予想以上に長く続いているコロナ禍、生活に困窮し、悲鳴を上げている人たちが増えているのに、その声はなかなか届かない気がします。今回はそんな弱者の声を聞き、その慟哭を映画にした渾身の1作『茜色に焼かれる』をご紹介します。実力派女優の尾野真千子主演映画で、先週公開され、さまざまな映画のレビューサイトで1位を獲得しました。
尾野さん演じる田中良子は、ある高齢者が起こした交通事故で、夫(オダギリジョー)を亡くし、シングルマザーとなりました。ひとり息子の純平は中学生となりましたが、事故後、夫への賠償金は一切受け取っていません。花屋のバイトと夜の仕事を掛け持ちする良子は、苦しい家計なのに、施設に入院している義父の面倒を見ているし、ある人に養育費も払い続けています。
これだけ聞けば、良子は信じられないくらいのお人好しか、もしくは浮世離れした“賢者”です。最初はそんなヒロインに首を傾げてしまいますが、やがて良子が賠償金を受け取らなかった理由を知り、人間としての真っ当さと、理不尽な世の中で歯をくいしばって生きる母の強さにうなります。
人間としての誇りを失わない良子の生き方とは?
冒頭で描かれるのは、自転車に乗っていた夫が、いきなり車に轢かれてしまうという無残な交通事故のシーンです。運転手は認知症で、ブレーキとアクセルを踏み間違えたそうで、まさに現実に起こった事故を彷彿させます。
事故を起こした老人は逮捕されることなく、7年後に92歳で天寿を全うし、豪華な葬式が行われました。良子はその葬式に訪れますが、なぜ来たのか?なぜ、賠償金を受け取らなかったのかと、その親族になじられます。
ちなみに事あるごとに、良子の財布からの出費額がテロップで出されますが、この時の香典は10,000円でした。これは家賃が27,000円の市営団地に住む良子にとって、いかに大きな出費なのかは想像がつきますね。
でも、良子は賠償金を拒否しました。なぜなら、本人や親族から謝罪が一切なかったからです。大切な夫の命が、理不尽な事故によりあっけなく絶たれたのに……。事故のあと、良子たち親子の人生は一変しました。きっと良子は、虫けらのように殺された夫の命の代償を、お金に変えることができなかったのでしょう。そこには人間としての誇りも感じさせます。
良子はある意味頑固すぎるところがありますが、その心根は非常に美しくて気高いです。そしてなによりも息子への愛は海のように深い。思春期でなおかつ友達にいじめられている息子も、母の行動に戸惑いつつも、母から人生における誠実さを受け継いでいきます。そう、この親子は人間として非常に正しい生き方をしています。
良子の人生はその後も踏んだり蹴ったりの状態となりますが、そこで母を想う息子の行動と成長にも泣けます。茜色の空のなか、息子を自転車に乗せて2人乗りをするシーンには、ママたちもきっと熱いものを受け取ってもらえると思います。
石井裕也監督は、コロナ禍でなぜ母の愛を題材にした映画を撮ったのか?
尾野さんはいまや日本映画界において屈指の実力を誇る演技派女優ですが、本作は間違いなく彼女の代表作の1本となるはずです。舞台挨拶では、コロナ禍での撮影を振り返り、「みんなが命がけでやりました」と大粒の涙を流して訴えていた姿にも胸が熱くなりました。
本作のメガホンをとったのは、第37回日本アカデミー賞で最優秀作品賞などに輝いた『舟を編む』(13)の石井裕也監督です。『町田くんの世界』(19)などのコメディから、『生きちゃった』(20)などのパンチのきいた映画まで、常に社会にはびこる問題点を敏感に察知し、弱者の目線から、人間のもがきとある種の希望を活写してきました。
今回においては、リアルな母の心情や心の叫びを見事に描ききっていますので、ママたちに観ていただければ、非常にシンパシーを感じてもらえると思います。
最後に、心からリスペクトする、石井監督の言葉を抜粋させていただきます。
「今、僕がどうしても見たいのは母親についての物語です。人が存在することの最大にして直接の根拠である「母」が、とてつもなくギラギラ輝いている姿を見たいと思いました。我が子への溢れんばかりの愛を抱えて、圧倒的に力強く笑う母の姿。それは今ここに自分が存在していることを肯定し、勇気づけてくれるのではないかと思いました。
多くの人が虚しさと苦しさを抱えている今、きれいごとの愛は何の癒しにもならないと思います。この映画の主人公も、僕たちと同じように傷ついています。そして、理不尽なまでにあらゆるものを奪われていきます。大切な人を失い、お金はもちろん、果ては尊厳までもが奪われていきます。それでもこの主人公が 最後の最後まで絶対に手放さないものを描きたいと思いました。それはきっと、この時代の希望と呼べるものだと思います」
監督・脚本・編集:石井裕也
出演:尾野真千子、和田 庵、片山友希/オダギリジョー、永瀬正敏…ほか
文/山崎伸子
©2021『茜色に焼かれる』フィルムパートナーズ