「朱子学」とは?
朱子学は、中国で誕生した学問の一つです。作り上げた人物や時代など、主な特徴を見ていきましょう。
朱熹が構築した学問
朱子学は、南宋(なんそう)の儒学者、「朱熹(しゅき)」が構築した学問です。
朱子学という呼び方も、朱熹から来ています。ただし中国では、朱熹が先駆者としていた北宋(ほくそう)の「程頤(ていい)」と合わせ、「程朱学(ていしゅがく)」と呼んでいます。
儒学とは、孔子(こうし)が広めた宗教「儒教」のことで、「四書五経(ししょごきょう)」を経典として定めていました。
朱熹は、それまで別々に存在していた儒教の経典を体系的にまとめ、独自の解釈や新しい概念を加えて再構築したのです。
基本の考え方
朱子学の基本の考え方は、「理気二元論(りきにげんろん)」です。
「理」は、万物がこの世に存在する根拠のことで、「気」は万物を構成する物質です。それぞれ別のものですが、単独では存在し得ず、互いに作用し合う関係にあるとしています。
理気二元論を人間に当てはめると、「性即理(せいそくり)」になります。
「性」とは人間の本質で静かな状態、すなわち「理」です。性が動くと「情(気)」となり、情のバランスが崩れると「欲(悪)」になるとしています。
このため、人は常に情をコントロールして、性に戻さなければなりません。
また、朱熹は理気二元論から、すべての物事には、上下関係があると導き出しました。上下関係は当然、人間社会にも存在します。
自分よりも身分が上の人や父親の言うことは絶対、とする「君臣父子(くんしんふし)の別」を重んじているのが、朱子学の特徴です。
朱子学の欠点
朱子学は、後に、国家の公認学問として「科挙(かきょ、官僚登用試験)」に採用されたことから、広く学ばれるようになります。
しかし、科挙に合格すれば、将来が安泰ということもあり、受験のために朱子学を学ぶ風潮が根付きます。さらに受験にはお金がかかるため、一部の恵まれた人しか挑戦できませんでした。
このため、朱子学は、経済力と成績によって人生が決まる、学歴社会・官僚社会を生み出す一因となったといわれています。
また、朱子学が重んじた「君臣父子の別」は、上に立つ者にとって、都合のよい考え方でした。
中国では、さまざまな思想や学説が許されており、社会の発展に貢献してきましたが、朱子学が広まったことで、他の学問が排斥(はいせき)され、思想統制の時代に変わっていったのです。
日本や朝鮮でも、朱子学を人民の支配に利用しはじめました。特に、朝鮮では朱子学以外の学問を一切認めず、朱子学者による身分階層が作られたほどです。
朱子学と日本の関係
朱子学は、いつごろ日本に伝わり、どのような影響をもたらしたのでしょうか。朱子学と日本との関係を見ていきましょう。
日本に伝わったのは、いつ?
朱子学は、鎌倉時代前期に宋に渡った禅僧「俊芿(しゅんじょう)」が伝えたといわれています。鎌倉時代後半には、広く学ばれるようになり、鎌倉幕府倒幕に動いた後醍醐(ごだいご)天皇にも影響を与えました。
室町時代にも、禅僧による朱子学の研究は続けられ、さまざまな学派が生まれます。
江戸幕府を開いた徳川家康は、幕藩体制の基本理念として、朱子学を採用しました。朱子学者「林羅山(はやしらざん)」を登用し、家臣や大名に広く学ばせたのです。
どのような影響を与えた?
徳川家康以降、歴代の将軍や老中(ろうじゅう)たちも、社会秩序を維持するために、朱子学を奨励します。例えば、5代将軍・徳川綱吉は、朱子学を学ぶ場として「湯島聖堂(ゆしませいどう)」を建設しました。
また、11代将軍・徳川家斉(いえなり)の時代には、松平定信(さだのぶ)が、他の学問を規制する「寛政異学(かんせいいがく)の禁」(1790)を出しています。
しかし、上下関係を重んじる朱子学の思想は、幕末に「尊王攘夷(そんのうじょうい)論」に発展し、幕府が倒されるきっかけになってしまいました。
明治維新を迎え、西洋の文化が入ってくると、朱子学は過去のものとなります。
一方で、日本人の行動や考え方には、未だに、朱子学を含めた儒教の思想が根付いているようです。自己主張せず、周りに合わせたり、上司や親、先生など、上の立場にいる人が高圧的な態度を取ったりするのも、儒教の影響が強く残っているためという説もあります。
「陽明学」との違い
朱子学を学ぶ際に、よく登場するのが「陽明学」です。朱子学と陽明学は、どちらも儒教がベースの学問ですが、考え方は大きく異なります。両者の違いを簡単に解説しましょう。
王陽明が構築した学問
陽明学は、明(みん)の儒学者「王陽明(おうようめい)」がおこした学問です。
権威や秩序を重んじる朱子学と異なり、陽明学では、「心のままに、自分の責任で行動すること」を説いています。
当時の朱子学は、支配階級に都合よく解釈され、本来の理想とは、かけ離れた姿になっていました。すっかり形骸化した朱子学を憂い、真っ向から否定したのが陽明学です。
朱子学では、知識を学ぶことが大前提とされ、学ぶ機会を得られない下級層の人々は、いつまでたっても偉くなれませんでした。ところが、陽明学では、学ぶことはすべてではなく、行動することが大切と説きます。
また、目上の人にただ従うのではなく、間違っていると思ったら従わなくてもよいとしました。このため陽明学は、身分制度に縛られて思うようにならなかった人々に受け入れられ、人気を集めることになります。
陽明学に影響を受けた人物
陽明学は日本において、江戸幕府の統治体制に疑問を感じていた人々に、大きな影響を与えます。
寛政期には、陽明学を学んだ元大坂奉行東組与力・大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が、幕府の役人でありながら、幕府の不正を暴くために乱を起こしました(1837)。
幕末には、吉田松陰(しょういん)が「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を開いて陽明学を広めます。門下生の多くが倒幕運動に参加し、明治維新へとつながっていきました。
同時代に活躍した西郷隆盛(たかもり)や岩崎弥太郎(やたろう)、渋沢栄一(しぶさわえいいち)なども陽明学の影響を受けていたのです。
朱子学の考え方を理解しよう
朱子学は、上下関係を重んじたことで、思想統制の道具として利用されます。支配体制を揺るがしかねない他の学問や思想は排除され、人々は生まれついた身分に縛られて生きることを余儀なくされました。
しかし朱子学は、本来、儒学者が儒教の教えにオリジナリティーを加味してまとめた壮大な学問です。一部分だけが都合よく解釈されて利用され、悪者にされがちな朱子学ですが、正しい意味を理解して歴史の学習に役立てましょう。
朱子学の背景についてもっと知りたい方に
小学館版 少年少女学習まんが 日本の歴史14「幕府の改革―江戸時代中期」
火事の多かった江戸の町に町火消しを置き、庶民の意見を聞くために目安箱を設置した八代将軍、徳川吉宗をはじめ、干拓などの事業に着手した田沼意次、天明の大飢饉ののち財政の立て直しを図った老中・松平定信など、江戸中期におけるさまざまな改革を描きます。また、日本古来の学問「国学」や、外国の学問「蘭学」など、この時代に成熟した学問の世界もしっかり描かれます。
小学館 コミック版 逆説の日本史「幕末維新編 日本の開国と近代化を遅らせた『朱子学』の毒!」
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構成・文/HugKum編集部