江戸時代中期に活躍した「新井白石(あらいはくせき)」は、徳川6~7代将軍を支えた人物です。政治家としての活躍以外にも詩人や学者と、多彩な顔を持つことで知られる白石の人物像や政策について学びましょう。白石について学べるおすすめの本も紹介します。
新井白石とは
そもそも、新井白石とはどのような人物なのでしょうか。あまり知られていない幼少期や浪人時代の白石の人物像に迫りましょう。
いつどこで生まれたの?
江戸時代前期の1657年(明暦3)2月10日に、白石は生まれました。出生地は江戸です。
白石が誕生する約1カ月前、江戸で「明暦の大火」が発生しました。白石は避難所で産声(うぶごえ)をあげています。明暦の大火は、のちに「江戸3大大火」の一つに数えられるほどの大規模火災で、10万人以上が焼死したと伝えられています。
上総(かずさ)国・久留里(くるり)藩の家臣の家に生まれた白石には、怒ると「火」の字に似たシワが眉間(みけん)にできたといわれています。このことや大火にまつわる出生エピソードから、藩主・土屋利直(としなお)は白石を「火の子」と呼んでかわいがりました。
幼少期から浪人時代
幼少期から白石は聡明だったと伝えられています。幼稚園児ほどの年齢で、大人とともに軍記物語「太平記(たいへいき)」の講義を受けたり、漢詩を空読みできたりしたとされます。また、13歳になると、利直に手紙の代筆を任されるようになります。
白石の転機の一つとなるのが、中江藤樹(なかえとうじゅ)の「翁問答(おきなもんどう)」との出会いです。これを機に、17歳の白石は、儒学を志しました。しかし、1675年の利直の死に端を発した土屋家のお家騒動に、新井父子は巻き込まれてしまいます。
藩主の利直の死から数年後、白石と父・正済(まさなり)は土屋家を追われ、父子で浪人(主家を失った武士)となります。貧しいなかでも、儒学や史学といった学問に白石は励みました。
浪人時代後の出来事や逸話
久留里藩・土屋家を新井父子が追われて5年も経(た)つと風向きが変わり、白石の冬の時代が終わります。浪人時代後の白石にまつわる出来事や逸話を知ることで、白石への理解を深めましょう。
大老堀田氏に仕える
新井父子に転機が訪れたきっかけは、1679年(延宝7)の土屋家の改易(かいえき。大名から領地・屋敷などを没収し、身分を剝奪する刑罰)です。これによって、新井父子の「奉公構(ほうこうかまい)」という奉公を禁ずる刑が解かれました。
土屋家の改易から約3年後、大老・堀田正俊(まさとし)に26歳の白石は仕えます。大老は臨時職であるものの、江戸幕府で最高位の職名です。しかし、1684年に江戸城内で堀田が刺殺されると、今度は自ら堀田家を去りました。
堀田家をあとにした白石は再び浪人となり、儒学の一派・朱子学を独学する道を選びました。
木下順庵の門下生に
一人で朱子学を学んでいた白石は、1686年(貞享3)、朱子学者・木下順庵(じゅんあん)の門下生になりました。持ち前の聡明さから、本来、入門に必要な入学金について、白石は免除されたといわれています。
1693年(元禄6)、順庵の推薦によって、甲府藩主・徳川綱豊(つなとよ)の儒臣に白石が抜擢(ばってき)されました。綱豊はのちに家宣(いえのぶ)と改名し、江戸幕府6代将軍となる人物です。将軍の座に家宣が就くと、将軍の補佐として十数年にわたって幕政を動かしました。
晩年の白石は、精力的に執筆活動を行いました。西洋事情を記した書や白石自身の回想録など、ジャンルは多岐にわたります。多数の著作を通じて、白石の聡明さは現代にも伝えられています。
順庵からの就職を友人に譲る
白石の師匠である順庵は、白石の聡明さを高く評価していました。かつて5代加賀藩主・前田綱紀(つなのり)に仕え、学問の振興を図った順庵は、1692年に加賀国への就職を白石に斡旋(あっせん)したことがあります。
しかし、順庵からの就職を白石は友人に譲ってしまいました。加賀への仕官を白石が譲った相手は、白石と同門の岡島忠四郎でした。「年老いた母が加賀にいるから、加賀への仕官を譲ってほしい」と岡島に懇願されたからです。
順庵の推挙で綱豊の儒臣に白石が抜擢されるのは、この翌年の話です。
正徳の治とはどんな政策?
江戸幕府6代将軍・徳川家宣とその息子で7代将軍・家継(いえつぐ)の時代に将軍補佐を担った新井白石の政治は、「正徳の治(しょうとくのち)」といわれています。正徳の治は儒教思想を取り入れた「文治政治」と呼ばれる政治で、武力制圧による江戸時代初期の政治とは対照的でした。
白石による正徳の治について、有名な政策を例に学びましょう。
生類憐みの令の廃止
「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」は、5代将軍・綱吉(つなよし)による動物愛護を目的とした法令の総称です。ただ「生類憐みの令」という法令は存在しません。1685年(貞享2)の「将軍御成(おなり)のとき、犬や猫を繫(つな)がなくてもよい」との令が、生類憐みの令の始まりとされています。
法令の内容は次第にエスカレートし、批判の多い発令には「犬屋敷」があります。幕府による犬の保護施設で、次第に規模が大きくなり約30万坪(江戸近郊の囲町、現在の東京都中野区)にも及んだとされます。それだけの犬を養うために財政が逼迫(ひっぱく)し、さらに批判は高まりました。
「生類憐みの令は死後も遵守(じゅんしゅ)せよ」との遺言を残し、1709年(宝永6)に綱吉は亡くなります。しかし、家宣のもとですぐに白石はこの令を廃止にしました。
貨幣改鋳
「貨幣の改鋳(かいちゅう)」も、白石の功績の一つといえるでしょう。
徳川家康による1601年(慶長6)の貨幣制度によって、江戸時代の貨幣は全国で統一されていました。このとき制定された慶長貨幣は、90年以上にわたって国内で流通しました。
元禄年間に幕府が財政難に陥ると、品位(金銀の割合)低下を伴う改鋳を行います。品位低下で生じる出目(でめ。差益金)が目的です。
15年後の宝永年間にも、出目を目当てに再び幕府は改鋳します。この改鋳は、宝永貨幣の流通した約4年間で8割以上も米価が上昇するインフレを招きました。
正徳年間に入ると、白石の建議によって幕府は正徳貨幣を鋳造します。重量・品位ともに慶長小判と同じ水準に戻し、インフレを緩和させました。
海舶互市新例
江戸時代になると、中国・オランダとの貿易によって、大量の金銀が国外に流出していました。貿易制限自体は1685年から存在していたものの、さらなる貿易縮小策として白石が実施したのが「海舶互市新例(かいはくごししんれい)」(1715年)です。
具体的には、年間の来航船数や商額、銅の輸出量などを、貿易する両国に対して別個に定めました。さらに密貿易を防ぐため、中国船には通商許可証にあたる「信牌(しんぱい)」を発行しています。
1715年(正徳5)に施行された海舶互市新例は、江戸時代後期の文政年間まで長崎貿易の基本方針として採用されました。
新井白石について学べるおすすめの本
18世紀初期の江戸幕府を支えた人物として知られる新井白石については、彼自身の著書を含め、さまざまな書籍が発行されています。自分に合った1冊を見つけ、さらに深く白石について学びましょう。
子どもにも分かりやすい「マンガ 日本の歴史〈33〉満ちる社会と新井白石」石ノ森 章太郎
「マンガ 日本の歴史〈33〉満ちる社会と新井白石」では、白石について漫画で学べます。漫画を描いているのは、「仮面ライダー」や「サイボーグ009」で知られる漫画家・石ノ森章太郎氏です。
白石の半生や幕府の政治だけでなく、江戸時代の町並みや人々の暮らしを一緒に学べるのは、漫画ならではといえるでしょう。文庫本サイズで持ち運びしやすいため、通勤・通学時の読書にもおすすめです。
大人が学べる「奇会新井白石とシドティ」垣花 秀武
「奇会新井白石とシドティ」は、イタリア人宣教師・シドティと白石の関係について記された本です。シドティは、「シドッチ」や「シドッティ」と表記されることもあります。
1708年(宝永5)、鎖国下の屋久島(やくしま)にシドティは上陸しました。しかしすぐにシドティは捕らえられ、翌年には江戸の切支丹(きりしたん)屋敷に幽閉されてしまいます。ここでシドティを尋問したのが白石で、そのときに聞いたことを元に、白石は「西洋紀聞(せいようきぶん)」「采覧異言(さいらんいげん)」を執筆しました。
400ページ以上で読みごたえがあるため、基礎的な情報を押さえたうえで、さらに白石について知りたい人におすすめです。
努力の人、新井白石について学ぼう
二度にわたって浪人となったり、就職を友人に譲ったりするなど、若い頃の新井白石は苦労人でした。歴史の表舞台に登場するのは白石が50歳を過ぎてからで、遅咲きといえるでしょう。
浪人の時期も腐らずに学問に励んだ白石の姿勢が木下順庵の目に留まり、のちの出世に繫がったといえます。こうした努力や勤勉の大切さは、現代も変わりません。親から子どもに教えたり一緒に学んだりして、努力の人・白石の人物像や政策への理解を深めましょう。
構成・文/HugKum編集部