杉田玄白(すぎたげんぱく)は、日本の医学を大きく発展させた人物として知られています。その生い立ちや、解体新書(かいたいしんしょ)を出版するまでの道のり、そして晩年に書かれた蘭学事始(らんがくことはじめ)についてまとめました。東洋医学に西洋医学が結びついた画期的な出来事について、知識を深めましょう。
杉田玄白ってどんな人?
偉業を成し遂げるまでの杉田玄白は、どのような少年期・青年期を過ごしたのでしょうか。まずは、幼少期から医師として成熟するまでの道のりを紹介します。
小浜藩の医者の子として誕生
杉田玄白は、1733年に小浜(おばま)藩の医師であった杉田甫仙(ほせん)の三男として生まれました。幼少期を出生地である江戸の牛込(うしごめ)で過ごした後、1740年、8歳のときに小浜へ移り住み、13歳までの5年間を過ごします。
参勤交代により父が再び江戸詰めを命じられ、玄白は医学を学びはじめました。それも、家業からすれば自然の成り行きだったのでしょう。
17歳になると、将軍のかかりつけでもある幕府の奥医師・西玄哲(げんてつ)から「蘭方外科(西洋医学)」を、儒者・宮瀬竜門(りゅうもん)からは「漢字」を学んだといわれています。
江戸の日本橋で町医者になる
1753年、21歳で玄白は医師となって、小浜藩の上屋敷に勤めるようになりました。1758年、25歳になると、小浜藩医としての籍は残したまま、日本橋で「町医者」として開業します。
なお、玄白が22歳のとき、山脇東洋(やまわきとうよう)という人物が日本で初めて腑分け(人体解剖)を行いました。当時の医学界を騒がせたこの出来事は、玄白に大きな影響を与えたようです。
その後、1769年、37歳で藩主に従って小浜に戻った年、父・甫仙が亡くなりました。玄白は、父の後を継いで藩主の主治医である「小浜藩侍医(じい)」となりました。
解体新書ができるまでの流れ
続いて、杉田玄白に衝撃を与えた西洋の解剖書との出合いを紹介します。玄白が、翻訳を決意するにいたった出来事について見ていきましょう。
オランダ語の医学書を見て感動する
玄白が解体新書を作ろうと思い立ったのは、1771年、39歳のときです。当時、日本橋は「江戸の出島(でじま)」と呼ばれ、長崎からやってくるオランダ商人たちが、「長崎屋」を定宿にして数多く出入りしていました。
その長崎屋で、玄白は「ターヘル・アナトミア」という西洋の解剖書を見て、大きな衝撃を受けます。そこに描かれていたのは、それまで玄白が信じていた東洋医学の「五臓六腑図(ごぞうろっぷず)」とまったく異なる人体だったのです。
前野良沢らと一緒に日本語に翻訳
同年、ターヘル・アナトミアの解剖図の正確さを確かめたくなった玄白は、人体解剖に立ち会いました。そのとき一緒にいたのが、解体新書をともに翻訳した前野良沢(りょうたく)・中川淳庵(じゅんあん)です。
ターヘル・アナトミアに描かれている内臓図が正確であることを知った玄白は、「翻訳して日本の医学に役立てたい」という思いに駆られます。
良沢・淳庵と3人で、翌日からさっそく翻訳作業を始めました。難解なオランダ語で書かれた解剖書の翻訳には3年かかり、1774年、ついに全5巻からなる「解体新書」ができあがったのです。
なぜ解体新書に前野良沢の名前がないの?
今でこそ、前野良沢は杉田玄白とともに解体新書を翻訳した人物として知られていますが、当時、脚光を浴びたのは杉田玄白だけでした。なぜ訳者として良沢の名前を載せなかったのか、玄白と良沢の方向性の相違について解説します。
翻訳内容に満足できなかった
前野良沢は、「蘭学の化け物」といわれるほど研究熱心な人物でした。一方、玄白はオランダ語は未熟ながら、医学を発展させたいという思いが強かったのです。
難解な医学用語が頻出(ひんしゅつ)するターヘル・アナトミアを日本語に翻訳する作業は、決して楽なものではありませんでした。解体新書は、医術の知識をもってしても訳せない部分は飛ばされていますし、ところどころ誤訳も見つかっています。
玄白は西洋の知識をいち早く広めることを優先しましたが、完璧主義者であった良沢は「不完全な翻訳本を出版することはできない」と考えました。こうした考え方の違いから、解体新書は玄白を訳者として出版されたのです。
生涯、オランダ語の研究に励む
良沢がオランダ語を学びはじめたのは、40代も後半になってからです。「学ぶのに年齢は関係ない、一所懸命に学ぶだけ」という考え方の持ち主であり、この学びへの真摯(しんし)な姿勢は彼の弟子によって書き残されています。
晩年には、オランダの言語と文化において右に出る者はいないほどの知識を蓄えました。しかし、名声に興味のなかった良沢が翻訳本を出版することはありませんでした。
医師というより研究者の側面が強かった良沢にとって、解体新書の翻訳も研究の一つに過ぎなかったのです。
晩年の杉田玄白は回顧録を出版
1815年、玄白は「蘭学事始」という手記を、弟子の大槻玄沢(おおつきげんたく)に送りました。最後に、この蘭学事始がどのような内容であったのかを紹介します。
翻訳の苦労話を書いた蘭学事始
蘭学事始は、解体新書を作ったときに起きた出来事や、当時の玄白がどう考えたのか、といったことを著わした「回顧録」です。
ターヘル・アナトミアを初めて目にしたときの驚き、分からない言語を調査の末に翻訳できたときの喜び、前野良沢がどのような人物であったか、なども記されています。
玄白が亡くなってから52年後の1869年、「学問のすゝめ」で知られる福沢諭吉により、蘭学事始は世に広められました。
杉田玄白をもっと知りたい人におすすめの本
杉田玄白や「解体新書」誕生の逸話についてもっと知りたい方に、おすすめの本をご紹介します。
新装版 「解体新書」(講談社学術文庫)
訳:杉田 玄白 その他:酒井 シヅ|定価 : 本体920円(税別)
「蘭学事始」(講談社学術文庫)
著:杉田 玄白 その他:片桐 一男|定価 : 本体1,000円(税別)
知の開拓者 杉田玄白『蘭学事始』とその時代
著:片桐一男|定価:2,400円(税別)
医学の進歩に大きく貢献
江戸時代は東洋医学が一般的で、「人体の仕組み」という知識を持たずに、患者の様子から病気を診断して治療していました。そこに西洋医学を持ち込んだのが、杉田玄白らによる解体新書です。
東洋医学と西洋医学が融合したことで、日本の医学界は大きく進展しました。完全な翻訳ではなかったことを差し引いても、日本の歴史における指折りの偉業であったことは間違いないでしょう。
構成・文/HugKum編集部