謎だらけの浮世絵師「写楽」とは?
「写楽(しゃらく)」とは、江戸時代の中期に活躍した浮世絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)のことです。有名プロデューサーの元で華々しくデビューしたものの、わずか10カ月で姿を消しました。
写楽とは、どのような人物だったのでしょうか?
役者の大首絵で一世を風靡
写楽が浮世絵界に現れたのは、1794(寛政6)年です。28枚の「大首絵(おおくびえ)」を一挙に出版し、一躍有名になりました。
大首絵とは、人気の芸者や歌舞伎役者などの半身像を描いた浮世絵版画の一つです。現代でいうブロマイドのような役目があり、「人気の芸者や役者をじっくりと見たい」という庶民の要望を満たしていたと考えられます。
写楽が主に描いたのは、役者の大首絵です。美醜を問わず、その個性を大胆に表現しました。
プロデューサー・版元は「蔦重」
写楽のプロデューサーとなったのは、版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)です。版元とは現代でいう出版社で、無名の浮世絵師や作家をプロデュースする役割も担っていました。
蔦重は企画力やプロデュース力に長けた「江戸の出版王」であり、浮世絵師・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の才能を開花させたことでも知られます。
蔦重が写楽と手を組んだのは、寛政の改革によって娯楽への規制が厳しさを増した頃でした。幕府から財産の半分を没収された蔦重は、再起をかけて写楽を売り出したと考えられます。
なお、2025年放送予定のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」は、この蔦重が主人公です。
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わずか10カ月で姿を消す
写楽は、デビューからわずか10カ月で姿を消します。140点以上の作品を描き上げ、忽然と消息を絶ってしまったのです。
写楽の活動期間は、4期に分かれます。最盛期はデビュー当時の第1期で、時がたつごとに作品から精彩が失われていきました。
写楽が姿を消した理由は不明ですが、江戸時代の書物によると「人物の特徴をリアルに表現した作風が人々の不評を買ったため」と結論付られているようです。役者のファンたちは、リアルさよりも、美化された絵を求めていたのでしょう。
写楽の作品の特徴
写楽の作品が最も評価されたのは第1期です。これまでにない作風と大胆な技法で、江戸の人々を驚かせました。写楽の作品には、どのような特徴があるのか見ていきましょう。
役者の個性を大胆に表現
写楽がデビューしたのは、江戸で大首絵が流行していた時期です。大首絵は現代でいう芸者や役者のブロマイドだったため、人物の特徴を捉えつつも美化して描くことが前提でした。
しかし写楽は、美よりも醜を強調し、役者の個性を大胆に誇張して描いたのです。「真実らしく描こうとして、あってはならないように描いた」という大田南畝(おおたなんぽ)の記述が残っているように、当時の人々は写楽の大首絵に度肝を抜かれたと想像できます。
インパクトのある小さな手
大首絵は人物の首から上を主体にしたものですが、写楽のほとんどの作品には上半身までが描かれています。さらに、インパクトのある小さな手によって、役者の性格や役柄、芝居の状況などが生き生きと表現されているのが特徴です。
「市川男女蔵の奴一平(いちかわおめぞうのやっこいっぺい)」には、赤いじゅばんを着た奴一平が、緊張に満ちた表情で刀を握りしめる様子が描かれています。
「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木(にだいめせがわとみさぶろうのおおぎしくらんどのつまやどりぎ)」では、女性役のしなやかな手が印象的です。
雲母摺りの技法
デビューを飾った大首絵には、「雲母摺り(きらずり)」が用いられました。雲母摺りは雲母(うんも)の粉末を背景に使い、きらきらとした光沢感を出す技法です。蔦重を版元とした喜多川歌麿も、雲母摺りを用いたことで知られます。
色の違いによって白雲母摺(しろきらずり)・黒雲母摺(くろきらずり)・紅雲母摺(べにきらずり)があり、写楽は墨一色の「黒雲母摺」を採用しました。薄暗い背景には、役者を浮かび上がらせる効果があります。
写楽の正体にまつわる謎
迫力のある役者絵で一世を風靡した写楽ですが、その生涯は謎だらけです。わずか10カ月で姿を消したことから、正体にまつわるさまざまな憶測があります。代表的なものを紹介しましょう。
著名な浮世絵師や蔦重が手掛けた?
一つ目は、著名な浮世絵師や蔦重が描いたという説です。江戸時代の中期から後期は、多くの浮世絵師が生まれた「浮世絵の黄金期」でした。
第一線で活躍していた葛飾北斎(かつしかほくさい)や喜多川歌麿、歌川豊国(うたがわとよくに)が写楽を装ったのではないかと考える人もいます。さらには、蔦重が手掛けた説や工房で制作された説も飛び出しました。
しかし2000年代に入ってから、蔦重の死後に描かれたと思われる写楽の肉筆画が発見されたため、「蔦重説」はほぼ否定されています。
能役者・斎藤十郎兵衛が正体?
最も真実に近いといわれているのが、能役者・斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)説です。
1844(天保15)年に出された「増補浮世絵類考(ぞうほうきよえるいこう)」の「写楽」の項目には、「俗名は斎藤十郎兵衛、八丁堀に住む阿波徳島藩主・蜂須賀家お抱えの能役者である」との記述があります。
さらに以下のような解釈が加わり、斎藤十郎兵衛説が最有力となっています。
- ●写楽の活動時期と一致している
- ●大名が抱える能役者は半年~1年で非番となる(非番の時期に制作をした)
- ●役者以外には描けない「役者の真の姿」が描かれている
写楽の代表作をピックアップ
写楽のデビュー作である大首絵から、代表作をピックアップして紹介します。題材となった物語のあらすじを知っていると、作品をより楽しめるでしょう。紹介する2点の作品は「重要文化財」に指定されています。
三代目大谷鬼次の江戸兵衛
三代目大谷鬼次の江戸兵衛(さんだいめおおたにおにじのえどべえ)は、「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」と呼ばれる物語の一幕です。
奴一平を襲って公金を奪おうとする悪役・江戸兵衛が題材で、相手をにらみ上げる鋭い目や一文字口、つり上がった眉毛がリアルに描かれています。「市川男女蔵の奴一平」と対の構図になっているため、並べて鑑賞するとよいでしょう。
顔に対して手が極端に小さく、不自然さを指摘する声もありますが、今にも動き出しそうな小さな両手のおかげで、臨場感や殺気が生まれています。
市川鰕蔵の竹村定之進
恋女房染分手綱に登場する竹村定之進(たけむらさだのしん)を描いた作品です。不義の娘の身代わりとなって切腹する役どころで、歌舞伎俳優の市川鰕蔵(いちかわえびぞう)が演じました。
市川鰕蔵という名前は、第五代目・市川団十郎の改名です。歌舞伎界きっての名優であり、役者としての最高位である「極上上大吉無類(ごくじょうじょうだいきちむるい)」に上り詰めました。
逆ハの字形の眉や大きなわし鼻、ゆがんだ口元から見てとれるように、写楽の作品には忖度がありません。堂々とした表情や体格からは、トップ役者の風格も感じられます。
役者の本質を描き出した写楽
写楽の活動期間はわずか10カ月でしたが、役者の個性をデフォルメした大首絵は、多くの人の記憶に刻まれました。役者のひいきからは不評を買ったものの、当時の浮世絵界に新たな風を吹き込んだといえるでしょう。
幕府の禁制が激しさを増す中で、写楽をプロデュースした蔦重の反骨精神もうかがえます。写楽の作品の一部は、東京国立博物館が所蔵しています。公式サイトで画像を検索できるほか、不定期に展示会が行われることがあるため、情報を小まめにチェックしてみましょう。
参考:東京国立博物館 – Tokyo National Museum
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構成・文/HugKum編集部