条に、論語に由来する一文を入れています。
論語の普及が進んだのは、江戸時代に入ってからです。徳川幕府は朱子学(しゅしがく、儒教)を推奨し、藩校や寺子屋(てらこや)では、論語が教本として使われました。
明治時代になると、論語をベースとした道徳の教科書「教育勅語(きょういくちょくご)」が作成されます。ただし、これは後に軍事政権に利用されたため、第2次世界大戦後は使用禁止となりました。
論語で示されている倫理観は、現代の日本人にも影響を与えています。例えば、世界で賞賛される日本人の親切さや礼儀正しさには、論語の道徳観が少なからず反映されているといえるでしょう。
現在も注目される孔子の言葉
古代中国で活躍した孔子は、儒教の始祖として広く信奉されています。彼の言葉をまとめた論語は東アジアに広まり、人々の道徳観や倫理観に大きな影響を与えました。
論語には、人のあるべき姿や礼節の重要性が述べられています。社会の動きが目まぐるしく変わる現代、論語に示された普遍の価値観に触れることが心の安定をもたらすかもしれません。
論語をやさしく解説した書籍も多数出ているので、興味のある人は手に取ってみてはいかがでしょうか。
わかりやすい「論語」の本
ドラえもん はじめての論語
ドラえもん はじめての論語 君子編
何となく難しそうと思われがちな論語を、親しみやすい「ドラえもん版」で解説した初心者のための論語ガイドブック。「仁」「学び」「志」などのジャンルで構成し、論語を通して道徳学習ができます。本文すべてにふりがな付きで、小学一年生からでも覚えやすい、論語の言葉40を網羅した漫画付き・オールカラーの論語入門書です。
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構成・文/HugKum編集部