「鎌倉幕府については成立した年代を思い出すのがやっと」という人は少なくありません。そこで、鎌倉幕府の成り立ち・行われた政策・主な出来事・終末までを、まとめて解説します。
鎌倉幕府はいつ、誰が開いた?
武士による政治が行われる時代の幕開け、それが「鎌倉幕府」です。まずは、鎌倉幕府が始まった時代と、最初の統治者となった人物について紹介します。
始まりは平氏政権への不満
鎌倉幕府が開かれる少し前、世の中は退位した天皇(上皇や法皇)によって治められていました。この「院政」時代に、勢力のある武士たちは天皇や貴族に仕え、政治の中枢に現れるようになっていきます。
「平氏」と「源氏」は特に力のある武家でしたが、1160年に平氏が「平治の乱」を制すると、均衡した力関係は一気に平氏へ傾きました。
当時の平氏のトップであった「平清盛(きよもり)」は、武士として初めて「太政大臣(だいじょうだいじん)」という朝廷の最高職に就き、さまざまな政策を実行していったのです。
しかしながら、平氏政権を快く思わない人々も当然いました。各地で平氏打倒をもくろむ武士たちが挙兵するなか、最も勢力を誇ったのが源氏です。
1185年、源頼朝により成立
平氏と源氏は「治承・寿永の内乱(1180~1189)」と呼ばれる争いで激しくぶつかり合います。こうしたさなか、源氏の中心人物「源頼朝」は、戦いを通じて着々と力を付けていきました。
1180年、源頼朝は鎌倉に自身の邸宅となる「大倉御所(おおくらごしょ)」と、武家政治の中心となる「侍所(さむらいどころ)」を設置します。
1183年には朝廷より東国の支配権が認められ、1185年の「壇ノ浦の戦い」でついに平氏を滅ぼしました。
なお、かつては「1192年に鎌倉幕府が開かれた」とされていたのですが、これは、源頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年だからです。
しかし、諸国の統治を行う「守護」、荘園や公領で税の取り立てをする「地頭(じとう)」は1185年から置かれていたため、現在では、源頼朝による武家政権(=鎌倉幕府)は1185年に開かれていたと解釈されています。
どんな政策や出来事があった?
続いて、鎌倉時代に採られた政策と、主な出来事について紹介します。
御恩と奉公の主従関係
鎌倉時代の将軍と御家人(ごけにん)の間には、「御恩(ごおん)と奉公」という主従関係がありました。
御恩とは「将軍が御家人のこれまでの領地を認めたり、新たな土地を与えたりすること」であり、奉公とは「御家人が将軍や幕府のために働くこと」です。
戦(いくさ)となれば、御家人は将軍のために駆けつけます。「一大事が起きたとき」という意味で使われる「いざ鎌倉」とはここから生まれた言葉です。
戦乱の世にあっては、自分の領地をいつ誰に奪われてしまうやもしれません。土地を将軍から与えられるのは、御家人にとってとても重要なことだったのです。
北条氏による執権政治
源頼朝が開いた鎌倉時代は約150年続きましたが、将軍が直接統治していた時代は、初代将軍・頼朝の一代で終わってしまいました。
頼朝が亡くなると、頼朝の妻・北条政子(まさこ)の一族である北条氏の「執権政治」が始まります。執権とは鎌倉時代の将軍を補佐する役職のことで、北条氏が世襲していました。
1203年、実権をにぎった北条時政(ときまさ、政子の父)は、自分の権力を脅かす有力な人物を次々と排斥(はいせき)していきます。さらに、孫でもある二代将軍・頼家(よりいえ、頼朝と政子の子)までも暗殺しました。こうして、北条氏は強大な権力を手中に収めていったのです。
後鳥羽上皇が起こした承久の乱
鎌倉時代は、日本全土が幕府により統治されていたわけではありません。
北条義時(よしとき、時政の子で政子の弟)が実権をにぎっていた頃は、東日本は幕府が治めていましたが、西日本は「後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)」の院政によって治められていたのです。
幕府と朝廷が対立する中、1221年に「承久(じょうきゅう)の乱」が起こります。これは、「義時を討て」と院宣(いんぜん)を出して挙兵した後鳥羽上皇に対し、幕府側が軍を差し向けたことで起こった戦です。
結果は幕府の大勝に終わり、この戦をきっかけに幕府の勢力が西日本にも及ぶようになりました。
武士のための御成敗式目
「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」は、1232年、北条泰時(やすとき)の頃に作られた法律です。そのときの和暦を取り「貞永式目(じょうえいしきもく)」ともいいます。
土地の支配権・守護や地頭の仕事内容・争いが起きたときの解決方法などを中心にまとめたもので、全部で51カ条ありました。
初めてできた武士のための法律であり、適用対象は「幕府と御家人の所領内」のみです。当時は文字の読めない武士も多くいたため、理解しやすい文体で書かれていました。
鎌倉幕府が滅亡した理由は?
最後に、鎌倉幕府を滅亡へ導くきっかけとなった戦と、直接の原因について解説します。
元からの2度の襲来が遠因
13世紀後半、隣のユーラシア大陸の王朝「元(げん)」から、日本は2度にわたる襲来を受けました。1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」という2度の襲来を、あわせて「元寇(げんこう)」といいます。
元の皇帝フビライ・ハンは、祖父であり「モンゴル帝国」を築いたチンギス・ハンの意思を継ぎ、その領土を拡大していました。その最中に「黄金の国ジパング」の話を聞き、日本を侵略しようと考えたのです。
大軍を送り込まれたものの、日本は天候に味方されたこともあって元の撃退に成功します。しかし、この戦が原因で、御家人が幕府へ不満を抱くようになったのです。
1333年、後醍醐天皇が倒幕を成し遂げる
幕府と御家人は、御恩と奉公の関係で結ばれていました。しかし、外国の軍である元を追い払っても、戦で活躍した武士たちに与えられる領土は手に入りません。
奉公に対する御恩がないことに不満を募らせた御家人たちを引き込み、幕府への反乱を企てたのが「後醍醐(ごだいご)天皇」です。
後醍醐天皇側について倒幕派となった御家人のうち、足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府の監視機関である「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉へ攻め込み、1333年に鎌倉幕府はその歴史に幕を下ろしたのです。
鎌倉幕府を本から学ぶ
さまざまな出来事が起こった鎌倉幕府の時代。この時代についてもっと詳しく学べる本をご紹介します。
鎌倉幕府について学べる本【子ども向け】
まんがで歴史を学べるシリーズは、子どもにわかりやすい構成でありながら、しっかりと史実をふまえた教科書におとらない内容です。
この巻では、源頼朝が鎌倉幕府を開き、初めての武家政権ができた鎌倉時代のできごとを描かれています。平氏打倒に貢献した源義経はなぜ兄の頼朝から命を狙われることになってしまったのか。源氏将軍が三代でほろんだ後、政治の仕組みはどう変わったのか。海をわたって攻めてきた蒙古軍に対して、幕府はどう戦ったのか。
等々、鎌倉幕府の足跡を忠実にまんがで伝えます。また、鎌倉時代特有の文化や仏教についても詳細に解説します。
全15巻の新・日本史学習まんがシリーズ。今回発売の4巻で扱うのは、日本独自の華やかな国風文化が成長していった平安時代中期から、後白河法皇が院政をしいた後、平氏や源氏らの武士集団が台頭していった平安時代末期までの時代です。
目にやさしい紙を使いふりがな付きで読みやすく、またとてもやさしい内容なので、小学校入学と同時に日本の歴史にチャレンジできます。時代ごとに1巻で完結する内容になっていますが、12巻を通して読むとさらに楽しいストーリーになっています。コラムページもふんだんにあり、楽しく読んでいくうちに歴史の事実にどんどんくわしくなります。
鎌倉幕府について学べる本【大人向け】
パパママ用に、本格派大人向けのおすすめ本をご紹介します。歴史好きな人はぜひチェックしてみてください。
権力を握った幕府は、なぜ朝廷を滅ぼして唯一絶対の地位を求めなかったのか。そして、「武家の棟梁」として誕生した幕府が、どのようにして日本の統治者としての自覚に目覚めていったか……。公家と武家、京と鎌倉を対比しつつ、以後七百年に及んだ日本独自の二重権力構造の源泉を探ります。
「武士とは何者で、なぜ生まれたのか」を検証した「武士を誕生させたケガレ思想を徹底解明」、日本人の防衛意識を決定付けた『蒙古襲来と日本人のカミカゼ信仰』など、「井沢史観」を豊富な写真、図版でわかりやすく解説されています。
鎌倉幕府は約150年続いた武士政権
鎌倉幕府は、人望あるカリスマ武将・源頼朝によって開かれた幕府です。しかし、頼朝の没後は北条家に実権を奪われてしまいます。武士による武士のための世の中は、御恩と奉公ではじめはうまく回っていました。もし元寇がなければ、鎌倉幕府はもっと長く続いていたのかもしれません。
そして2022年のNHK大河ドラマの舞台は、鎌倉幕府です。タイトルは『鎌倉殿の13人』。三谷幸喜脚本で、主演の小栗旬が北条義時を演じます。今から鎌倉幕府について知識を備えておくと、ドラマをもっと楽しめるかもしれませんよね
構成・文/HugKum編集部