執権政治の基礎をつくった北条義時とは? 人物像やエピソードも紹介

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2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも話題の北条義時。鎌倉幕府の成立に大きく貢献したにもかかわらず、生涯の多くが謎に包まれている人物です。主家を乗っ取ったり、天皇に歯向かったりした逆賊として描かれることも珍しくありません。そんな義時の人物像を、エピソードを交えながら紹介します。

北条義時とは

源頼朝(よりとも)や北条政子(まさこ)に比べると、「北条義時(ほうじょうよしとき)」の名を目にする機会は少ないかもしれません。しかし、初期の鎌倉幕府において、義時が欠かせない人物であったことは事実です。

北条義時とは何者なのか、基本的な情報をおさらいしましょう。

鎌倉幕府の2代目執権

北条義時は、鎌倉幕府の2代目執権(しっけん)として権力を手にした人物です。「執権」とは、鎌倉幕府で使われていた職名で、将軍を補佐して政治の実務を行う役職のことです。

最初は、政務を司る「政所(まんどころ)」の長官を指していましたが、後に軍事を担う「侍所(さむらいどころ)」の長官も兼ねるようになりました。

初代執権は、義時の父・北条時政(ときまさ)です。時政は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝(さねとも)の代に政所の長官に就任し、有力な御家人(ごけにん)を排除して、政治の実権をにぎります。

以降、執権職は北条氏の世襲制となり、1333(元弘3)年に幕府が滅びるまで続きました。

北条義時の生涯

北条義時は、本来なら、歴史に名前が残る可能性はほとんどなかった人物です。しかし、源頼朝との出会いが、義時の運命を大きく変えました。

出生から晩年まで、北条義時の生涯を見ていきましょう。

北条時政の次男として伊豆で生まれる

北条義時は1163(長寛元)年に、現在の伊豆の国市(いずのくにし)で生まれました。父親の北条時政は、小規模な豪族で、伊豆の地方役人を務めていたとされる人物です。

母親は、現在の伊東(いとう)市付近で勢力を持っていた豪族・伊東祐親(すけちか)の娘と伝わっています。

義時の姉は、後に源頼朝の妻となった北条政子です。政子は1157(保元2)年生まれなので、義時とは6歳離れていました。

なお、義時には宗時(むねとき)という名の兄がいましたが、源頼朝が挙兵した際の「石橋山(いしばしやま)の戦い」で討ち死にしています。

源頼朝の側近として活躍

北条義時が生まれる少し前、都では「平治(へいじ)の乱」が起こり、敗れた源義朝(よしとも)の息子・頼朝が伊豆に流されてきました。数年後、北条時政が源頼朝の監視役となったことがきっかけで、政子と頼朝は出会って結婚に至ります。

1180(治承4)年、源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵すると、18歳だった北条義時も父や兄とともに出陣します。義時の働きぶりは頼朝の目に留まり、翌年には「家子(いえのこ)」と呼ばれる側近の1人に選ばれました。

家子には、頼朝の寝所を警護する役目があるため、よほどの信頼を得ていたことがわかります。その証拠に、義時は、頼朝から「家子の専一(せんいつ、最も優れた家子)」といわれたそうです。

1185(元暦2)年には源頼朝の弟・範頼(のりより)が指揮する平家追討軍に加わり、先陣を切る活躍を見せます。1190(建久元)年に源頼朝が上洛したときにも、付き従う7名の1人に選ばれました。

2代将軍の下で力をつける

1199(建久10)年に源頼朝が急死すると、息子の頼家が2代将軍に就任します。頼家は独裁的で、妻の実家・比企(ひき)氏を重用したため、有力な御家人たちが話し合いで政務を行う「13人の合議制」がとられました。

北条義時も、父・時政とともに合議に加わり、力をつけていきます。頼家が病気で倒れたときには、合議制を利用して将軍家の権力を削ぎ、反発した頼家を比企氏もろとも葬ってしまいました。

北条義時館跡(静岡県伊豆の国市)。義時が創建した菩提寺・北條寺の近くにある現江間公園に屋敷があったという。狩野川(かのがわ)の対岸・守山には、父・時政邸があった。伊豆の国市の四日町、寺家、中條地区は「北条の里」と呼ばれている。

 

頼家の弟の実朝が3代将軍となり、時政が執権に就任すると、義時は父とともに他の有力御家人を次々に滅ぼし、勢力を拡大させます。

父を追放し、2代目執権となる

執権として強大な権力を手にした父・北条時政は、次第に横暴になり、御家人たちの信頼を失っていきます。しまいには後妻にそそのかされ、3代将軍・実朝を暗殺して娘婿(むすめむこ)・平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に据えようと企てました。

噂を聞きつけた北条義時は、源実朝を保護して暗殺を阻止します。さらに、義時は時政を出家(しゅっけ)させ、伊豆へ追放してしまいました。

父に代わって執権の座に就いた北条義時は、侍所の長官・和田義盛(わだよしもり)を滅ぼして幕府の政務を独占します。

事実上、幕府のトップに君臨した義時ですが、父の轍(てつ)を踏まないよう、政子や実朝を立てながら政務に当たったそうです。

「承久の乱」に勝利し、幕府の土台を固める

1219(建保7)年、源実朝が頼家の遺児・公暁(くぎょう)に暗殺される事件が起こります。公暁は、事件後すぐに捕まり、殺害されました。

覚園寺(かくおんじ)山門(神奈川県鎌倉市)。北条家歴代の尊崇を集めた寺院。吾妻鏡及び覚園寺縁起によれば、義時が建立した大倉薬師堂が起源(1218)。夢枕に薬師十二神将の戌神が現れ「来年の将軍参拝のお供はするな」とのお告げが。翌年、将軍は暗殺……

 

実朝にも公暁にも子がなかったので、源頼朝の直系は完全に途絶えてしまいます。そこで北条義時は、皇族から次期将軍を迎えようと、朝廷と交渉を重ねます。

一方、朝廷の最高権力者・後鳥羽(ごとば)上皇は、源氏の直系が絶えたことを復権のチャンスと捉えていました。そのため、1221(承久3)年、皇族の将軍就任を拒否し、全国の武士に北条義時追討の命令を下します。

承久の乱(じょうきゅうのらん)」の始まりです。

上皇の命令に背けば「朝敵(ちょうてき)」となるため、幕府に従う御家人の多くが動揺します。しかし、北条義時は、姉の政子と協力して御家人たちを奮い立たせ、朝廷軍に圧勝しました。

承久の乱での勝利で、幕府の支配体制は盤石となりましたが、義時はその3年後に、62年の生涯を終えます。死因は、病気または後妻に暗殺されたとの説があり、詳細は不明です。

北条義時の人物像

伊豆の弱小豪族から成り上がった北条義時には、陰謀をめぐらせる腹黒い人物のイメージが付きまといます。ただ、義時を悪人とみなす考え方は、後世の創作である可能性も否定できません。

実際の義時は、どのような人物だったのでしょうか。

冷静かつ穏やかな性格と伝わる

北条義時は、源頼朝の寝所を守っていたことから、武芸に秀でていたと考えられています。しかし、戦場で目立った武功をあげたという話は特に伝わっていません。どちらかといえば、頼朝の近くで戦略を練る立場でした。

鎌倉時代の出来事を記録した歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、源頼朝が義時を「穏便(おんびん)」と評したとの記載があります。

さらに頼朝は、義時がいつか自分の子孫を補佐するだろうとも言っています。いくら妻の弟といっても、実力がなければ、そこまで信頼されるはずはありません。

義時は武力をかさにきて暴れたり、有利な立場に甘んじたりせず、冷静に物事を処理できる人物として頼朝に信頼されていたといえるでしょう。

悪人扱いされた時代も

北条義時には、なぜか悪人として語られる時代がありました。忠誠心を重んじる江戸時代、将軍家をないがしろにした義時は、武士の風上にも置けない人物として描かれたのです。

明治時代には、承久の乱で皇族を処罰したことや、実の父親を追放したことが問題視されます。こうして義時は、逆臣や親不孝者の代表的な存在として伝わってきたのです。

しかし、歴史の常識は時代とともに変わるものです。近年では、北条義時の行動は、源頼朝が目指した武家政権を安定させるためのものだったと、評価する人も増えています。

北条義時にまつわるエピソード

生い立ちや、死因に不明な点が多い北条義時ですが、人間味を感じさせるエピソードがいくつか伝わっています。代表的な三つのエピソードを見ていきましょう。

源頼朝が恋を橋渡しした

北条義時の正室は、源頼朝の乳母を務めた「比企尼(ひきのあま)」の親族の娘です。名前は「姫の前(ひめのまえ)」と伝わっています。

義時は、幕府の女官として仕える「姫の前」を見そめ、何度もラブレターを送ります。しかし、全く相手にされず、悩んでいました。話を聞いた源頼朝は「姫の前」を呼び出し、義時に嫁ぐことを勧めたそうです。

その後、2人は仲睦まじく暮らしますが、後に北条氏と比企氏の権力争いに巻き込まれ、離縁することになります。

北条本家から分家していた

北条義時には「北条」ではなく、「江間(えま)」を名乗っていた時期がありました。「吾妻鏡」にも「江間小四郎(こしろう)」や「江間殿」の名で登場しています。

「江間」とは、北条氏の領地の隣にある地名です。元は違う豪族が治めていましたが、後に義時の領地となります。

当時、武家で名字を名乗れるのは、当主と家督を継ぐ嫡男だけとされていました。義時は次男なので、もともと北条を名乗る立場ではありません。

しかし、嫡男の宗時が亡くなった後も、引き続き江間を名乗っていたことから、父・時政は義時を分家させ、本家から切り離したと考えられています。

時政は、他の男子に跡を継がせるつもりだったのかもしれませんが、詳しい事情は不明です。また、いつから北条を名乗るようになったかもわかっていません。

北条の里巡り標識(静岡県伊豆の国市)。ここは義時や政子が生まれた所。三島大社から下田に至る下田街道の西側を旧道が通る。その道が頼朝・政子語らいの路だ。この路沿いに頼朝・北条家ゆかりの寺が並ぶ。

将軍暗殺の黒幕説もある

北条義時は長い間、3代将軍・源実朝暗殺の黒幕とされていました。

事件当日、義時は実朝のボディガードとして同行する予定でしたが、直前に体調を崩して他の人に代わってもらいます。義時の代わりとなった人も、実朝と一緒に殺されたため、義時は仮病を使ったのではと疑われたのです。

実行犯の公暁がすぐに殺害され、その後は詳しい調査が行われなかったことも、義時を怪しむ要因となりました。

ただし、この時点で将軍を暗殺しても、義時にメリットはありません。執権は、あくまでも将軍の補佐役ですから、将軍がいないと成り立たないのです。

実際、暗殺事件後の義時は、将軍の後継者探しに苦労する羽目になります。このため、近年では義時黒幕説は見直されつつあります。

御家人の頂点に立った北条義時

北条義時は小豪族の分家の立場から、御家人の頂点に立った人物です。最初の主君・源頼朝は、義時を「最高の家臣」と言いました。

発足したばかりの鎌倉幕府を、独裁的な頼家や私欲に走る父親、復権に燃える朝廷から守った義時は、頼朝にとって最高の家臣だったのかもしれません。

後世の評価はともかく、義時の功績をさまざまな角度から考察すると、歴史への理解がいっそう深まるでしょう。

もっと知りたい人のための参考図書

集英社版・学習まんが  世界の伝記NEXT「北条義時~鎌倉幕府をゆるぎないものにした真の立役者」

小学館版  学習まんが人物館「北条政子~鎌倉時代の礎を築いた尼将軍」

講談社  学習まんが 歴史を変えた人物伝「北条義時」

毎日ムック Newsがわかる特別編「北条義時と鎌倉がわかる」

ポプラ社 コミック版日本の歴史80 鎌倉人物伝「北条義時」

小学館 山本みなみ「史伝 北条義時~武家政権を確立した権力者の実像」

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構成・文/HugKum編集部

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