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確実にやってくる〝ソロ社会〟へ適応するためのヒント
それでも人は、何らかのカタチでコミュニティにつながり、幸福だと思える人生をおくりたいもの。では私たち大人は、その方法をどう体得し、子どもたちに見せ、伝えていけばいいのでしょうか?
もはや家族をもつとかもたないとか、産むのか産まないのかといった、従来のコミュニティへの固定観念や考え方を手放すタイミングに、私たちはいるのかもしれません。確実にやってくる〝ソロ社会〟へ適応するためのヒントを、最新著書『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』を上梓したばかりの荒川和久さんに聞いてみました。
※本稿は、『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』の内容を一部修正加筆したものです。
「一人で生きる」ことと、「人とつながる」こととは、別物ではない
私は以前より「ソロ社会での生き方」について言及してきており、企業や自治体から「人のつながり」というテーマで講演依頼をいただくことが多いんです。「一人で生きる」ではなく、「人とつながる」・・・・・不思議に思われますよね。
でも実は、「一人で生きる」ことと、「人とつながる」こととは、別物ではないんです。そもそも「人とつながる」ということも、必ずしも「誰かと一緒に生きる」ということと同義ではありません。
日本に限らず、多くの国で、人々の生活基盤として「所属するコミュニティ」があります。大きな分類でいえば、「地域」「職場」「家族」という3つのコミュニティです。
地域とは、かつてムラ社会と呼ばれたように、ひとつのムラに住む者同士が互いに親密に、いわばひとつの家族のように助け合って生きてきました。しかし、今でも一部の地方で名残りがあるものの、都市への人口流出や高齢過疎化によって、ムラ自体の多くが消滅に向かっています。
地域に代わって、コミュニティの中心的役割を果たしたのが、職場です。かつては多くの企業で独身寮が完備され、既婚者や家族のためには全棟借り上げの社宅まで用意されていました。また会社は社員を家族同然の終身雇用で厚遇し、社員はそれに報いるために滅私奉公するという、「家族」的なコミュニティの意味合いも含まれていました。しかし、それも平成から令和へと変遷する中で、地域コミュニティ同様、一部の中小企業を除けば、ほぼ消滅しかかっています。むしろ、「社員のプライベートに立ち入ってはいけない」という風潮の方が強まってきました。
この2つのコミュニティの変遷により、「家族」のカタチも変わりました。かつて昭和の時代は、ひとつのテレビで家族全員が同じスクリーンを観ていましたが、今では個人がスマホというスクリーンを所有し、個人の部屋で個人がバラバラのスクリーンを観ています。
つまり、代表的な3つのコミュニティすべてが、現在では崩壊しつつあるのです。別のいい方をすれば、「今まで提供されてきた安心な居場所の崩壊」です。
「所属するコミュニティ」に共通するのは、「囲われた中の安心」でした。その囲いの中に自分の身を置き、居場所を得ることこそが安心でした。
しかし「囲われた中だけは安心だ」という信念が強すぎるがゆえに、唯一の居場所に固執し、依存するという弊害も生みます。同時に、安心と引き換えに、所属員としての掟やしきたりに従うという制限を受け入れることにもなります。そう、「所属するコミュニティ」とは、自由と引き換えに安心を手に入れるものであり、対立と引き換えに身内の結束を強固にするものなのです。
肝に銘じておかなければいけないのは、「所属するコミュニティ」は決して永続的なものではないということです。退職すれば職場の所属からは離脱しなければならないし、家族であっても離婚や死別はあり得る。子どもとて、いつまでも親元にいるわけではありません。
個人化する社会においては、誰もがいつか「一人」になる
「居場所がない」と嘆く人がいます。学校や家庭の中に居場所のない若者のほかに、職場や地域の中に居場所を見出せない高齢者もいるでしょう。場合によっては、家の中に居場所のないお父さんもいるかもしれません。しかし、そうした人にとって本当の解決策とは、居場所があればいいということなのだろか? と私は思うんです。
これまでの居場所=コミュニティでは、一定の枠内という制限があるにせよ、進むべき安全な道が提示されていました。ところが居場所が崩壊した今、人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになります。それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくします。
私たちが迎えつつある社会は、そういう「個人化する社会」そのものなんです。昨今の非婚化や離婚の増加は、まさに「選択の自由を個人が得た」結果でしょう。独身者だけに関わる話ではありません。好むと好まざるとにかかわらず、結婚しても家族がいても、誰もがいつかは一人に戻る可能性があるわけなのですから。
ではどうやって、人、またはコミュニティにつながればいいのか?そこで私が提案したいのが、「接続するコミュニティ」という視点です。
コミュニティには「所属」ではなく「つながり」に行く
は? と思いますよね。コミュニティとは、所属するものであって、その帰属意識が人々に安心を提供するものだと考えられているから。でも、そうでしょうか? 本当に所属をしなければ、人とのつながりは生まれないのでしょうか?
私の答えは、否、です。
たとえば、趣味のコミュニティなら、趣味を行う時だけそのメンバーと接続していますよね。それ以外の時間に相手がどんな仕事をしているとか、どんな生活をしているとかは気にしないでしょう。ところが趣味の集まりの時間は、協力したり、共に喜びを分かち合ったりしているはず。これが「接続」です。
こういうつながり方なら、ひとつのコミュニティがなくなっても、自分自身を見失うことはなくなります。むしろ時間が経つにつれて、「接続するコミュニティ」がすべて入れ替わることもあるでしょう。さらに、「所属するコミュニティ」とは違って単発的な関わりもOKですし、継続性すらなくてもいい。必要なのは、接続するために自ら出向くこと、そう、その「場所」に「出かける」ことだけです。そこに行くという行動をすることで、ちょっとだけ前向きになっていることって、ありませんか? 私はそれを「居場所」に対して「出場所」と呼んでいます。
友達や趣味がなくても、誰かと接続する機会は案外たくさん見つかる
場所に縛られる必要もありません。散歩や読書、という行動もそう。その際、できれば、自宅で本を読むより、ファミレスでもカフェでも公園でもいいので、どこかいつもの居場所と違う場所に「出かける」ことで、より一層「出場所」感が増します。同様に、映画館で映画を観ることも、コンサートやライブ、寄席などに行くことも「出場所」になる。「人と会う、人と話す」という行動もそれ自体が「出場所」になります。「そんな友達などいないし・・・・」と悲観する必要はありません。必ずしも、気心のしれた友達である必要はないのです。むしろ、まったく知らない赤の他人との刹那のつながりが、結果として自分に刺激をもたらす場合も多いはず。
友達がいなくても、趣味などなくても、誰かと接続する機会は案外たくさんあります。重要なのは、静的な「安心な居場所」を作ることではなく、動的な行動をするための「出場所」の方なのです。
どこかのコミュニティに所属することで、安心な居場所を求めることだけに固執するのではなく、接続点を多く持ち、自分自身の「出場所」を作っていく。その「出場所」において、誰かと出会ったり、何かと触れ合うことが、結果的に自分自身の内面に安心な別のコミュニティを次々と築いていくことにつながる。行動した分だけ、地層のように、それは自分の内面に積み重なっていく。行動し、体験したからこそ「あなたの中にたくさんのあなたが充満」することになります。
「居場所がない」という子どもたちが増えているのだとしたら、それは大人たち自身が自分の「安心な居場所」だけに依存して、そこだけに子どもたちを閉じ込めようとしているからではないでしょうか。何より自分自身が「居場所」の呪縛にとらわれ、「居場所に独りぼっち」になってはいないでしょうか。
記事監修
居場所がなくても幸福と思える生き方とは?
2040年には、独身者が5割に。だれも見たことのない、超ソロ社会が到来する。ますます個人化が進む中、私たちは家族や職場、地域以外に、誰と、どこで、どうつながれば、幸福度を高められるのか?また、親として、人生の先輩として、これからその時代を生きる子どもたちに何を伝えられるのか?
家族、学校、友人、職場、地域・・・・安心できる所属先としての「居場所」は、年齢を重ねるごとにつくるのが難しくなり、時に私たちは「居場所がない」と嘆く。
また「そこだけは安心」という信念が強すぎるがゆえに、固執し、依存するという弊害も生まれる。では、居場所がなく、家族や友達をもたず、一緒に食事をする相手がいないのは、「悪」なのだろうか? 常に誰かと一緒でなければしあわせではないのだろうか?
社会の個人化も、人口減少も、もはや誰にも止められない。私たちに必要なのは、その環境に適応する思考と行動だ。
著者が独身研究を深掘りした先に示すその答え=〔接続する〕関係性、〔出場所〕という概念とは?
結婚していてもしていなくても、家族がいてもいなくても、幸福度を上げるための視点とヒントに満ちた一冊。