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ごく普通の親子。周囲からは「よい家族」と思われていた
――小さい頃はどんなご家庭で育ったのですか?
東さん:私は一人っ子で、父母、母方の祖母、わんちゃんと暮らすふつうの家でした。父も母も芸能関係の仕事をしていて、幼い頃はバレエを習わせてもらっていました。中学・高校はミッション系の私立に通っていたので、裕福とはいえないけれど、食べるものに困るわけではないような経済状態でした。
私のバレエの発表会には父母そろってきてくれて、父も「上手だったよ」とほめてくれるような人。たぶん周囲からは「よい家族」に見えていたと思います。

――さしつかえない範囲で虐待の様子を教えてくださいますか。
東さん:ずっと記憶にもなかったし、虐待を受けているって思っていなかったんです。これからお話しすることは、20代になって摂食障害やオーバードーズ(処方薬の飲み過ぎ)やリストカットを繰り返して苦しんでいるときに、後に私と同性婚(※編集部注)をした彼女から「カウンセリングを受けたほうがいいよ」と言われて、信頼できるカウンセラーに過去を聞き取ってもらって思い出したことです。
3歳から実父からの性虐待が始まった
東さん:3歳の頃からお風呂場で性被害を受けていました。ただこれは思い出す・思い出さない以前の問題で、幼い頃にお父さんが体を洗ってくれているときに、何か触られ方がおかしいなって思っても、「これはお父さんとお風呂に入って体を洗ってもらっているということだ」と思うしかないですよね、生活に組み込まれていて。でも、やがて、小学生になるとさらに被害が深刻化していきました。
※(編集部注)日本では法的な婚姻制度としての同性婚は整っておらず、同性カップルの権利保障のためのパートナーシップ制度が多くの自治体で導入されている状況にとどまっています。本記事では取材対象者の表現を尊重し「同性婚」と記載しています。
小学生から中2までは父に性行為をされて、拒食症や不登校に
――性行為をされた、ということでしょうか。
東さん:そうです。中学2年まで続きました。幼い頃に性被害に遭った人にもさまざまな方がいて、いやだとはっきり言う人もいるし、抵抗する方もいるし、記憶がある方もいらっしゃるけれど、私は小さい頃から日常になっていて、その後あまりに衝撃的で記憶が乖離してしまっていました。
*虐待を受けた人には記憶の「乖離(かいり)」 がおこることがあります。虐待の事実を凍結することです。

東さん:お風呂場で被害にあっている自分と父を、斜め上から眺めている、というような映像が、ネガフィルムのように頭の中にありました。
それが当たり前で、抵抗できるとか誰かに相談できるとか、思いつきもしなかったです。小学校から拒食症になったり、学校に行けなくなったり……。自分がなぜそうなるのか、わからないままでした。
母に訴えたけれど聞かないふりをされた
――お母様やお祖母様は気づいてた可能性はありますか?
東さん:気づきますよね。本当にごくごく一般的な一軒家ですから。母も祖母も同じ家にいて料理を作っている。キッチンからお風呂場も近いですしね。洗濯をすれば私の下着に血がついているんです。私も母に一度、お風呂場のことを訴えたことがあるんです。でも、母は耳を貸してくれませんでした。
私、今でもテレビの相撲中継が見られないんです。夏の夕方にちょうど相撲中継がある頃、お風呂に入る。相撲が性被害の記憶を思い出すトリガー(きっかけ)になっているようで。

東さん:母も複雑ですよね、妻として。それは今になってわかります。祖母は祖母で、いろいろあってうちに住んでいるような感じだったので、何も言えなかったのかもしれません。……でも、母が駆け寄ってきて小さな小雪ちゃんをバスタオルに包んで、「あなたは悪くない」って言ってくれたら、私の未来も違っていたと思います。
受けた傷は一生癒えることはない
東さん:性被害自体も人を生きがたくすることですが、それを知っている家族に助けてもらえなかったことがさらに生きる力を削ぎます。小さい頃から私は虚無感を感じながら育ってきた。40歳になった今、毎日元気に生きられていてよかったと思っているけれど、子どもの頃に受けた傷は一生涯癒やされることはないです。
児童相談所でいろいろ聞かれても「お父さんのことは大好きです」
――小学生になって性加害がひどくなってからは、東さんは拒食症になったり不登校になったりしていたのですよね。誰かほかの人が気づかなかったのでしょうか。
東さん:自分は単に体が弱い子だと思っていました。でも、学校が児童相談所につないでくれたのかもしれないですね。何度か児童相談所に行ったのは覚えています。そのときは車で父と母が送って行くんですよ。父と母も別室で聞き取りを受けていましたし、私は心理テストみたいな感じで箱庭を作っていました。私もいろいろ聞かれたと思います。
でも、認知もゆがんでいて、私の中では「お父さんは動物園に連れて行ってくれたり、バレエの発表会に来てくれたり、お芝居を観せてくれたりするやさしい人。お父さんのことが大好き」だったんです。もし保護されていたとしても、父と母をかばっていたと思います。
宝塚ではパワハラもあり、自分も下級生に加害……
――その後、高校のときに宝塚歌劇団への道を選び、入団されました。が、厳しいレッスンや先輩のパワーハラスメントに苦しみ、結局退団することになりました。その頃から心も体もつらくなっていったのですよね……。
東さん:宝塚に憧れ、入団がかなって、最初はウキウキしていました。けれど、うわさ通りとても厳しかった。レッスンが厳しいというより、上級生がパワーハラスメントのような形で下級生の所作のひとつひとつも厳しくやり直させたり。廊下を直角に曲がるという有名なエピソードからもわかりますよね。
「伝統指導」という名の理不尽なルールの中で、きちんと言われたとおりにできないと食事もとれない、お風呂もなかなか入れないなど、心身共に苦しかった。それは、「厳しい」というより「おかしい」と感じるものでした。

東さん:けれど、自分たちが上級生になると下級生に同じことをするんです。そうした「しきたり」の中で若い女性たちは生きていきます。いじめのようなこともたくさんあり、団員の自殺事件も記憶に新しいですよね。私はそうした環境にどうしてもなじめませんでした。舞台に立つことは大好きで、本当に楽しかった。けれど、体は限界を迎え、耐えきれず、退団することを決めました。
宝塚を辞めて夢も収入もなくなりオーバードーズやリストカットを
東さん:宝塚をやめてからは、非常に落ち込みました。高校の同級生たちは大学生になり、毎日を充実して営んでいるのに、宝塚をやめた自分は将来の夢も収入の道も自ら閉ざしてしまった、「自分は本当にダメな存在なんだ」とオーバードーズ、リストカットを繰り返して……。
そうかと思えば、のちに同性婚をし、一緒に暮らしていた彼女には、宝塚で下級生に厳しくしたことをまるで武勇伝のように語ったりしていたのです。彼女は健康な育ち方をした人でしたから、うつ状態でたくさん薬を飲んでいる私に驚き、心配してくれました。私がおもしろおかしく話す宝塚の武勇伝に対しても、「小雪ちゃんはきちんとカウンセリングを受けたほうがいい」とアドバイスをくれました。

東さん:これまで精神科に通っても薬を渡されるだけで根本的なことは変わらないし、不安になるからたくさん薬を飲んでしまって倒れたりしていました。なぜ自殺願望を持ってしまうのか、カウンセリングの専門家に相談して、しっかり向き合い、ちゃんと解決したほうがいいと言ってくれました。「笑い事じゃないよ。やっていることの中の暴力性に着目しないと」と、パワハラや薬物への依存などについて説明してくれました。
催眠療法で過去の自分を引き出し、性被害にあったことを自覚した
東さん:カウンセリングの専門家は、私の話をよく聞いてくれました。だんだん意識下の幼い頃の性被害の画像みたいなものが存在することもわかってきて、それがトラウマとしてフラッシュバックしたときに、「生きている感覚を得たくて、そしてトラウマを忘れたくて、リストカットしてしまう自分」についても、認識するようになってきました。
カウンセラーから性虐待について聞かれたときに「性虐待は受けたことがありません。私のお父さんはそんなことをする人じゃありません」と、とっさに言葉が出ました。カウンセラーは「虐待をしたのはお父さんだけとは限りませんよ」と言いました。記憶が乖離していても、私は心のどこかで父の加害を認識していたのです。そうしてしっかりと話し合った上で、催眠療法を使って幼い頃の記憶の中に一緒に入っていってくれました。

東さん:それでようやく自分がなぜ自己肯定感を持てずにリストカットやオーバードーズを繰り返してしまうのか、その理由がわかりました。
今でも父のことを夢に見る 「性被害」のことを話さなければ
――ご両親は今、どうしているのですか?
東さん:父は2008年、私が20代前半のときにがんで亡くなっています。父とついに性被害の話をすることなしに終わってしまいました。今でも悪夢を見るんです、それは被害そのものではなくて、性被害のことを父に話さなきゃって思うことなんです。
でも、実は私はどこかで「お父さんを憎むことではない」と思っている部分もあるのです。自分の人生に多大な被害を与えたことは確かなのですが、憎しみとか怒りがわいてこないのが、難しさでもあります。被害については話していいことだと思って本を書きました。それが自分の支えになっています。母は存命ですが、距離を置いています。

東さん:性被害に遭われた人は世の中にたくさんいると思います。私のように顔や名前を出して公表している方もいれば、絶対に言えないと思って生きている方もいます。私は公表しましたが、言わなくてもいいのです。ただ、できるだけ健康に生きていけたらと願っています。
――読者のみなさんは何を感じて読まれていたでしょうか。性被害に遭うことが、長く尾を引くことは理解できますが、家族が性加害者の場合、どんな思いを持つかの複雑さを知りました。想像以上に深い傷を残す性被害について、私たちは目を背けることなく見つめ、周囲で起こっていることを知ったら立ち上がる力を持っていたいですね。
後編では同性が好きだと気づいたときのこと、ディズニーシーでの同性婚を挙げたときのことなど伺いました
※日本では法的な婚姻制度としての同性婚は整っておらず、同性カップルの権利保障のためのパートナーシップ制度が多くの自治体で導入されている状況にとどまっています。本記事では取材対象者の表現を尊重し「同性婚」と記載しています。
お話を伺ったのは
1985年、石川県生まれ。
東京ディズニーシーで初の同性結婚式を挙げ、日本初の同性パートナーシップ証明書を取得。(2017年に解消)
LGBT・女性の生き方・自殺対策について講演、研修、執筆など幅広く活動し、TV出演多数。
著書に『なかったことにしたくない 実父から性虐待を受けた私の告白』『同性婚のリアル』などがある。
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フォトジャーナリスト安田菜津紀とのYouTube番組「生きづらいあなたへ」(https://youtu.be/cG8O5JO2dhU)が好評配信中。
取材・文/三輪泉 撮影/五十嵐美弥