北条政子とは
有名人の妻や母として歴史に登場する女性はたくさんいますが、「北条政子(ほうじょうまさこ)」の場合は、少し事情が異なります。彼女はなぜ、歴史に名を残すことになったのでしょうか。
尼将軍と呼ばれた女傑
政子は、鎌倉幕府の中心人物として、政治の実権をにぎった女性です。鎌倉幕府は、夫の源頼朝(よりとも)が、政子の実家・北条氏をはじめとする関東の御家人(ごけにん)とともにつくり上げた、日本初の武家政権です。
政子は、頼朝の跡継ぎとなる男子を2人生んだほか、頼朝が亡くなって出家した後は「尼御台(あまみだい)」として御家人をまとめ、将軍となった息子をサポートしました。
3代で頼朝の直系が絶えると、朝廷と交渉して頼朝と血縁関係のある公家(くげ)の男児を将軍に迎え、後見人となります。「尼将軍(あましょうぐん)」の呼び名は、このときに付けられたものとされています。
本名は不明
実は、「北条政子」は、彼女の本名ではありません。
当時、女性の名前は公にしないことが常識でした。名前で呼ぶのは両親くらいで、本人が名乗ることも、他人に呼ばれることもなかったのです。政子も例外ではなく、本当の名前は不明です。
1218(建保6)年、政子は朝廷から「従三位(じゅさんみ)」の位を与えられました。このときに記録用の名前が必要となったため、父・北条時政(ときまさ)から一字を取って「政子」に決まったといわれています。
従って、当時すでに亡くなっていた頼朝や時政が、彼女を「政子」と呼ぶことはありえないのです。
北条政子の生涯
何の変哲もない田舎豪族の娘だった北条政子は、源頼朝と出会って運命が変わります。誕生から政権の中枢に君臨するまでの、政子の生涯を見ていきましょう。
伊豆で生まれ育つ
政子は1157(保元2)年、伊豆の豪族・北条時政の長女として生まれます。母親は同じ伊豆の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の娘といわれています。
頼朝の側近として仕え、後に鎌倉幕府の2代執権となった北条義時(よしとき)は、政子の弟です。政子が4歳のとき、在庁官人(地方の役人)だった時政は、平清盛の命令により伊豆に流された頼朝の監視役を務めることになります。
このとき、頼朝は、まだ14歳の少年でした。幼い頃に出会った2人は、次第にひかれあっていきます。
源頼朝と大恋愛の末、結婚する
頼朝と相思相愛の仲になった政子は結婚を望みますが、父の時政が許してくれません。北条氏は平氏の流れをくむ一族だったうえに、頼朝の監視役を命じられていたのですから、時政が反対するのは当然です。
1人の親としても、娘が流人(るにん)と結婚することなど考えられなかったのかもしれません。しかし、政子はあきらめませんでした。
他家に嫁がされそうになったところをひそかに抜け出し、頼朝と一緒に逃げたという話も伝わっています。娘の頑なな態度に根負けした時政は、ついに結婚を認めます。
さらに時政は頼朝の身内として、ともに平家打倒に立ち上がることになるのです。
尼将軍として幕府を支える
北条氏の後ろ盾を得た頼朝は、近隣の豪族を味方に付けて挙兵します。鎌倉に拠点を置いて平家に対抗するかたわら、武士による支配体制を整えていきました。
政子も妻として、また有力な御家人となった北条家の一員として、夫の事業を支えます。1199(建久10)年に頼朝が亡くなった後は、夫が遺した幕府を守ることに心血を注ぎます。
政子は幕府の体制を揺るがす者を、たとえ身内でも容赦しませんでした。尼将軍として君臨し、御家人を束ねた政子は、1225(嘉禄元)年に病に倒れ亡くなります。
北条政子の性格が分かるエピソード
尼将軍・北条政子は、本当はどのような性格だったのでしょうか。女性らしい一面が垣間見える、有名なエピソードを紹介します。
夫の浮気に嫉妬
政子が第2子を妊娠中に、源頼朝は「亀の前(かめのまえ)」と呼ばれる女性を、近所の屋敷に住まわせて通っていました。出産後に、その事実を知った政子は嫉妬に怒り狂い、親族に命じて屋敷を襲撃させます。
屋敷は破壊され、亀の前は命からがら逃げ出しました。現代なら、夫の浮気に妻が怒るのは当たり前ですが、当時は男性が複数の妻を持つことは普通だったのです。
にもかかわらず、政子は強烈な手段を用いて亀の前を追い出してしまいました。思いもよらない政子の行動に、頼朝も周囲の人々も驚いたことでしょう。
静御前に同情
平家を滅ぼした後、頼朝は弟の義経(よしつね)を追討することになります。都にいた義経は、寵愛していた白拍子(しらびょうし)の静御前(しずかごぜん)と別れて逃亡生活に入りました。
白拍子とは、歌や踊りを生業(なりわい)とする女性のことです。まもなく静御前は捕らえられ、鎌倉に連行されます。義経の行方を尋問した頼朝は、何も言わない彼女に業を煮やし、得意の歌舞を披露するよう命じました。
すると静御前は、頼朝に当てつけるかのように、義経を想う言葉を歌にして舞います。怒った頼朝は彼女を処刑しようとしますが、政子に止められました。
政子は静御前の姿に、かつて周囲の反対を押し切って頼朝と一緒になった、自分の姿を重ね合わせたのです。政子には、愛する男性を想う女性の気持ちが痛いほど分かっていたのでしょう。
静御前が解放されて鎌倉を去るときには、生活に困らないように宝石を与えたといわれています。
政治家としての実力
日本史上、将軍の代わりを務めあげた女性は、北条政子だけです。政治家としての政子の能力に迫ります。
比企一族との勢力争いを制する
源頼朝の死後、政子が生んだ長男・頼家(よりいえ)が2代将軍に就任します(1202)。しかし、頼家は乳母の夫・比企能員(ひきよしかず)を重用し、母や他の御家人の言うことに従おうとしません。
能員の娘が、頼家の妻となり長男を生むと、比企氏の勢いはさらに強まりました。比企氏ばかりを重んじて公平性を欠いた政治を行う頼家を、政子は見限ります。
頼家が病に倒れて危篤状態に陥った隙に、政治の実権を奪い、頼家の弟・実朝(さねとも)を次期将軍として擁立(ようりつ)したのです(1203)。病から回復した頼家は怒り、能員に北条氏討伐を命じます。
しかし、どこからか計画が漏れたため、能員は返り討ちにあってしまいます。謀反人(むほんにん)となった頼家は、政子によって伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され、まもなく短い生涯を終えました(1204)。
私欲に走った父親を追放
頼家の死後、12歳の実朝が、正式に3代将軍に就任し、祖父の時政が「執権(しっけん)」として補佐することになります。比企氏を滅ぼして権力を独占した時政は、あろうことか後妻の「牧の方(まきのかた)」が生んだ娘の婿を、次の将軍に立てようとします。
企みを察知した政子は、義時と組んで計画を阻止し、時政と牧の方を出家させて伊豆に追放しました。時政の後任には義時が就き、北条氏による執権政治が本格的に始まります(1205)。
幕府存続のためには、息子や父ですら処罰する毅然とした態度により、政子は御家人たちの信頼を勝ち取るのです。
幕府のピンチを救った名演説
自身の長男・頼家を幽閉した政子でしたが、1219(建保7)年に次男・実朝が頼家の息子・公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいます。実朝には子どもがなく、頼朝の直系の血筋は絶えてしまいました。
実朝の暗殺から2年後、後鳥羽(ごとば)上皇は、朝廷が政権を取り戻すために挙兵します。こうして起こったのが「承久(じょうきゅう)の乱」(1221)です。
上皇は、幕府に仕える御家人にも協力を呼びかけます。朝敵となることを恐れて動揺する御家人を引き留めたのは、政子の演説でした。政子は御家人に対して「頼朝のおかげで今の生活があるのだから、今こそ恩に報いるべき」と説きます。
また、挙兵は上皇のせいではなく、上皇をそそのかす周囲の人間のせいだと説明することで、朝敵になる恐れはないと御家人を安心させました。
政子の巧みな演説に心動かされた御家人たちは幕府を守ることを決め、都へ攻め上ります。士気の上がった幕府軍の前に、上皇軍はあっけなく敗れ去りました。
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鎌倉のスーパーレディ北条政子
北条政子は、男性中心の世の中で強力なリーダーシップを発揮し、鎌倉幕府を軌道に乗せました。地方豪族の娘で、決して高い身分ではなかった政子が、政治の実権をにぎるストーリーは、現代を生きる私たちにも勇気を与えてくれます。
はるか昔の鎌倉でひときわ輝いたスーパーレディ・政子の生涯を、未来を担う子どもにもしっかり伝えてあげましょう。
もっと知りたい人のための参考図書
角川つばさ文庫「鎌倉の姫将軍 北条政子」
小学館版 学習まんが人物館「鎌倉時代の礎を築いた尼将軍 北条政子」
文藝春秋企画出版部 田中弘孝「頼朝と政子」
文春文庫 永井路子「北条政子」
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構成・文/HugKum編集部